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## エピソード8 ### 「上手くなくていいんです」

## エピソード8


### 「上手くなくていいんです」


 夏のスクーリングは、午後になると教室の空気が少し重くなる。


 外の蝉の声が窓越しに響いていた。


 恒一は机に肘をつきながら、自分の詩を見つめていた。


 何度読んでも、やっぱり自信はない。


「これで提出していいのか……」


 昨日の夜、電車の中で書いた文章。


 それは確かに“自分の言葉”だった気がする。


 でも、それだけだ。


 綺麗でもない。

 整ってもいない。

 何か特別なものがあるとも思えない。


---


「……迷ってますか?」


 横から声。


 顔を上げると、夏音がいた。


 いつの間にか隣の席に座っている。


「いや……これ、詩としてどうなのかなって」


 紙を見せると、夏音は軽く目を通した。


 数秒。


 静かな時間。


 恒一はその沈黙が少し怖かった。


 ダメ出しされる気がした。


 しかし――


「いいと思いますよ」


 あっさりだった。


「え?」


「ちゃんと書いてます」


「でも、全然うまくないし……」


 そう言った瞬間、夏音は小さく首を振った。


「うまくなくていいんです」


 その言葉は、柔らかかったけど揺るがなかった。


---


 恒一は少し黙る。


「詩って、正解とかあるんじゃないのか?」


「ないですよ」


 即答だった。


「じゃあ、何でもいいってこと?」


「何でもじゃないです」


 夏音はノートを軽く叩く。


「“本当のこと”だけです」


---


 本当のこと。


 その言葉が胸に残る。


 恒一は自分の詩を見つめ直した。


 夜勤明けの電車。

 眠れない朝。

 どこかへ戻っていく感覚。


 それは全部、嘘じゃない。


---


「でもさ」


 恒一は小さく笑う。


「こんなの書いて、意味あるのかな」


 夏音は少しだけ視線を上に向けた。


 考えているようで、迷っていない顔。


「意味って、後からつくものだと思います」


「後から?」


「はい。今はただ書けばいいんじゃないですか」


 その言葉は、不思議と軽かった。


 なのに、重く残る。


---


 講師が教室の前で言う。


「そろそろ提出してください」


 ざわめきが広がる。


 みんなが紙をまとめ始める。


 恒一は一瞬だけ迷った。


 提出するかどうか。


 これは詩なのか。


 本当にこれでいいのか。


---


 そのとき、夏音が立ち上がる。


 ノートを閉じながら、静かに言った。


「それ、出したほうがいいですよ」


「え?」


「たぶん、それが今のあなたなので」


---


 その一言で、何かがほどけた。


 恒一はゆっくり頷く。


「……わかった」


 紙を折らずに、そのまま提出箱へ入れる。


 手が少しだけ震えていた。


---


 教室を出ると、夏の光が強かった。


 廊下の窓から見える空は、白く眩しい。


 恒一は少し立ち止まる。


「なあ」


 夏音が振り返る。


「俺、本当にこんなのでいいのかな」


 夏音は少しだけ笑った。


 初めて見る、柔らかい表情だった。


「“こんなので”って思ってるうちは、ちゃんと書けてます」


「どういう意味だよ」


「ちゃんと悩んでるってことです」


 そう言って、歩き出す。


---


 恒一はその背中を見ながら思った。


 この人は、どうしてこんなに落ち着いているんだろう。


 でも同時に思う。


 自分も少しだけ、変わり始めているのかもしれない、と。


---


 蝉の声が、やけに遠く感じた。


 そしてその日から、恒一は初めて――


 「書くことをやめない理由」を、探し始めることになる。


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