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## エピソード75 ### 「春の手前で」

## エピソード75


### 「春の手前で」


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 三月。


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 風の冷たさが少しだけ弱くなっていた。


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 卒業式の準備で、学校は慌ただしい。


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 体育館には椅子が並び。


 廊下には飾り付け。


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 恒一は資料を抱えながら歩いていた。


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「朝倉先生ー!」


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 後ろから声。


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 振り返ると、卒業を控えた生徒たち。


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「先生、泣く?」


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恒一:

「泣かねえよ」


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「絶対泣くじゃん!」


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 笑い声。


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 恒一は苦笑する。


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 でも。


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 本当は少しだけ分かっていた。


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 たぶん。


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 泣く。


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## 放課後の教室


 夕陽が差し込む。


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 誰もいない教室。


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 恒一は、一枚の作文を読んでいた。


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> “朝倉先生の授業で、言葉が少し好きになりました”


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 短い文章。


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 でも。


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 胸の奥に、静かに残る。


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 教師になったばかりの頃。


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 自分に何ができるのか分からなかった。


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 ちゃんと届いているのか、ずっと不安だった。


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 でも今は少しだけ分かる。


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 大きなことじゃなくていい。


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 一つの言葉でも。


 一人の子に届けば。


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 それは、意味がある。


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## 夜


 スマホが震える。


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夏音:

「先生、今なにしてますか」


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恒一:

「学校」


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夏音:

「遅いですね」


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恒一:

「卒業式準備」


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 既読。


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夏音:

「先生っぽいです」


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恒一:

「どういう意味だ」


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夏音:

「ちゃんと、“先生”になりました」


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 その言葉に、少しだけ黙る。


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 以前なら照れて誤魔化していた。


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 でも今は。


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 少しだけ、その言葉を受け取れる。


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恒一:

「……そうかもな」


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 送信。


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 すぐ既読。


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夏音:

「今日は素直ですね」


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恒一:

「たまにはな」


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## 通話


 その夜。


 二人は通話を繋いだまま、それぞれ作業をしていた。


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 夏音は原稿。


 恒一は卒業式の資料。


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 時々、会話する。


 時々、沈黙する。


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 でも、不思議と落ち着く。


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夏音:

「先生」


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恒一:

「ん?」


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夏音:

「来月で、新年度ですね」


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恒一:

「だな」


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夏音:

「また忙しくなりますね」


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恒一:

「怖いかもな」


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夏音:

「でも先生、前より強いです」


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 恒一は少し笑う。


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恒一:

「お前、最近ほんと褒めるな」


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夏音:

「好きなので」


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 さらっと言う。


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 前より自然に。


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 でも、そのたびにちゃんと嬉しい。


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## 深夜


 資料を作り終えたあと。


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 恒一は窓を開ける。


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 少し暖かい夜風。


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 春が近い。


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 スマホの向こうで、夏音が小さく欠伸をする。


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恒一:

「眠そうだな」


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夏音:

「少し」


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恒一:

「寝ろ」


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夏音:

「先生もです」


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 少し静かな時間。


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 そして。


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夏音:

「先生」


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恒一:

「ん?」


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夏音:

「春になっても」


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 少し間。


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夏音:

「隣にいてください」


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 その言葉は。


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 恋人としての言葉でもあり。


 人生のお願いみたいでもあった。


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 恒一は、夜空を見る。


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 星が少しだけ見える。


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 そして、静かに答える。


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恒一:

「……いるよ」


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 短い。


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 でも。


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 それは、今までで一番まっすぐな約束だった。


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