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## エピソード64 ### 「好きという言葉の前」

## エピソード64


### 「好きという言葉の前」


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 その夜から。


 恒一は、夏音の最後の言葉ばかり考えていた。


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> 「この本、完成したら」

>

> 「ちゃんと、伝えたいことがあります」


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 “ちゃんと”。


 その言葉が妙に残る。


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 曖昧な関係だった二人が、初めて“答え”に近づいている気がした。


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 でも同時に、少し怖い。


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 もし言葉になったら。


 もし形になったら。


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 今までの距離は、戻れなくなる。


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## 学校


 夏休み中の職員室。


 エアコンの音だけが響いている。


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 恒一は教材を整理しながら、ぼんやり窓の外を見ていた。


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「朝倉先生」


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 隣の教師に呼ばれる。


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「最近、なんか雰囲気変わりました?」


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恒一:

「は?」


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「前より柔らかいっていうか」


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 思わず苦笑する。


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(全部、あいつのせいだろ)


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 でも、その変化を嫌だとは思わなかった。


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## 夜


 スマホが震える。


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夏音:

「起きてますか」


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恒一:

「起きてる」


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夏音:

「少しだけ通話しませんか」


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 恒一は少し止まる。


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 通話。


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 今まで文字ばかりだった。


 声は、スクーリングでしか知らない。


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恒一:

「珍しいな」


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夏音:

「だめですか」


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恒一:

「いや」


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 少し間。


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恒一:

「する」


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## 通話


 呼び出し音。


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 数秒。


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「……こんばんは」


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 夏音の声。


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 文字で知っている人の声なのに、少し違う。


 近い。


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恒一:

「こんばんは」


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 自分の声が、少しだけ硬い。


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 少し沈黙。


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 二人とも、タイミングを測っている。


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夏音:

「緊張してますか」


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恒一:

「してねえよ」


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夏音:

「してますね」


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恒一:

「うるせえ」


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 少し笑う声。


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 その笑いだけで、距離が縮まる。


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## 深夜の会話


 通話は切れなかった。


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 学校の話。


 子どもの話。


 介護の仕事の話。


 大学のレポートの話。


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 そして、詩の話。


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夏音:

「先生、最近変わりましたよね」


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恒一:

「だからその呼び方やめろ」


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夏音:

「じゃあ恒一さん」


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 その呼び方に、一瞬だけ呼吸が止まる。


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恒一:

「……急だな」


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夏音:

「嫌でしたか」


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恒一:

「嫌じゃない」


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 静かな間。


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 通話越しの呼吸だけが聞こえる。


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## 夏音の本音


 そして突然。


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夏音:

「私、前は怖かったんです」


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恒一:

「何が」


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夏音:

「人と近づくことです」


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 声が少しだけ弱い。


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夏音:

「言葉って、近づけるけど」


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夏音:

「同時に、壊れるのも早いので」


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 恒一は黙って聞く。


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夏音:

「だからずっと、“読んでる側”でいたかったんです」


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 その気持ちは、少し分かる。


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 書く側より、読む側の方が安全だ。


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 傷つきにくい。


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 でも。


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夏音:

「でも、先生を見てたら」


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恒一:

「ん?」


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夏音:

「書きたいって思いました」


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 胸の奥が熱くなる。


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 教師になったことを褒められた時とも違う。


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 もっと深い場所に届く感じ。


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夏音:

「だから」


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 少し間。


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夏音:

「ちゃんと、感謝してます」


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 恒一は窓の外を見る。


 夜。


 静かな街。


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 何かを言おうとして、止まる。


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 言葉が見つからない。


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 でも、その沈黙を夏音は急かさない。


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 しばらくして。


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恒一:

「なあ」


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夏音:

「はい」


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恒一:

「会いたい」


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 自然に出た。


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 考える前だった。


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 通話の向こうが静かになる。


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 そして。


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夏音:

「……私もです」


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 その瞬間。


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 今までずっと曖昧だった距離が、少しだけ形を持った。


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 まだ“好き”とは言っていない。


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 でも。


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 その前にある感情は、確かにそこにあった。


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