## エピソード39 ### 「触れてしまった日」
## エピソード39
### 「触れてしまった日」
その日は、いつもより少しだけ暑かった。
春の終わりと夏の始まりが、どっちつかずのまま街に混ざっている。
恒一は仕事帰り、駅前で足を止めていた。
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理由は、特にない。
ただ、少しだけ呼吸を整えたかった。
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そのとき、後ろから声がした。
「朝倉さん」
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振り向くと、同僚だった。
「やっぱりそうだよね。本の人だよね」
軽い笑い混じりの声。
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「……やめろよ、その呼び方」
恒一は少しだけ顔をしかめる。
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同僚は気にせず続ける。
「読んだよ。本」
「意外だったわ。あんなに静かなのに、結構刺さるんだね」
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その言葉に、少しだけ息が止まる。
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「刺さる、か」
小さく繰り返す。
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同僚は笑いながら言う。
「なんかさ、近くにいるのに遠い感じする人っているじゃん」
「まさにそれ」
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その瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
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“近いのに遠い”。
それは、最近ずっと感じていたものと同じだった。
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その夜。
恒一は部屋に戻ると、すぐにスマホを開いた。
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恒一:
「なあ」
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夏音:
「はい」
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恒一:
「俺ってさ」
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少し間。
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恒一:
「やっぱり、遠い人間なのかな」
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送信してから、少し後悔する。
また答えに困ることを聞いてしまった。
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既読。
長い沈黙。
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時計の音だけが部屋に響く。
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夏音:
「遠いって、誰からですか」
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その返しで、少しだけ思考が止まる。
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恒一:
「……誰からって」
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打とうとして、やめる。
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既読。
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夏音:
「読者から見たら、遠くていいと思います」
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夏音:
「でも、書いてる人は近い方がいいです」
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その言葉で、胸の奥が静かに揺れる。
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恒一:
「意味わかんねえよ」
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夏音:
「分からなくていいです」
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夏音:
「ただ、そういうものなので」
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窓の外を見る。
夜の街。
少しだけ湿った空気。
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恒一はゆっくり息を吐く。
「……またそれか」
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でも、不思議と嫌ではなかった。
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次の日。
書店に寄る。
自分の本はまだそこにあった。
少しだけ減っている。
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その前に、一人の中学生くらいの少女が立っている。
じっと表紙を見ている。
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恒一は離れた場所からそれを見ていた。
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ページが開かれる。
目が動く。
少しだけ止まる。
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そして、小さく本を胸に抱く。
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レジへ向かう背中。
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その瞬間、恒一ははっきりと感じた。
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“触れてしまった”と。
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自分の言葉が、誰かの手の中にある。
それは誇りでもあり、同時に怖さでもあった。
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夜。
恒一はスマホを開く。
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恒一:
「今日さ」
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夏音:
「はい」
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恒一:
「本、買ってる人見た」
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既読。
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夏音:
「どうでしたか」
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恒一:
「……怖かった」
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少し間。
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夏音:
「それでいいです」
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恒一:
「なんでだよ」
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夏音:
「ちゃんと届いてるからです」
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その言葉で、ようやく気づく。
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届くということは、
誰かに“触れてしまう”ということだ。
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もう戻れない距離。
でも、悪くない距離。
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恒一は窓の外を見ながら、小さく呟く。
「……俺の言葉、ほんとに外に出てるんだな」
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その夜、少しだけ眠りが浅かった。




