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## エピソード38 ### 「距離の正体」

## エピソード38


### 「距離の正体」


 名前を口にしてしまった夜から、恒一は少しだけ落ち着かなくなっていた。


 たった一言。


 それだけなのに、何かの境界を越えてしまった気がする。


---


 いつもの夜勤。


 施設の廊下は静かで、時計の音だけがやけに響く。


 恒一は配薬カートを押しながら、ふと考える。


「距離って、縮まるもんなのか?」


 それとも、最初から“錯覚”だったのか。


---


 休憩室。


 椅子に座ると、疲れが一気に押し寄せる。


 スマホを開く。


---


夏音:

「名前、呼びましたね」


---


 短い一文。


 見透かされているようで、少しだけ息が詰まる。


---


恒一:

「悪いか?」


---


夏音:

「悪くないです」


---


 すぐ返ってくる。


---


夏音:

「でも、少しだけ変わりますね」


---


恒一:

「何が?」


---


 既読。


 少し間。


---


夏音:

「“言葉の距離”が変わります」


---


 その言葉を見て、恒一は天井を見上げる。


---


恒一:

「言葉の距離って何だよ」


---


夏音:

「画面越しじゃなくなる感じです」


---


 静かに打たれた一文。


---


 恒一は少しだけ笑う。


「今さらだろ、それ」


---


 でも、本当に今さらなのかもしれない。


 駅で会った日から、すでに何かは変わっていた。


---


 その夜。


 帰りの電車。


 窓の外は雨が降っていた。


 光がにじんでいる。


---


 恒一はメモを開く。


---


> 距離は

> 近づくものじゃなくて

> 変わっていくものだ


---


 書いてみて、少しだけ違う気がする。


 でも消さない。


---


 そのとき、スマホが震える。


---


夏音:

「今日、少しだけ思いました」


---


恒一:

「何を」


---


夏音:

「本って、終わるものじゃないですね」


---


恒一:

「今さら気づいたのかよ」


---


 少しだけ冗談めかして返す。


---


夏音:

「読んでる人がいる限り、続いてるので」


---


 その一文で、窓の外の雨が少しだけ遠くなる。


---


 恒一は本を思い出す。


 書店の棚。

 誰かの手。

 ページをめくる音。


---


「続いてる、か」


 小さく呟く。


---


 そのとき、気づく。


 自分はずっと“書き終わること”を考えていた。


 でも今は違う。


 “続いてしまうこと”を考えている。


---


 それは少し怖くて、少し救いだった。


---


 駅に着く。


 人が流れる。


---


 その中で恒一は、スマホを閉じる前に一言だけ送る。


---


恒一:

「なあ」


---


夏音:

「はい」


---


恒一:

「お前ってさ」


---


 少し間。


---


恒一:

「ほんとに存在してるんだよな?」


---


 送信した瞬間、少しだけ笑ってしまう。


---


 既読。


 長い沈黙。


---


夏音:

「今さらですね」


---


 その返事で、全部が少しだけ現実に戻る。


---


 雨の駅前。


 恒一は小さく息を吐く。


「……だよな」


---


 そして思う。


 距離は縮まるものじゃない。


 変わるものだ。


 そして、その変化の中で、人は初めて“誰か”になる。


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