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## エピソード37 ### 「名前を呼ぶ日」

## エピソード37


### 「名前を呼ぶ日」


 春が近づくにつれて、空気は少しずつ軽くなっていった。


 夜勤明けの冷たさも、以前ほど刺さらない。


 恒一の生活は相変わらずだが、“何かが続いている感覚”だけが変わっていた。


---


 その日、出版社から一通の連絡が来る。


『増刷が決まりました』


---


 短い一文。


 それだけなのに、しばらく画面から目を離せなかった。


---


「……増刷」


 声に出すと、現実味が少しだけ増す。


---


 本が売れる。


 読まれる。


 続いていく。


---


 その夜。


 恒一は久しぶりに自分の最初のメモを開いた。


---


> 何も書けない日がある

> それでも

> ここにいる


---


 たったそれだけの言葉。


 あの頃は、誰にも見せるつもりがなかった。


---


 今は違う。


 この言葉の先に、人がいる。


---


 スマホが鳴る。


---


夏音:

「増刷、おめでとうございます」


---


恒一:

「どこで知ったんだよ」


---


夏音:

「ちゃんと見てます」


---


 少し間。


---


恒一:

「なあ」


---


夏音:

「はい」


---


恒一:

「俺さ」


---


 少しだけ迷う。


---


恒一:

「まだ、怖いんだよ」


---


 既読。


 少し長い沈黙。


---


夏音:

「怖いのは普通です」


---


恒一:

「またそれかよ」


---


夏音:

「でも」


---


夏音:

「その怖さの中に、人の名前が入ってきます」


---


 その一文で、少しだけ息が止まる。


---


恒一:

「人の名前?」


---


夏音:

「読者の名前です」


---


 画面を見つめる。


---


 読者。


 それはずっと“誰か”だった。


 でも今は違う。


---


 名前を持った誰かが、そこにいる。


---


 その夜。


 恒一はふと思い立ち、書店へ向かう。


---


 自分の本の棚。


 そこにまだ本は並んでいた。


---


 その前に、一人の女性客が立っている。


 ページをめくっている。


---


 恒一は少しだけ離れて見ていた。


---


 その人が、ふと笑う。


 小さく。


 ほんの一瞬。


---


 その瞬間、胸の奥が静かに揺れた。


---


「……ああ、読んでるんだな」


 誰にも聞こえない声。


---


 そのとき、スマホが鳴る。


---


夏音:

「見てますか」


---


恒一:

「……なんで分かるんだよ」


---


夏音:

「たぶん、同じ時間に同じこと考えてるので」


---


 少しだけ笑ってしまう。


---


恒一:

「お前さ」


---


夏音:

「はい」


---


恒一:

「ちゃんと名前あるのに、なんでこんな不思議なんだろうな」


---


 既読。


 少し間。


---


夏音:

「名前は、距離を消さないからです」


---


 その言葉で、静かになる。


---


 恒一は本を見つめる。


 自分の名前。


 そして、読者の名前になっていく誰かの時間。


---


 ゆっくり呟く。


「……夏音」


---


 初めて、画面越しではなく、言葉として口にした名前。


---


 その瞬間、物語は少しだけ形を変える。


 “言葉”から“関係”へ。


 そして、“関係”から“現実”へ。


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