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## エピソード35 ### 「読者の顔」

## エピソード35


### 「読者の顔」


 ある日、出版社から小さなイベントの話が来た。


 書店でのトークイベント。

 サイン会というほど大げさなものではない。


「読者と少し話す場を作れたらと思いまして」


 編集者のその言葉に、恒一は即答できなかった。


---


「俺が……人前で話すの?」


 電話を切ったあとも、現実味が薄かった。


---


 夜。


 恒一は机の前で本を開いていた。


 自分の詩。


 でも、どこか他人の文章みたいに見える。


---


 スマホが鳴る。


---


夏音:

「イベント、出るんですか」


---


恒一:

「まだ分からん」


---


夏音:

「出た方がいいと思います」


---


恒一:

「簡単に言うなよ」


---


 少し間。


---


夏音:

「読者の顔、見た方がいいです」


---


恒一:

「なんで?」


---


夏音:

「言葉がどこに行ってるか分かるので」


---


 その一文に、少しだけ引っかかる。


---


 翌日。


 施設の休憩室。


 同僚が雑誌を見ながら言う。


「朝倉さん、これ載ってましたよ」


 小さな記事。


 恒一の本の紹介。


---


 ページを見た瞬間、胸が少しだけ縮む。


「……ほんとに広がってんだな」


---


 夜。


 帰り道。


 恒一は駅のホームで立ち止まる。


 電車を見送りながら考える。


---


 “読まれる”ということは、

 “知らない誰かの顔が増える”ということだ。


---


 その夜、夏音に送る。


---


恒一:

「イベント、出ることにした」


---


 すぐ既読。


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夏音:

「いいと思います」


---


恒一:

「またそれかよ」


---


夏音:

「でも本当です」


---


 少し間。


---


恒一:

「正直、怖い」


---


 送信してから、少しだけ息を吐く。


---


 既読。


---


夏音:

「怖いのは、ちゃんと届いてるからです」


---


 その言葉で、少しだけ静かになる。


---


恒一:

「届いてるって、どういう感覚なんだよ」


---


夏音:

「目の前に人がいる感じです」


---


 その一文で、想像が変わる。


---


 ただの読者ではない。


 “目の前にいる誰か”。


---


 恒一は天井を見る。


「……めんどくせえな」


 そう言いながら、少しだけ笑う。


---


 イベント当日。


 書店の一角。


 椅子が並べられている。


 思っていたよりも小さい。


 でも、そこに“人”がいる。


---


 数十人の読者。


 静かに本を持って座っている。


---


 その光景を見て、恒一は息を飲む。


---


「……本当にいるんだな」


 読者の顔。


 そこには、自分の知らない時間があった。


---


 マイクを握る手が少しだけ汗ばむ。


---


 そのとき、ふと気づく。


 あの言葉は、もう自分のものじゃない。


---


 誰かの中で生きている。


 目の前の人たちの中で。


---


 恒一はゆっくり息を吸う。


 そして、小さく言う。


「……ありがとうございます」


---


 その一言から、物語はまた別の形で続いていく。


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