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## エピソード30 ### 「夏音という人」

## エピソード30


### 「夏音という人」


 その日、恒一は珍しく早く目が覚めた。


 夜勤明けでもないのに、朝の光で自然に目が開いた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線をつくっている。


「……変な日だな」


 そう呟きながら、スマホを手に取る。


---


 通知はない。


 いつもなら少し安心するはずなのに、今日は少しだけ違う。


 “何もない”ことが、妙に静かすぎる。


---


 ふと、思う。


 夏音。


 この名前は、もうずっと前から自分の生活の中にある。


 でも――


「そういえば」


 恒一は指を止める。


---


「こいつ、どこにいるんだ?」


---


 今さらすぎる疑問だった。


---


 大学の通信課程で知り合った“詩を書く年下の女の子”。


 夜にだけやり取りする存在。


 言葉は深いのに、生活は見えない。


---


 恒一はスマホを見つめる。


 メッセージ履歴。


 ずっとそこにいるのに、実体だけが薄い。


---


 そのとき、ある考えがよぎる。


「もしかして……もう会えないのか?」


---


 胸の奥が、少しだけざわつく。


 今までは“自然に続くもの”だと思っていた。


 でも現実は違う。


 人は離れる。


 言葉だけが残る。


---


 夜。


 恒一は意を決してメッセージを送る。


---


恒一:

「なあ」


---


夏音:

「はい」


---


恒一:

「一回、ちゃんと話さないか?」


---


 送信してから、少しだけ手が止まる。


---


 既読。


 長い間。


---


 電車の音のような沈黙。


---


夏音:

「……いいですよ」


---


 短い返事。


 でも、拒絶ではなかった。


---


恒一:

「どこにいる?」


---


 既読。


 少し間。


---


夏音:

「会うなら、駅でいいですか」


---


 その一文で、現実が急に立ち上がる。


---


 画面越しの存在が、初めて“場所”を持った気がした。


---


 数日後。


 駅前。


 人が行き交う午後。


 恒一は立っていた。


 落ち着かない。


 何度も時計を見る。


---


「本当に来るのか……?」


 疑いと期待が混ざる。


---


 そのとき。


 後ろから声。


「朝倉さん」


---


 振り返る。


---


 そこに立っていたのは――


 思っていたよりも、ずっと普通の、ひとりの人だった。


 派手でもなく、特別でもなく。


 でも、目だけが静かにこちらを見ていた。


---


 夏音。


---


「……初めまして、でいいんですかね」


 小さく笑う。


---


 恒一は言葉を失う。


 画面の中の“詩の人”が、現実の空気を持って立っている。


---


「お前……ほんとにいたんだな」


 やっと出た言葉は、それだった。


---


 夏音は少しだけ首をかしげる。


「いますよ」


「ずっと」


---


 その一言で、胸の奥が静かに揺れる。


---


 駅前の雑音。


 人の流れ。


 その中で二人だけが、少しだけ違う時間にいる。


---


 恒一は小さく息を吐く。


「……なんか、変な感じだな」


---


 夏音は静かに言う。


「でも、ちゃんと“続いてる感じ”はします」


---


 その言葉で、ようやく納得する。


---


 言葉だけの関係じゃなかった。


 でも、現実だけの関係でもない。


---


 その中間に、今二人は立っている。


---


 恒一は小さく笑った。


「ほんと、お前の言い方ずるいな」


---


 夏音も少しだけ笑う。


「よく言われます」


---


 風が吹く。


 春に近い匂い。


---


 恒一は思う。


 この人は、“詩を書く人”というより――


 ずっと自分の言葉を支えてきた“もう一つの現実”だったのかもしれない、と。


---


 そして初めて気づく。


 この物語は、本が出たところで終わらなかった。


 むしろここからが、本当の“言葉の時間”なのだと。


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