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## エピソード23 ### 「君の名前」

## エピソード23


### 「君の名前」


 出版社との打ち合わせの日。


 恒一は、駅前のカフェの前で立ち止まっていた。


 スーツ姿。

 慣れない靴。

 少し汗ばむ手のひら。


「……これ、本当に俺か?」


 ガラスに映る自分が、少しだけ別人に見える。


---


 店に入ると、すぐに声をかけられた。


「朝倉さんですね」


 穏やかな男性だった。


 名刺を差し出される。


 編集者。


---


 席につく。


 コーヒーの匂い。


 静かな空間。


---


「詩、拝見しました」


 編集者はそう言って、ノートを開く。


---


「正直に言うと、派手ではないです」


 その言葉に、少しだけ緊張が走る。


---


「でも、残ります」


---


 恒一は息を止める。


---


「短いのに、読んだ後に“人”がいる感じがするんです」


---


 その言葉で、胸が少しだけゆるむ。


---


 打ち合わせは淡々と進んだ。


 出版の形。

 詩の構成。

 タイトル候補。


---


 そして最後に、編集者が言った。


---


「一つだけ確認させてください」


「はい」


---


「この詩たちを書いている“あなた自身”について、どこまで出しますか?」


---


 恒一は少し黙る。


---


 仕事。

 介護。

 夜勤。

 大学。

 そして夏音。


---


 どこまでが“自分”なのか、分からないままここまで来た。


---


「……全部出す必要ありますか?」


 そう聞くと、編集者は少し笑った。


「必要はありません」


「でも、“誰の言葉か”は、読者は感じ取ります」


---


 その言葉が残る。


---


 帰り道。


 恒一は駅のホームに立っていた。


 電車を待ちながら、スマホを開く。


---


夏音にメッセージを送る。


---


恒一:

「本、出るかもしれない」


---


 すぐに既読。


---


夏音:

「やっぱりですね」


---


恒一:

「やっぱりって何だよ」


---


夏音:

「だって、最初からそういう言葉でしたから」


---


 恒一は少し笑う。


---


恒一:

「なあ」


---


夏音:

「はい」


---


恒一:

「俺の詩ってさ」


---


 少し間。


---


恒一:

「お前と出会わなかったら、なかったと思う」


---


 送信。


---


 既読。


 長い沈黙。


---


 電車の音が遠くで鳴る。


---


夏音:

「それは違います」


---


 短い否定。


---


恒一:

「違う?」


---


夏音:

「出会わなかったら“始まり方”は違ったかもしれません」


---


夏音:

「でも、書いていたのは朝倉さんです」


---


 その一文で、胸が静かに熱くなる。


---


 電車が来る。


 風が流れる。


---


 スマホを握る手が少しだけ強くなる。


---


恒一:

「……そっか」


---


 それしか言えなかった。


---


 そのとき、ふと思う。


 夏音の“名前”は、どこか現実から少し離れた場所にある気がしていた。


 まるで、自分の中の言葉の象徴のように。


---


 でも今は違う。


 はっきりと“人”として存在している。


---


 そして同時に気づく。


 この本のタイトルは、きっと変わらない。


---


 電車がドアを開く。


 恒一は乗り込む。


---


 心の中で、小さく呟いた。


「君の詩に、救われた」


---


 それはもう、誰かの言葉ではなく。


 自分の人生そのものになっていた。


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