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【Step.9】激辛卒業宣言?と、甘い約束

二人で連れ立って、カランとドアベルを鳴らしながら店を出る。

外の空気に触れて少しホッとしたところで、俺は改めて隣を歩く彼女に頭を下げた。


「ごちそうさまでした。……でも、すっかりご馳走になっちゃって申し訳ないですね」


「ふふっ、気にしないでください。やっとお返しできましたし。それより星野さん、まだ口の中痛いんじゃないですか? 涙目になってますよ」


「……誰のせいだと思ってるんですか」


「あはは! じゃあ、あそこの角にあったカフェで、冷たいものでも飲んで落ち着きましょうか」


口の中の火災を鎮火させるという明確な目的のもと、俺たちは少し歩いて、学生街の喧騒から逃れるように『トドール珈琲店』の店内へと飛び込んだ。


冷房の効いた空間で、俺たちは向かい合ってアイスコーヒーのストローを握りしめていた。


「……生き返る……」

「……ですね……」


カラン、と。天宮さんがグラスを揺らすと、氷が涼しげな音を立てた。

(そういえば彼女、『アイスコーヒーは氷がカラカラ鳴るくらい冷たくないとダメ』って言ってたな……)


そんな出会った頃の記憶をぼんやりと思い出しながら、俺は舌に残る唐辛子とわさびの痛みを冷たいコーヒーで洗い流した。


「でも、なんだかんだで色々行きましたね。四川料理に始まって、メキシコのハバネロ、タイのパクチー、そして今日のエチオピア」


「本当ですね。……星野さん的には、どれが一番美味しかったですか?」


天宮さんがストローから口を離し、少し楽しそうに尋ねてくる。


「うーん……味の記憶の前に、舌が千切れた記憶しか蘇ってこないんですけど」


「あははっ、酷い!」


「でも、強いて言うなら……四川の麻婆豆腐ですかね。痛かったけど、一番旨味を感じました」


「あ、分かります! あの花椒の痺れる感じ、たまらないですよね!」

彼女は嬉しそうに同調して笑った。けれど――その笑顔が、ふっと翳る。


(……麻婆豆腐)

天宮さんの脳裏に、家を出る前に妹のみゆから言われた言葉が蘇っていた。

『お姉ちゃんの手作りの激辛麻婆豆腐食べさせられて、胃腸炎になって……泣きながら別れ切り出されたじゃん』


目の前に座る星野を見る。彼は今も、舌の痛みを誤魔化すようにアイスコーヒーをちびちびと飲んでいる。


彼は優しいから、私に合わせて無理をしてくれているだけだ。このまま自分のバカみたいな激辛趣味に彼を付き合わせ続けたら、いつかタカヒロの時のように、「これ以上は命の危険を感じる」と離れていってしまうのではないか。


(次も激辛に誘うのは、絶対にやめよう。……でも、激辛抜きで、私から星野さんを誘う口実なんてあるのかな……?)


天宮さんがストローの先を見つめながら沈黙に落ちていた頃、俺の頭の中も別の深刻な問題に直面していた。


(ヤバい……どうしよう)

俺はスマホの画面をこっそりと盗み見た。


(韓国料理……いや、ダメだ。激辛の聖地である新大久保に行けば店はいくらでもあるが、あんな『若者のデートスポットのメッカ』に誘うなんて、今の俺たちにはハードルが高すぎる。もっと初期の『ただのお詫び』のノリの時に、さっさとカードを切っておくべきだった。


じゃあ、インド料理の激辛カレーは……ダメだ、メキシコでのハバネロの二の舞になる危険性が高すぎる。これ以上は俺の胃が保たない。


それなら、中東系はどうだ? トルコ料理の『アダナケバブ』あたりなら、激辛特化ではないがスパイスはしっかり効いているし、店の雰囲気も……)


必死に脳内検索を回し、カプサイシンに侵された頭で次のプランを捻り出そうとして――俺は、ふと我に返った。


(……いや、待てよ。このままストックを使い続けて、本当に良いのか?)


もともと『お詫び』から始まった関係だ。俺のような普通?の会社員が、オーラ全開のトップモデルである彼女と休日を共にできているのは、ひとえに俺が「彼女の好みにドンピシャな珍しい激辛店」をプレゼンできているからに過ぎない。


だが、このままストックを消費し尽くせば、いずれ誘う口実はなくなる。

それに、激辛店ばかり巡っていては、俺は永遠に「都合のいい激辛要員」のままだ。『次は普通のイタリアンでもどうですか』なんて言えば、「じゃあお詫びはもう十分ですので」と呆気なく関係が終わってしまう気がして怖かった。


それに何より――俺の胃腸が、これ以上の多国籍デスゲームには耐えられないと悲鳴を上げている。


(激辛抜きでも、俺から天宮さんを誘う口実なんて、あるのか……?)

グラスの結露の雫が落ちる音が、やけに大きく聞こえる。

互いに視線を落としたまま、沈黙が降りた。


「「あの、」」

ふいに、声が重なった。


「あ、すみません、天宮さん先どうぞ」

「い、いえ、星野さんから……」


譲り合うものの、二人とも次に続く言葉が出てこない。

沈黙が長引くほど、心臓の音がうるさく鳴る。


(ええい、ままよ……っ!)


俺は残ったアイスコーヒーを一気に喉に流し込み、勢いをつけて口を開いた。


「次は、俺の行きたい店に付き合ってもらえませんか。……全く、辛くないですけど」


「……えっ」


天宮さんが、ストローから口を離して目を丸くした。


(――っ、ヤバい! やはり激辛じゃないとお気に召さないんだ!)

彼女の沈黙を「不満」だと勘違いした俺は、心の中で盛大に悲鳴を上げた。


せっかく勇気を出して普通の店を提案しようとしたのに、カプサイシンで焼き尽くされた脳みそがショートし、口から無意識に『温存していたリスト』の文字列を弾き出してしまう。


「あ、いや、その……ト、トルコ料理の店なんですけど! アダナケバブっていうのが美味しくて……あの、スパイスはしっかり効いてるんですけど、激辛ってわけじゃなくて……!」


(俺のバカァァァァッ!!)


言い終えた瞬間、俺は内心で頭を抱えてのたうち回った。


何がトルコ料理だ! スパイスって言っちゃってるじゃねえか! 結局、必死で温存しようとしていた『天宮さん用・異国ディープ料理リスト』の貴重なストックを、相手の反応にビビって自分から消費してしまっている!


俺が一人で自己嫌悪の底に沈みかけていた、その時。


「……ふふっ」

目の前で、ふわりと。


張り詰めていた糸が解けたような、心底ホッとしたような、柔らかい笑い声が聞こえた。


(……えっ)


顔を上げると、天宮さんはあからさまに肩の力を抜いて、深く、安堵の息を吐き出していた。


「はい! アダナケバブは知ってます。唐辛子がたっぷり練り込まれた、スパイシーな肉のケバブですよね。私、トルコ料理すごく行きたいです!」


(――やっぱり辛い料理として認識されてる!! 俺の『激辛じゃないですけど』っていうフォロー、完全に無意味じゃないか……っ!)


俺が内心でさらなる絶望に打ちひしがれていると、彼女は少しだけ前のめりになり、今日一番の、花が咲くような満面の笑みを俺に向けた。


「あの、星野さん! トルコアイスって知ってますか? 店員さんが長い棒で伸ばして、なかなか渡してくれない……びよーんって伸びる甘いやつ」


「あ、ああ。テレビなんかで見たことはありますけど」

「ケバブの後に、あれも一緒に食べたいです!」


彼女は身振り手振りを交えて「びよーん」とアイスを伸ばす真似をして、期待に満ちたきらきらとした瞳で俺を見つめてきた。


その声はひどく弾んでいて、なんだか『これなら自然に甘いものも一緒に食べられますね!』とでも言いたげな、最高に嬉しそうな響きだった。


そのあまりにも無邪気で年相応な可愛さに、俺の自己嫌悪と絶望は、一瞬で宇宙の彼方へと吹き飛んでいった。


「あははっ、なんだそれ。じゃあ次は……ケバブとトルコアイス、食べに行きましょうか」


「はいっ!」

グラスの中で、溶けかけた氷がカランと心地よい音を立てる。


(結局スパイスからは逃れられなかったし、俺の『異国ディープ料理リスト』のストックは無駄に一つ減ってしまったけれど。……まあ、関係が終わるのだけは回避できた。首の皮一枚繋がった、ってことでいいか)


激辛という言い訳がなくても、彼女と一緒に「甘いもの」を食べる切符を、俺はどうやら手に入れたらしい。

本日もお読み頂きありがとうございます。

激辛からのコーヒー休憩。ついに星野くんから「全く辛くない店」へのエスコートを提案……

したはずが、テンパってスパイス料理(トルコ料理)を宣言してしまいました。ポンコツはお前もだ!

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