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【Step.10】すれ違いと、金曜夜の川崎駅

トルコ料理店に行くことは決まっていたため、俺はアダナケバブがあり、トルコアイスも食べられる店を探していた。


せっかくならデート向きの雰囲気がいい。


いくつか候補を見比べた結果、有楽町の店が一番良さそうだった。俺はさっそく、天宮さんにLIMEでリンクを送信した。


『普通のケバブとトルコアイスなら他にも店はあるんですけど、アダナケバブがあるトルコ料理店って意外と少ないんですよ。有楽町のこのお店、どうですか?』


ほどなくして、目を輝かせたウサギのスタンプと共に返信がくる。


『アダナケバブって貴重なんですね! 有楽町のお店、雰囲気もすごく素敵です! 行ってみたいです!』


よし、場所とメニューは完璧だ。

だが、ここに来て日程が噛み合わない。


俺は平日の仕事が忙しい。いや、正確には「本業」と「作家業」のダブルワークで常に首が回らない状態だ。


日々の連載執筆に加えて、書籍化の校正やコミック版の監修なども入り込んでくるため、まともに動けるのは土日のどちらかだけ。


その土日も、天宮さんはイベントや撮影の予定が立て続けに入っていた。

しかも、会場は毎回ばらばらだ。撤収時間も読めない。


『その週は小田原なので有楽町は、さすがに厳しいかもです……』


LIMEの画面の中で、天宮さんが送ってきたウサギのキャラクターが、申し訳なさそうに『ごめんなさい』と頭を下げている。


次の週は横浜アリーナのようだった。イベント終わりの移動を考えると、東京のど真ん中まで出るのは現実的ではない。


『有楽町なら、新横浜から新幹線に乗ればすぐですよ! 20時くらいには着けると思います!』


画面に表示された彼女からの能天気な提案に、俺は思わずスマホに向かってツッコミを入れてしまった。


(いやいやいや! 晩飯だけのために新幹線代払わせて、20時過ぎに合流して、そこからまた鎌倉までトンボ返りさせるなんて正気の沙汰じゃないだろ!)


終電の時間も気になる。俺がいくら気が利かない男でも、そんな非人道的なスケジュールで彼女を連れ回すわけにはいかなかった。


『お気持ちは嬉しいですが、さすがにそれは申し訳ないので。じゃあ、イベントが落ち着いた来月の六日あたりにしましょうか』


少しの逡巡の後、俺は己の理性に鞭を打ってそう返信した。


『……わかりました。来月、楽しみにしてますね』


と、どこかシュンとしたようなウサギのスタンプと共に送られてきた返信を見て、俺は自分の判断が正しかったのか、ひどくモヤモヤした気持ちを抱え込むことになってしまった。


俺はスマホを見ながら、小さく息を吐いた。


それからの二週間は、もっぱらLIMEでのやり取りだけが続いた。


俺が『今日もイベント頑張ってください』『会議が長くて死にそうです』『上司がまたわけわかんないこと言い出してウザいです』と送れば。


天宮さんからも『ピラティスの後、横浜で飲んだコーヒーが美味しかったです』『来週のイベントの衣装、結局これですよ。アニメっぽくありませんか?』『今日のイベントのお弁当、ハズレでした……』と、写真付きの返信が届く。


激辛料理の約束がなくても、そんな他愛のない日常の報告を送り合う日々が、すっかり当たり前になっていた。


***


――そして、約束のすれ違いから二週間が経過した、金曜日の夜。


「……はぁ。全然進まねえ」


俺は薄暗い4.7畳の作業部屋で、デュアルモニターを前に深くため息を吐いた。


平日の激務を終え、本来なら絶好の執筆タイムであるはずの金曜の夜。しかし、画面のテキストエディタの文字数は、ここ一時間まったく増えていなかった。


脳裏に浮かぶのは、新作のプロットではなく、あの理不尽な激辛の痛みと、涙目で笑い合う彼女の顔ばかりだ。


(ダメだ。完全にペースが狂わされてる。……明日から横浜アリーナのイベントだって言ってたな。今頃、ホテルか家でゆっくり休んでるんだろうか? ……明日のイベント、行ってみようかな)


手の届かない「画面の中の存在」である彼女を想い、湧き上がる柄にもない衝動を振り払うように、俺はデスクの上のデュアルモニターに向かって、キーボードを叩き始めた。


その時に――。

ピコン、と。


静寂の部屋に、スマホの通知音が響いた。

画面に表示された『天宮菜緒』という名前に、心臓がドクンと跳ねる。


『星野さん、夜分遅くにすみません』


『今、都内の事務所での最終打ち合わせが終わって、帰り道なんですけど……』


スマホの時計を見ると、時刻はすでに21時を回っていた。


(こんな時間まで仕事してたのか。やっぱり無理させなくてよかった、来月に延期して正解だったな……)


そう思いながら次のメッセージに目を落とした瞬間。

俺の思考は、完全にフリーズした。


『今、川崎駅にいます』


『明日から横浜でイベントなので、もし星野さんが忙しくなかったら……駅前のカフェで、少しだけ会えませんか?』


「は……?」


川崎駅。ここから歩いて十分の、俺のテリトリー。

明日から横浜アリーナで大仕事が控えているはずの絶世の美女が、わざわざ途中の駅で降りて、俺を呼んでいる。


「いや、えっ……!?」


激辛料理も、お詫びの口実も、そこには何もない。

動揺のあまり指を震わせながら『どうしたんですか?』と短く返信すると、すぐに既読がつき、ふたつの吹き出しが連続で現れた。


『明日からまたイベント続きなので』

『その前に、少しだけ息抜きしたくなっちゃいました』


「…………っ!」


ただ『会いたい』という、それだけの理由で。

(あの人は……ッ! 明日からデカい仕事があるってのに、なんて無茶を……!)


『実は……明日のイベント、ちょっと緊張しちゃって。星野さんに会ったら、なんだか安心する気がしたんです』


――プツン、と。

自分の中で、必死に保っていた理性の糸が切れる音がした。

呆れと、それを遥かに上回るどうしようもない衝動に突き動かされ、俺の体は弾かれたように立ち上がっていた。


デスクの上の財布を引っ掴み、ハンガーにかけてあったジャケットを乱暴に羽織る。


『今向かいます。東口、ルフラン前の赤いオブジェのところで待っててください』


それだけを音声入力でLIMEに入れると、俺は自分のマンションを飛び出し、県道101号線を全力で走り出していた。


「はぁっ、はぁっ……!」


夜の川崎駅東口。


金曜の夜の喧騒を掻き分けながら、俺は指定された待ち合わせ場所――『ルフラン』の入った駅ビルの前にある、赤いオブジェの広場へと駆け込んだ。


息を切らして周囲を見渡すまでもない。


目当ての人物は、広場の少し外れで、一目でそれと分かる異彩を放っていた。


目深に被った黒のキャップに、顔の半分以上を覆う大きなマスク。服装もダボッとしたパーカーで徹底的に『一般人』に擬態しているつもりなのだろうが――その異常なまでの顔の小ささと、足元に置かれたキャリーケースの横にスッと立つ姿勢の良さが、かえって「お忍び中の芸能人」特有のオーラをダダ漏れにさせていた。


「天宮さん……っ!」


俺が声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らし、こちらを振り返った。

そして、俺の姿を認めた瞬間、マスク越しでも分かるくらいパァッと花が咲くように顔を輝かせた。


「星野さん! ……って、すごい汗! もしかして走ってきてくれたんですか?」


小走りで駆け寄ってくる彼女の眼差しは、本当に嬉しそうで。


(……ああ、やっぱり来てよかった)と、俺の胸の奥で、カプサイシンとは全く違う熱がじんわりと広がっていくのを感じた。


「そりゃ、走りますよ。……こんな時間まで仕事してたんですか? 明日も横浜でイベントだって言ってたのに」


「ふふっ、すみません。でも、星野さんの顔を見たら、なんだか一気に安心しちゃいました。……肩の力、抜けちゃったかも」


彼女はそう言って、少しだけ疲れたように笑うと、小さく「ぐぅ〜」と腹の虫を鳴らした。


「……あ」


「……」


「き、聞かなかったことにしてください! 今のはキャリーケースの車輪の音です!」


顔を真っ赤にして両手で口元マスクを覆う天宮さん。

そのあまりにも隙だらけな姿に、俺はつい吹き出してしまった。


「ははっ、了解です。で、息抜きって……どこ行きますか? この時間だと、開いてるカフェも限られますが」


「うーん……安心したら、逆にお腹空いちゃって。星野さん、この辺で何か美味しいものありませんか? 軽く食べられるもの!」


「川崎の夜で、この時間に開いてる美味しい店ですか……」


居酒屋か、ラーメンか、ファミレスか。

選択肢を脳内で検索し……俺は、ふとある『川崎のソウルフード』を思い出した。


「あの、一つありますけど。……天宮さんの好みにドンピシャなやつが」


「本当ですか!? なになに!?」


「『ネオ・タンタン麺』って知ってますか? 川崎発祥のローカルフードなんですけど、唐辛子と溶き卵がたっぷり入ってて、辛さも選べるんです」


「唐辛子……っ!」


天宮さんの瞳が、マスク越しでも分かるほどギラリと輝いた。完全に激辛ハンターの目だ。


「ただ……あれ、めちゃくちゃニンニク効いてるんですよね。天宮さん、明日横浜アリーナで大仕事があるのに、前日の夜にニンニクと激辛のダブルパンチはさすがに……」


「行きます!!」


「いや、だから明日の仕事に支障が――」


「ブレスケア大量に噛むので大丈夫です! ニンニク! 唐辛子! 行きましょう!!」


キャップとマスクの不審者スタイルで、キャリーケースを握りしめたまま力強くガッツポーズを決める現代のシンデレラ。


(……ああ、ダメだ。このポンコツ激辛マニアに、ブレーキなんて最初から付いてないんだった)


俺は諦め半分、愛おしさ半分で深くため息をつくと、「じゃあ、行きましょうか」と彼女を川崎のディープな夜の街へと先導し始めた。

本日もお読み頂きありがとうございます。

金曜日の夜の川崎駅。明日の大仕事を前に、わざわざ会いに来てくれた天宮さんの

「お忍び芸能人オーラ」が爆発しています。

星野くん、完全にほだされてますね。

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