【Step.7】グルシャと、致死量のあーん
某大学のすぐそばにある、少しカオスで異国情緒あふれる学生街。
その一角にひっそりと佇むディープなエチオピア料理店のテーブルに、俺たちは向かい合って座っていた。
今日の天宮さんは、「学生街の空気に合わせてみました」と、少し女子大生を意識したらしいカジュアルな服装だった。
だが、オーバーサイズのニットに細身のデニムというシンプルな出で立ちであっても、その圧倒的な頭身のバランスと小顔は誤魔化しようがない。隠しきれないモデルのオーラがダダ漏れになっていた。
土曜日のランチ時ということもあり、店内はサークル帰りらしき学生たちで賑わっている。案の定、周囲のテーブルからはチラチラと遠慮のない視線が飛んできていた。
「あの子、どこのキャンパス?」「めっちゃ可愛くね? 芸能人?」という男子学生たちのヒソヒソ声。そしてそれに混じって、俺の被害妄想を激しく刺激する視線も突き刺さっていた。
(『でも隣にいるあの男、どう見ても学生じゃなくね?』『あの疲れ切った顔、20代後半の多浪生か万年院生か?』……って絶対思われてるよな、これ)
俺は25歳の立派な社会人なのだが、この若さ溢れる学生街に放り込まれると、どうにも「老け込んだ不審な男」にしか見えないらしい。居心地の悪さに身を縮めながら、俺は目の前でメニューを眺める彼女に声をかけた。
「何だか、すごい注目されてますね」
「そうなんですか?」
天宮さんは顔を上げ、きょとんとした顔で首を傾げた。
「職業柄、人の目には結構慣れちゃってるんで、あまり気にならないんですよね。……それより星野さん、アレは持ってきてくれたんですか?」
周囲の熱視線など全く意に介さず、彼女は声をひそめて身を乗り出してきた。
その真剣な眼差しに気圧されつつ、俺は黒いメッセンジャーバッグの中に手を入れる。そして、周囲の学生たちの目を気にしながら、テーブルの下からそっと『ブツ』を差し出した。
「はい、これ……」
まるで違法な薬物取引でもするかのように、俺はチューブ型の和辛子をコッソリと彼女の手に握らせた。
「ありがとうございます……!」
和辛子を受け取った天宮さんは、パァッと顔を輝かせてそれを自分のバッグに素早く隠した。傍から見れば完全にアウトな光景だが、ただの和辛子である。
「でも、学生街にこんな本格的なエチオピア料理を出す店があるんですね。俺、ここに来る前に少しエチオピアの文化を調べてみたんですけど」
和辛子の密輸ミッションを終え、少し落ち着きを取り戻した俺は、昨晩の徹夜のリサーチの成果を披露することにした。少しは知的な大人の男(?)としてのアピールをしておきたいという、浅ましい下心があったことは否めない。
「『グルシャ』っていうのがあるらしいんです」
「グルシャ、ですか?」
「はい。食事の場に同席する友人や親族など、親しい者の口元に、手でインジェラ(エチオピアの主食)を運び、直接食べさせる作法のことを言うらしいです」
「へぇー! なるほど、そんな習慣があるんですね」
感心したように頷く彼女を見て、俺はさらに得意げに語り続けた。
「この行為は友情や親愛、歓迎の表現であるらしくて。で、グルシャによってインジェラを食べることを勧められた者は、それを断ることは好ましいこととされないらしいんです」
「断っちゃいけないんですね」
「さらに、グルシャによってインジェラを食べさせられた側は、相手にもグルシャを返すことが求められるようです。なので、食べるペースにお互い気を配らねばならないらしいですよ。面白い文化ですよね」
「……」
言い終えて、ふと天宮さんを見ると、彼女は何かを閃いたような、とても良い笑顔を浮かべていた。
「お待たせしましたー。エチオピアセット、お二つです」
学生街のレストラン特有の、少し気怠げな学生アルバイトらしき店員によってテーブルに置かれた『それ』を見て、俺の思考はピタリと停止した。
(……なんだこれ。グレーの丸まったタオル……?)
事前リサーチで「見た目がアレだ」とは知っていたが、実物は想像を絶していた。無数の気泡が浮いた薄灰色の生地が、まるでおしぼりのようにクルクルと巻かれて皿に乗っている。微かに漂ってくるのは、発酵特有の強烈な酸っぱい匂いだ。
そしてその横には、地獄の釜の底で煮詰めたような、赤黒くドロドロとした『ドロワット(激辛チキンシチュー)』が禍々しいオーラを放って鎮座していた。
俺がその圧倒的なビジュアルの暴力に完全にドン引きしていると、目の前の天宮さんはパァッと目を輝かせた。
「わあ……、これがインジェラなんですね。本当にこんな感じなんだ……!」
洗練されたオーバーサイズのニットを着こなす、オーラ全開のトップモデル。
彼女は少し興奮した様子で、綺麗な指をそっと伸ばしながら続けた。
「いただきます……!」
そんな彼女は、躊躇することなくグレーの『タオル』を無造作にブチッと引きちぎった。
そして真っ赤なドロワットをたっぷりと掬い上げ、そのまま豪快にパクリと口に放り込んだのだ。
「……っ! 辛い……けど、酸味が効いててすごく複雑な味です。これ、クセになりそう……」
指先についたソースをペロッと舐め、花が咲くような笑顔を見せる。
ここは大学のすぐそばにある、異国情緒あふれる(少しカオスな)学生街のレストランだ。周囲の席を陣取る男子学生たちが「あの子、手掴みで食ってんぞ……」「でもなんかめっちゃ絵になるな……」とざわめいているのが聞こえる。
俺も完全に同意見だった。
(……手掴みで食べる絶世の美女、やっぱり最高だな)
気取った高級レストランでナイフとフォークを優雅に扱う姿より、はるかに色気があるし、何より生命力に溢れていて目が離せない。完全にノックアウトだ。俺は内心で、あっさりと全面敗北を認めていた。
ただ見惚れているだけで、自分の手元のタオルには一切手が伸びていない俺を見て、天宮さんがふと動きを止めた。
そして、何かを閃いたような、とてもいたずらっぽい、可愛い笑顔を浮かべる。
「星野さん」
「……はい」
「その『グルシャ』、郷に入っては郷に従え、ですよね?」
「…………え?」
天宮さんの手元を見る。
彼女は新しくちぎったグレーの生地に、たっぷりの真っ赤な激辛シチューと――先ほど俺が密輸した『チューブの和辛子』を、致死量レベルでトッピングしていた。
俺の背筋を、強烈な悪寒と、それを上回るほどの高鳴りが駆け抜けた。
『親愛の表現』『断ってはいけない』。
ラブコメの主人公としてこれ以上ないほど物理的に刺激的で甘酸っぱいフラグを、俺はたった今、自分自身のウンチクで完璧に建築してしまったのだ。
彼女の細い指先に摘ままれた、グレーの生地。その隙間からは、禍々しい赤黒いシチューと、鮮やかな黄色のペースト(チューブの三分の一くらい消費していないか?)がはみ出している。
「ちょ、ちょっと待ってください! 天宮さん、その辛子、明らかに致死量じゃないですか!?」
俺は必死で顔を引きつらせながら、のけぞって身の危険を訴えた。
しかし、天宮さんはニコニコと天使のような、いや、この瞬間ばかりは小悪魔のような笑顔を崩さない。
「え? でも星野さんさっき、『親愛の表現』だから『断ってはいけない』って言ってましたよね?」
「いや、それはエチオピアの伝統的な話であって、和辛子のオーバードーズは想定されてなくて……っ!」
「はい、あーん!」
有無を言わさぬ、しかし甘く弾むような声。
俺がさらに反論しようと口を開いたその一瞬の隙を突いて、天宮さんの手がスッと伸びてきた。
「んぐっ!?」
抵抗虚しく、致死量の赤と黄色を内包したインジェラが、俺の口の中に強制的にねじ込まれた。
一瞬、彼女の柔らかい指先が俺の唇に触れ、ふわりと甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
(……あ、指触れた。手掴みであーんとか、最高……)
そんなラブコメ主人公としての至福の時間は、コンマ数秒で終わりを告げた。
「~~~~~~っ!!??」
爆発した。
口の中で、エチオピアと日本が最悪の形で激突した。
まず、ドロワットの凶悪な唐辛子の熱が舌を焼き尽くす。そこへ間髪入れずに、和辛子の強烈な揮発性の辛味が鼻の奥を突き抜け、脳髄を直接殴りつけてきた。インジェラの強烈な酸味が、その両方の刺激をブーストさせる。
「ごふっ、かはっ……! ぁ、あ、辛っ、痛っ……!」
俺は両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、鼻水が止まらない。気管支が痙攣し、声にならない呻き声が漏れる。
「あははっ! 星野さん、顔真っ赤ですよ! 涙目になってるし!」
「(お前の……せいだろ……っ!)」
声を出して抗議したくても、口を開けば火を噴きそうだった。
テーブルの上で七転八倒する俺を見て、周囲の男子学生たちがざわつき始める。
「おい見ろよ、あの男……美女にあーんされて感動のあまり泣いてるぞ……」
「マジかよ、どんな前世の徳を積んだらあんなご褒美もらえるんだよ……」
(違う! こっちは命の危機を感じて泣いてるんだよ! 変われるものなら今すぐ代わってくれ!)
心の中で学生たちに全力でツッコミを入れながら、俺はお冷のグラスをガタガタと震える手で掴み、一気に喉に流し込んだ。
しかし、水程度でこの多国籍軍の猛攻が収まるはずもない。
「ふふっ。星野さん、ちゃんと食べてくれて嬉しいです」
天宮さんは楽しそうに笑いながら、自分の分のインジェラに再び手を伸ばしている。
「……あ、星野さん」
「……はいぃ……(涙声)」
「『グルシャ』って、されたら必ず相手にも『やり返す』んですよね? 楽しみに待ってますね」
悪びれる様子もなくウインクをしてくる絶世の美女を前に、俺は完全に敗北を悟った。
和辛子の密輸も、一夜漬けのウンチクも、すべては俺の首を絞めるための壮大な前振りだったのだ。
俺は涙と鼻水を拭いながら、目の前の「グレーのタオル」と「真っ赤な地獄」を絶望的な目で見つめ返した。
「分かりました。俺もこれだけは使いたくなかったですが……」
グレーの生地を引きちぎって、真っ赤なドロワットをたっぷりと掬い上げると、隣に置いておいたメッセンジャーバッグから、別な色をしたチューブを取り出し、片手でキャップを捻って、かつてない量の緑色をしたペーストを絞り出した。
「……えっ? 星野さん、それってまさか」
天宮さんが僅かに目を見開く。
「ええ。本わさびです。しかもスーパーで一番高かった『特選・生おろし』仕様です」
和辛子だけでは彼女の狂った舌に太刀打ちできないかもしれないと、昨晩の買い出しで念のため密かに仕込んでおいた俺の最終兵器だ。
俺は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、復讐鬼のような笑みを浮かべた。エチオピアの灼熱の大地に、日本の清流が育んだ緑の刃(しかも特盛り)を突き立ててやる。
「さあ、天宮さん。俺からの親愛の証です。受け取ってください」
俺は、真っ赤なドロワットの上に鮮やかな緑の山脈が築かれた凶悪なインジェラを、彼女の美しい口元へと突き出した。
「もちろん……断りませんよね?」
先ほどの彼女のセリフを、そっくりそのままお返しする。
周囲の学生たちが「おっ、今度は男からあーんだ」「いいなぁ、俺も美女とわさびプレイしてえ」などとバカなことを囁き合っているが、もはや俺の耳には入らない。
天宮さんは目の前に迫った緑と赤の致死量コンボをじっと見つめ――ふわりと、楽しげな笑みを浮かべた。
「ふふっ。望むところです。あーん」
パクリ、と。
彼女は一切の躊躇なく、俺の手から凶悪な塊を咥え込んだ。
(……あっ、また指触れた。唇柔らかい……じゃなくて!)
邪念を振り払い、俺は息を呑んで彼女の反応を待った。唐辛子の熱と、わさびの暴力的なまでの揮発成分。いくら無敵の舌を持つ彼女でも、この異次元の組み合わせによる不意打ちの『ツーン』には耐えられないはず――。
「んんっ……!」
天宮さんの咀嚼がピタリと止まる。
大きな瞳が限界まで見開かれ、鼻筋をツンとすする音が聞こえた。
(おっ、効いてる! 効いてるぞ!)
「……か、辛っ……!」
彼女は口元を両手で覆い、少しだけ涙目になりながら俺を見つめ返した。その潤んだ瞳と赤らんだ頬は、普段のモデルとしての洗練されたオーラとは違う、年相応の女の子らしい無防備な可愛さに溢れていて。
(……ヤバい、涙目の顔、めちゃくちゃ可愛いぞこれ)
俺が不覚にも見惚れてドキリとしてしまった、次の瞬間。
「――でも、わさびの爽やかな香りがドロワットの重さを消してくれて、これすっごく美味しいです! 星野さん、天才ですか!?」
「…………は?」
涙目のまま、パァッと花が咲くような満面の笑みを向けられた。
ダメージを受けて悶絶するどころか、完全に『和洋折衷の新しい味覚の扉』を開いて感動している顔だった。
「わさびのツーンとくる感じが癖になります! もっと乗せてもいけますよこれ!」
「ウソだろ……」
俺は手元に残された空っぽに近い緑のチューブを眺め、再び深い絶望の底へと沈んでいった。
「……もう嫌だ、この人……」
俺の最終兵器すらも、現代のシンデレラ(激辛狂い)の食欲の前には、ただの気の利いたアクセントでしかなかったらしい。
こうして、東都大学の学生街で繰り広げられた俺と彼女の第一次和風スパイス戦争は、俺の完全なる大敗北で幕を閉じた。
(……でも、負けたのに、なんでこんなに嬉しいんだろう)
口の中で猛威を振るう多国籍軍(唐辛子と和辛子とわさび)の痛みに涙目になりながらも、俺は満足そうに笑う彼女を見て、不思議と嫌な気はしていなかった。
「あ、星野さん! そのまま座ってていいですよ」
俺がおしぼりで涙と汗を拭っていると、天宮さんがハンドバッグを手に立ち上がった。
「え? いや、お会計は俺も出しますって」
「ダメです! LIMEでも言ったじゃないですか、『次回は絶対に私が払う』って。星野さんは前回のお礼として、大人しく私に奢られてください」
そう言って、彼女は俺が財布を出す隙も与えずにレジへと向かい、宣言通りスマートに会計を済ませてみせた。
戻ってきた彼女の顔は「やっと奢れました!」と言わんばかりの、たいそう誇らしげなドヤ顔だった。
本日もお読み頂きありがとうございます。
和辛子の密輸からの、致死量特選本わさびでのカウンター!
「グルシャ(やり返し)」の文化を最悪の形で実践してしまいました(笑)。
星野くんの胃腸に休まる日は来るのでしょうか。




