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【Step.5】ナンプラーの香りと、罪悪感を拭う遠回り

カラン、とドアベルを鳴らして店を出た瞬間、ひんやりとした夜風が火照った顔と汗ばんだ首筋を撫でていった。


「ふぅー……っ」


俺は店先の壁に手をつき、大きく息を吐き出した。

結局、あの『涙が止まらない青パパイヤ』と『激辛パッタイ』は、パクチーの匂いに完全にノックアウトされた彼女の代わりに、俺が涙目で八割方処理する羽目になったのだ。


胃袋の中で暴れ狂う唐辛子の熱と、鼻の奥にこびりついた発酵調味料の匂いで、頭がぼーっとする。


隣を見ると、天宮さんも同じように壁に背を預け、少し虚ろな目で夜空を見上げていた。本場の強烈な香辛料の洗礼を浴びた彼女は、もはや「洗練されたモデル」の面影を完全に失っている。


「……星野さん、本当にすみません」

ぽつりと、夜の静寂に彼女の呟きが落ちた。


「私が払うって言ったのに……」

そう、今日は前回のメキシコ料理の『お詫びのお礼』として、天宮さんが奢ってくれる約束だったのだ。だが、レジに向かう頃には彼女はパクチーのダメージで完全に魂が抜けた状態(虚ろな目)になっていたため、見かねた俺がさっさと会計を済ませて店から連れ出したのである。


申し訳なさそうに肩を落とす彼女を見て、俺は苦笑しながら首を振った。


「気にしないでください。むしろ、天宮さんがほとんど食べられなかったのに奢らせるわけにはいかないですよ」


「うぅ……でも、私から誘ったのに……」

「じゃあ、今日は『ノーカウント』にしましょう」


「ノーカウント……?」

「ええ。お互いにダメージが大きすぎたんで、今回の勝負は引き分けってことで。奢り奢られの順番は、次回に持ち越しです」


俺がそう提案すると、天宮さんは少しだけ目を丸くした後、ふっと口元を柔らかく緩めた。


「……星野さんって、やっぱり優しいですね」

「いや、ただの事実を言っただけですよ」


ストレートな称賛に居心地が悪くなり、俺は照れ隠しのようにそっぽを向いた。

二人して無言のまま、ただただ夜風に吹かれていた、その時だった。


「……それに星野さん、今たぶん私たちめちゃくちゃ臭いです」

ぽつりと、夜の静寂に彼女の呟きが落ちた。


それは、絶対に女性が……ましてやモデルが、初見に近い男の前で言うセリフじゃない。


そのあまりにも身も蓋もない一言に、俺は張り詰めていた糸が切れたように吹き出してしまった。


「あははっ! ……いや、俺も全く同じこと考えてましたよ」


「ですよね……絶対、服の繊維の奥までナンプラー染み込んでますもん、これ」


天宮さんも、自嘲するように肩を震わせて笑い始めた。


「全身ユニシロの戦闘服で来て、大正解でした」


「俺は一応ジャケット着てきたのに、完全にナンプラーの香水を纏った男になってますよ」


「あはは! ごめんなさい、今度クリーニング代払いますから……っ」


「でも、ちょっと安心しました」

「え?」


「天宮さんにも苦手なものあるんだなって」

「ありますよ! 私だって人間ですから!」


錦糸町のディープな路地裏。

怪しげなネオンの下で、俺たちは涙目で笑い合っていた。


姿見の前で感じていた「住む世界が違う」という劣等感は、強烈なスパイスの匂いと共に綺麗に吹き飛んでいた。今の俺たちはただの、ガチすぎるタイ料理店に無謀な戦いを挑み、そして見事に玉砕した「戦友」でしかなかった。


「……あー、でも口の中が、辛っ」

「え、まだ辛さを感じるんですか?」


「どうも、これは後から来るタイプみたいで……」


結局、俺たちは口の中をどうにか鎮火させるため、駅前のコンビニへ避難することになった。


冷凍ケースの前でしばらく悩んだ末、俺はバニラバーを、天宮さんはいちごのアイスを選んだ。


「やっぱり、いちごなんですね」

「え?」


「なんとなく、そういうの選びそうだなって。この前もイチゴのケーキ食べてたし」

「あはは、どういうイメージですかそれ」


笑いながら袋を開けた彼女は、さっきまで激辛料理と戦っていた人とは思えないくらい普通の顔をしていた。


駅前の小さな公園で夜風に当たりながら、俺たちは並んでベンチへ座る。

先ほどまでの喧騒が嘘のように、しばらくはアイスを食べる音と、遠くを走る電車の音だけが続いた。


「……でも、楽しかったですね」

最初に口を開いたのは天宮さんだった。


「本当ですか? 俺、途中から胃痛との戦いしか記憶ないんですけど」

「ふふっ。でも、ああいう本場のお店って、一人だと入りづらいので」


そう言って笑う横顔を見て、少しだけ胸が熱くなる。


今日、自分は全然スマートじゃなかった。店選びの主導権は奪われ、服装は浮きまくり、最後は胃をやられてナンプラーの匂いを漂わせながらコンビニアイスを食べている。


なのに。


「ふふっ、また別の国の料理も開拓したいみたいです。今度はどんなお店がいいですか?」


そんなことを言われると、単純に嬉しいと思ってしまう自分がいる。もっと、この時間が続けばいいのにとすら思ってしまう。


「……そういえば、天宮さんって家どの辺なんですか?」


「あ、実家は鎌倉です」


「え」

思わず聞き返した。


「鎌倉?」

「はい。この時間なら、まだ全然帰れますよ」


終電アプリでも確認するみたいな、軽い口調だった。


でも、その瞬間、遅れて気付く。

(……わざわざ、来てくれてたのか)


てっきり東京住みだと思っていた。イベント会場で見る姿があまりにも都会に馴染んでいたから、勝手にそう思い込んでいた。


けれど実際は、今日のために時間をかけて電車に乗って、まずは俺が指定した表参道まで来てくれていたのだ。


そしてそこからさらに、彼女の希望とはいえ、俺たちはわざわざ東京の東側である錦糸町まで移動してきている。鎌倉からすれば、完全に逆方向への大移動だ。


アイスの冷たさとは別の理由で、胸の奥が少しだけ静かになる。

「……すみません。もっと近いと思ってました」


俺の口から出たのは、情けない謝罪だった。

俺が最初から、彼女の帰りやすいターミナル駅周辺や、アクセスのいい場所を提案していれば。表参道なんて気取った場所に呼び出さなければ、そこからの無駄な移動時間もかからなかったはずだ。


デートのつもりで気合を入れて空回りした挙句、結局彼女の優しさとノリの良さに甘えて、こんな遠くまで付き合わせてしまった。

そんな激しい自己嫌悪で頭がいっぱいになっていた、その時。


「? 全然大丈夫ですよ? 錦糸町から乗り換え無しで帰れますから」

「……え?」


「総武線快速の横須賀線直通に乗れば、鎌倉まで一本なんです。座っちゃえば寝てるだけで着きますよ、むしろ表参道から渋谷とかで乗り換えて帰るより、ずっと楽なんですよ!

……あ」


明るく笑っていた天宮さんが、ふと自分の服の袖をくんくんと嗅いで、気まずそうに眉を下げた。


「でも、このまま座って帰ると周りへ申し訳ないですね……」


密室の電車内で、自分から発せられる強烈なエスニック臭を想像し、さすがの彼女もモデルとしての(いや、人としての)羞恥心を思い出したらしい。


その困ったような顔を見た瞬間、俺の口は勝手に動いていた。


「なら、横浜まで送らせて下さい。俺、川崎なんで」

「え? それ、帰る方向がずれてませんか?」


天宮さんが目を丸くする。当然だ。川崎を通り過ぎて横浜まで行き、そこからまた一人で川崎へ戻ってくるなんて、ただの遠回り以外の何物でもない。


「遠くまで連れ回しちゃったという罪悪感を拭わせてください」


俺がそう言い切ると、天宮さんはキョトンとした後、少しだけ意地悪そうに目を細めて笑った。


「ふふっ。それって星野さんのためですか?」


完全に図星を突かれている。


「もう少し一緒にいたいから」なんてストレートな本音は、とてもじゃないが口が裂けても言えない。だから俺は、精一杯の強がりと、彼女を守るための完璧な言い訳を口にした。


「少なくとも横浜までは、その変な匂いは俺の所為せいに出来ます」

「……っ」


天宮さんは少しだけ驚いたように目を見開いた後、ふきだすように笑って、それからほんのりと頬を染めた。


「ふふっ……じゃあ、お言葉に甘えて。星野さんの罪悪感を拭うために、横浜まで付き合ってあげます」


「どうも。助かります」


錦糸町駅へ向かう帰り道。


横を歩く彼女から漂うナンプラーと香辛料の匂いは、やっぱりどうしようもなく強烈だった。


だけど、不思議と嫌な気はしない。


むしろ、電車の中で隣に座って「やっぱり私たち臭いですね」とひそひそ笑い合うこれからの数十分間が、胃腸の心配よりもずっと楽しみになっている自分がいる。


(……俺、完全に重症だな)

これ以上、このポンコツでたくましい現代のシンデレラに惹かれないようにブレーキをかけるなんて、もう絶対に無理だと悟ってしまった、そんな夜だった。


***


横浜まで一緒に帰った、翌日の土曜日。


俺は九時過ぎに目を覚まし、コーヒーを片手に4.7畳の作業部屋に籠もっていた。


デュアルモニターに向かい、小気味良い音を立ててキーボードを叩く。

俺が連載しているWeb小説は、魔法を重機の代わりに使って領地開拓を行う、少しばかりニッチな内政ファンタジーだ。


現在の展開は、新たな特産品として発見された「香辛料」を巡るエピソードだ。


メインヒロインであるクールで理知的な年上の女性魔術師(お姉さんキャラ)が、その成分を冷静に分析し、領地の経済効果について主人公に報告する……というシーンを、昨夜の謎のテンションのまま書き上げ、先ほどサイトにアップしたばかりだった。


カチャカチャと今後のプロットを練っていると、ピコン、とスマホが鳴った。


読者からの感想コメントがついた通知だ。

ありがたいなと思いつつ画面を開いた俺は、そこに並んだ言葉に目を疑った。


『今回のヒロイン、急に可愛くなりましたね!』


『いつもは冷静なお姉さんなのに、なんか年下の女の子みたいではしゃいでて最高ですw』


『「辛ぁい!でも美味しいですっ!」って、ギャップ萌えすぎる』


「……は?」


俺は嫌な汗をかきながら、投稿したばかりの最新話を慌てて開き直した。


【作中のヒロインのセリフ】


『……っ! この突き抜けるような刺激、最高です! 主殿、次は隣の領地の激辛料理も開拓しましょう! お言葉に甘えて、視察に付き合ってあげます!』


(……誰だこれ!?)


本来なら「カプサイシンの含有量が〜」と冷静に分析するはずのクール系お姉さん魔術師が、完全に「新しい刺激を与えられた無邪気なハンター」の顔になっている。


というか、この言い回し。このポンコツ全開の喜び方。ちゃっかりとした押し引きの強さ。


『お言葉に甘えて、付き合ってあげます』


昨日の夜、錦糸町の駅前で俺に向かって悪戯っぽく笑った、あの現代のシンデレラの顔がフラッシュバックする。


(……っ!!)


俺は頭を抱えて、デスクに突っ伏した。


無意識だった。完全に無意識のうちに、作中のヒロインのセリフや行動が、すべて「天宮菜緒」に引っ張られてしまっている。


しかも、あろうことか「お姉さんキャラが急に年下っぽくなった」というそのバグが、読者に大ウケしてしまっているのが最高にタチが悪い。


(まずい、重症どころか死亡案件だぞこれ……っ)


俺の脳内も、そして長年書き続けてきた大切な作品のヒロイン像までもが、あのポンコツでたくましい激辛モデルによって鮮やかに侵食されていた。


本日もお読み頂きありがとうございます。

ナンプラーとパクチーの香りを纏いながらの帰り道。「横浜までは俺のせいにできます」という

星野くんの不器用な優しさ、作者的にもお気に入りのシーンです。

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