表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/22

【Step.4】完璧シンデレラがパクチーに負けた夜

そのまま駅の改札で無邪気に手を振る彼女と別れ、川崎にある自分のマンションに帰り着いたのは、すっかり夜も更けた時間だった。


ここは、俺がWeb小説で稼いだ印税を元手に購入した、中古の2LDKだ。25歳の独身サラリーマンとしては少し背伸びした買い物だったが、執筆部屋も確保できるし、何より自分の城と呼べる空間があるのは落ち着く。


リビングのソファに深く腰を沈める。

静寂が部屋を包むと、どうしても今日の彼女のことが頭をよぎって仕方なかった。


(なんだかんだで、タイ料理に誘われたよな……。これって、俺に気があるんだろうか?)


天井を仰ぎ見ながら、男の都合の良い妄想がふくらみかける。だが、すぐに頭を振ってそれを打ち消した。


(いや、待て待て。それともただの都合のいい『激辛要員』か? そうだよな、あのハバネロを前に狂喜乱舞する顔を見る限り、俺の存在よりカプサイシンの方が優先度が高そうだ)


悶々と思考が巡る。


(恋人は居るのか? ……いや、居たら休みの日の夜にわざわざ男を食事なんて誘わないよな。もしかして、俺に怪我させた引け目で無理して誘ってくれてる? いやいや、それならばもう補償も終わってるし、事務所的にも今日でお詫びは済んだって本人が言っていた)


考えれば考えるほど、天宮菜緒という現代のシンデレラの意図がさっぱり分からない。


深くため息をついてソファから立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前に立った。


そこに映るのは、星野真という25歳の男の等身大の姿だ。


髪は黒寄りのダークブラウン。美容院にはちゃんと行っているが、セットに気合を入れすぎてはいない。前髪は少し目にかかるくらいで、寝不足の日は軽く乱れる程度。


体型は細マッチョ未満。学生時代に運動していた名残があるくらいで、肩幅はそこそこある。スーツを着ると意外と様になるタイプだと自分でも思う。


服装は「無難だけど清潔」を心がけている。


今日もネイビーや黒が中心で、ユニシロとセレクトショップを適度に混ぜたようなスタイルだ。靴だけは少し気を使っていて、革靴や白スニーカーはこまめに手入れして綺麗にしている。


(うーん、普通だ)


身長は176センチ、体重は70キロ。数字だけ見れば普通にバランスはいい。


25歳の会社員としてはむしろちゃんとしてる側だし、決して「隣に並んで成立しない」ような体格ではないはずだ。


ただ、イベントコンパニオン――というか、現役モデルの女性というのは、その一般人基準を軽々と壊してくる。


ハバネロを丸のみにしたあの顔の小ささ。すらりとした首の長さ、腰の位置から計算が狂っている脚の比率、美しい姿勢と見せ方。


彼女のような存在が日常空間にいると、一気に“画面の中の人”感が浮き彫りになるのだ。


(いや、別に俺がおかしいわけじゃない。俺は至ってまともだ)


鏡の中の自分にそう言い聞かせる。


(でも……あんな子と隣に立つと、急に自分が『普通すぎる』現実に直面するんだよな)


ため息とともに姿見から離れる時。俺のささやかな自信は、ハバネロの刺激とは全く違う理由で、少しだけ削り取られていた。


姿見の前で削られたささやかな自信を振り払うように、俺は頭をガシガシと掻きむしった。


「……いや、ウジウジ悩んでても仕方ないだろ!」


俺はくるりと踵を返し、足早にリビングを出た。向かったのは、この川崎の2LDKマンションの一室。俺の執筆作業場となっている、4.7畳の部屋だ。


デスクの中心に鎮座するデュアルモニターの電源を入れ、愛用のメカニカルキーボードに指を添える。Web小説で稼いだ印税で作った、俺にとって一番落ち着くコックピットだ。


普段ならここで未完のプロットと睨み合うか、伏線の整合性を確認するところだが、今夜、俺がブラウザの検索窓に叩き込んだワードは全く違った。


『都内 タイ料理 激辛 パッタイ』

『激辛 初心者向け 胃に優しい』


エンターキーを、ターンッ!と無駄に力強く叩く。


「どうせ『激辛要員』としてキープされてるなら、いっそ激辛店の情報を完璧に掴んでやろうじゃないか」


ただ黙って連行され、わけもわからず緑色の悪魔ハバネロを食わされて撃沈するだけの被害者でいるつもりはない。


Web小説家としてのリサーチ力を舐めるな。次に行くタイ料理屋は、俺が主導権を握って、俺の胃袋がギリギリ耐えうる(なおかつ彼女が満足する)店を選定してやる!


画面には「唐辛子マーク5つ!」や「自己責任でお願いします」といった、物騒な文言が並んだグルメサイトのレビューが次々と表示されていく。


(……いや、待てよ。タイ料理の辛さって、唐辛子だけじゃなくて酸味とかハーブも混ざるから、メキシコ料理とはまた違うベクトルで胃にくるのか……?)


カチャカチャと小気味良いタイピング音を響かせながら、俺は真剣な顔で調べ始めた。


「恋人は居るのか?」だの「俺に気があるのか?」だの、さっきまでリビングのソファで悶々と悩んでいた甘酸っぱい感傷は、気づけば完全に消え去っていた。


今はただ、来るべき「第三次・激辛死闘編」に向けた情報収集と、己の生存戦略を立てることに、静かに燃えていた。


***


「徹夜のリサーチの成果、見せてやる」

待ち合わせの金曜夜。俺は心の中でガッツポーズをしていた。


激辛の知識を詰め込み、辛さを比較し、ついでに「女性が喜ぶオシャレな内装」の店を完璧にピックアップしたのだ。表参道にある、テラス席付きのモダン・タイ料理店。これなら「激辛要員」の汚名を返上しつつ、スマートな男として――


「星野さん! お待たせしました!」


「あ、天宮さん。お疲れ様。……って、なんか今日、随分とラフな格好ですね?」


目の前に現れた彼女を見て、俺は思わず目を瞬かせた。


シンプルなロゴTシャツに、動きやすそうな黒のワイドパンツ。足元は履き慣れたスニーカー。いつもの洗練されたモデルオーラは完全に息を潜め、あえて言うなら『全身ユニシロの、ちょっとそこまでコンビニへ行くスタイル』だった。


……だが、中身のスタイルと顔の小ささがあまりにも異次元すぎるせいで、かえって『ユニシロの飾らない日常を切り取った新作CM』のワンシーンのように見えてしまう。どう足掻いても、画面の向こう側にいる人間という事実は隠しきれていなかった。


一応、少しばかりデートを意識してジャケットを羽織ってきた俺の服装と比べると、そこには絶望的なまでの温度差がある。


「はい! 今日は『ガチ』なタイ料理店に行くって話だったので、匂いがついてもいい服と、汗かいてガンガン洗っても平気な服で来ました! 戦闘準備はバッチリです!」


「……なるほど。気合十分ですね」


俺は引きつりそうになる頬を必死に抑えながら、心の中で泣いた。

(ダメだ、この人の中では完全に『俺との食事=激辛との死闘』になってる……っ!)


俺の顔に『絶望』の二文字がうっすらと浮かんでいたのだろう。

ふと俺の表情を見た天宮さんは、俺のジャケットと自分のロゴTシャツを交互に見比べると、ハッとしたように身を縮めた。


「あ、あの……星野さん、せっかくオシャレしてきてくださったのに、私こんな格好で……なんだかすみません」


上目遣いで、少し気まずそうに眉を寄せる彼女。

その素直で小動物のような様子を見せられては、俺の卑屈な心など一瞬で浄化されてしまう。


「いえ、俺の服選びのセンスが空回りしただけなんで、気になさらず。……それで、戦闘準備をしてまで行く『ガチ』なタイ料理店って、どこですか?」

俺が苦笑交じりに尋ねると、彼女はパァッと顔を輝かせた。


「えっと、言い訳みたいになっちゃうんですけど! 実は私、ずっと行ってみたかったお店があって。……ただ、そこ、普通のレストランじゃないっていうか……」


天宮さんはスマホの画面を嬉しそうに俺に見せてきた。


そこに映っていたのは、表参道のテラス席とは似ても似つかない、錦糸町のディープな路地裏。怪しげなネオンサインが光る雑居ビルと、『タイ国屋台料理』とマジックで乱雑に書かれた看板だった。


テラス席で夜風に当たりながら「辛いけど美味しいですね」みたいな会話を想定していた俺の脳内プランは、錦糸町の雑居ビル画像によって即死した。


「口コミサイトにはあんまり載ってないんですけど、現地のタイ人の方しか行かないような超ディープなお店らしいんです! メニューも日本語がないらしくて! 星野さんなら、こういう本場の刺激もいけるかなって!」


「…………」


俺の徹夜の「デート向け・激辛タイ料理」リストが、音を立てて崩れ去っていく。



「サワディーカー!」


ドアを開けた瞬間、強烈なナンプラーとパクチー、そして唐辛子が入り混じった香りが鼻の粘膜をぶん殴ってきた。


(……ここは、バンコクの裏路地か?)


店内にはチープなタイのポップスが大音量で流れ、お客さんは見事にタイ人(らしき人々)しかいない。座席はビールケースをひっくり返したような台と、カラフルなプラスチックの椅子。


さっきまで「今日はちょっといい感じのディナーになるかも」と色めき立っていた俺の勝負服スマートカジュアルが、この空間では絶望的に浮いていた。


「わぁ……! すごい、本当に日本じゃないみたい!」


一方の天宮さんは、目をキラキラさせてプラスチックの椅子にちょこんと座っている。


壁に貼られた読めないタイ語のメニューを見上げると、彼女はすぐさまショルダーバッグからスマホを取り出した。


「やっぱり日本語のメニューないですね。えーっと、翻訳アプリのカメラで……あ、出た!」


画面越しにメニューをスキャンしながら、彼女は完全に「未知の激辛」に対するハンターの顔になっていた。


「星野さん、見てください! 翻訳アプリだとこれ『豚肉の怒り爆発炒め』って出ますよ! こっちは『涙が止まらない青パパイヤ』!」


「……それ、料理名じゃなくてただの警告文ですよね? 絶対に日本人が頼んじゃいけないやつだ」


「ふふっ、でも今日はせっかくの『ガチ』ですから! すみませーん、コップンカー! この『怒り爆発炒め』と『涙が止まらない青パパイヤ』、あと『激辛パッタイ』お願いします!」


「いや、俺の意見!」


俺の悲痛なツッコミは、陽気なタイポップスと彼女の嬉しそうな声にかき消された。

(……俺、またしても完全に主導権握られてるな)


オシャレなデートプランは消え失せ、残されたのは完全アウェーの異国空間。


俺はパイプ椅子に深く腰を下ろし、これからやってくるであろう「本場タイの容赦ない洗礼」に向けて、静かに覚悟を決めた。


運ばれてきた激辛パッタイを、天宮さんは嬉しそうに写真に収めていた。


「うわぁ、見てくださいこれ! 唐辛子の量、絶対おかしいですって!」

「いやもう赤い麺じゃなくて、唐辛子の隙間に麺がありますよね」


笑いながら箸を伸ばした彼女だったが、不意に動きが止まる。


「あれ……」

「どうしました?」


「……なんか、この匂いすごくないですか?」

今さらだった。


店に入った瞬間から充満していた、発酵調味料と香辛料と湿気が混ざったような独特の空気。


さっきまでは興奮が勝っていたのだろう。

しかし料理が目の前に来たことで、一気に現実味を帯びたらしい。


「え、待って……これ鼻にくる……」

「辛さじゃなくて?」


「辛さは全然いけます。でも匂いが本場すぎます……!」


涙目になりながら水を飲む天宮さんを見て、俺は思わず吹き出した。


「……初めて弱ってるとこ見ました」

「わ、笑わないでください……! 自分でもびっくりしてるんですから……!」


さっきまで“激辛ハンター”だった彼女が、今は発酵調味料とパクチーの香りから逃げるように顔を背けている。


なんだ。完璧な人ってわけじゃないのか。そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

本日もお読み頂きありがとうございます。

激辛から解放された後の一人の夜。ふと我に返って「画面の中の人」との格差にウジウジ悩む星野くん、男のリアルな心情ですね。

次回はタイ料理でさらなる試練が……!?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ