【Step.2】封印されしピンヒール
ビッグサイトの悲劇から数日後。
俺は会社のデスクで、深い溜息をついていた。
(あーあ、見事にバキバキだな……)
手元にあるのは、あの時カバンごと床に叩きつけられ、液晶が蜘蛛の巣状に割れた愛用の仕事用ノートPCだ。
現在は情報システム部から手配した代替機に、必死でバックアップデータを移行している真っ最中である。プログレスバーはまだ60%。しばらくPC本体の操作はできそうにない。
(暇だな。スマホで溜まったメールでも確認しておくか)
読者からのコメントや誤字脱字報告を読んでいた俺の指が、ふと止まった。
スマホのバッテリー残量が心許ないことに気づき、充電ケーブルを取り出そうと、足元に置いたままのビジネスバッグへ無造作に手を突っ込んだのだ。
指先に、書類でもガジェットポーチでもない、妙に立体的で、滑らかな曲面を持った物体が触れた。
(……ん? なんだこれ?)
ガサゴソと手探りでそれを掴み、何気なくカバンから引きずり出す。
オフィスの無機質な蛍光灯の光の下に現れたのは、白いエナメル素材の――女物のパンプス(片足)だった。
よく見ると、踵のピンヒール部分が見事に根元からポッキリと折れている。
「…………っへ?」
変な声が漏れた。
思考が完全にフリーズする。なぜ俺の通勤カバンから、こんな場違いすぎる女物の靴が出てくるんだ?
数秒の空白の後、俺の脳裏に、数日前の『ビッグサイトの悲劇』の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
降ってきた彼女。
激突。
床に散乱したカバンの中身。
割れたPCの液晶。
朦朧とする意識の中で、這いつくばるようにして床に散らばった荷物を手当たり次第にカバンへ押し込んだ、あの時の記憶……。
(待て待て待て待て!)
俺は慌ててパンプスをカバンに叩き戻し、バッと周囲を見渡した。幸い、同僚たちは各自の業務に集中しており、俺の不審な挙動に気づいた者はいない。
バクバクと心臓が早鐘のように打ち始める中、さらにもう一つの記憶が、時間差で俺の脳髄を容赦なく直撃した。
――『おまけに、最近のシンデレラは、転んでも靴を残して行ってくれないんですね。あんな見事に折れたヒールの靴、記念にもらっておけばよかった』
――『そういえば折れた方、無くなってました』
――『そりゃ残念です』
「あああああああああっ……!!」
声にならない絶望の叫びを上げながら、俺はデスクに突っ伏して両手で頭を抱えた。
残念じゃない! お前だよ! お前のカバンに入ってんだよ!!
ヒールのパーツだけじゃない、折れた靴まるごと一足、ご丁寧にお持ち帰りしてるじゃねえか!!
あの病室での俺、どんな顔してあの冗談言ってた?
「俺、ちょっとスマートな返しできちゃってるな」みたいに、内心ドヤ顔してなかったか?
もしあの時、天宮さんが「あの……星野さんのカバンから私の靴が見えてるんですけど……」なんて気づいていたら?
(完全に、女性の脱ぎ捨てた靴を戦利品として持ち帰る猟奇的な変態じゃねえか……っ!!)
血の気が引くとはまさにこのことだ。正真正銘、現代のシンデレラの靴は俺の手元にあったのだ。最悪な形で。
俺は震える手でカバンのチャックを一番端まで固く閉じ、誰にも見られないようデスクの下の一番奥に押し込んだ。
もう二度と、気の利いた冗談なんて言うのはやめよう。
代替機のプログレスバーがようやく100%に到達し、ポンッという間の抜けた通知音と共にデスクトップ画面が表示された。
俺は全身から流れる滝のような冷や汗をハンカチで乱暴に拭い、現実逃避するようにメーラーを立ち上げた。溜まりに溜まった未読メールを機械的に処理していこうとした俺のマウスを持つ手が、ある一行でピタリと止まる。
『件名:イベント会場でのお詫びの件』
差出人は、天宮菜緒。
あのビッグサイトから俺の頭上に降ってきた、現代のシンデレラだった。
恐る恐る本文を開くと、まずは丁寧な謝罪の言葉が並んでいた。どうやら事務所を通さず、彼女個人として改めてお詫びの食事にご招待したい、ということらしい。
そこまでは良かった。問題は、そのお堅い長文の下にちょこんと張り付いていた一言だ。
『追伸:星野さん、お仕事のストレスとか忘れるには何がいいですか?』
(……仕事のストレス?)
俺はデスクの下に隠したカバンをチラリと一瞥し、盛大に顔を引きつらせた。
(仕事のストレスなんかより、ピンヒールを持ち帰っちまったこの状況のストレスの方が断然高い! 刺激が強すぎるわ!!)
今この瞬間も、いつ誰にカバンの中身を見られるかとヒヤヒヤして心臓が破裂しそうなのだ。このどうしようもない社会的な死の恐怖と、サイコパスじみた己の無意識の行動を、今すぐ記憶から消し去りたい。
俺は震える指でキーボードを叩き、返信を打ち始めた。
怪我については全く気にしていないというフォローの文面に続けて、彼女の質問に答える。
(とにかく、このカバンの中のピンヒールのことを完全に忘れられるくらいの、何か強烈な刺激で今の記憶を上塗りしてくれ……っ!)
そんな切実すぎる現実逃避の願いを込めて、俺はキーを強く叩いた。
『ストレス発散なら、刺激的なもの一択です』
深く考えずに送信ボタンを押した、この一文。
これが、全ての運の尽きだった。
***
あの絶望の昼下がり。
結局俺は、例の『現代のシンデレラの靴(物理)』が入ったビジネスバッグごと、会社の自分用のロッカーの最奥に押し込み、ガチャンと厳重に鍵をかけて永久封印した。
当面の仕事は情報システム部から借りた代替機と以前に使っていたバックパックで乗り切るしかないが、背に腹は代えられない。とりあえず、俺の社会的尊厳と理性は、あの薄暗い鉄の箱の中で守られているはずだ。
そして、数日後の夜。
「お詫びの食事」ということで、俺は少し身だしなみを気にしていた。
(一応、相手はモデルだしな……)
髪に少しワックスを馴染ませながら、鏡の前で小さく息を吐く。
勝手な想像で、ちょっといいイタリアンか、夜景の見えるフレンチなんかを想定して構えて行ったのだ。
それに、俺はあのメールで『刺激的なもの一択です』と答えている。
男の都合の良い妄想としては、少し薄暗い照明の、大人なムードのある店をチョイスしてくれたんじゃないか……なんて、少しばかりの淡い期待も抱いていた。
だが、待ち合わせ場所に現れた彼女に連れられて辿り着いた先は、俺の想定とは180度違うベクトルで『刺激的』な場所だった。
待ち合わせに現れた天宮さんに連れられてやって来たのは、裏路地にひっそりと佇む、ガチの四川料理店だった。
(え、俺、被害者だよね? なんでまた物理ダメージ受けるの!?)
真っ赤な麻婆豆腐や、表面が唐辛子で覆われた激辛スープを前に、俺は絶望していた。
「これ、マグマ?」
思わず漏れた俺の呟きなど聞こえていないかのように、目の前の彼女は目を輝かせている。
「んー! からぁい! おいしー!」
モデルとしての洗練されたオーラはどこへやら。天宮さんは額に汗を滲ませながら、容赦のない辛さの麻婆豆腐を嬉しそうに頬張っていた。
(被害者の俺が、なんで罰ゲームみたいな汗かいてんだ……? でも、赤くなった唇でハフハフしてるの、反則級に可愛いな、くそっ)
「あの、私、激辛大好きなんですけど……モデルの友達は汗かくからって誰も一緒に行ってくれなくて。事務所の人にも『イメージがあるから』って止められてて」
お冷をごきゅごきゅと飲みながら、彼女は悪びれる様子もなく笑った。
「一人で行くのも気が引けたんですけど、お詫びだし、星野さんが『刺激的なもの』って言うから、これは激辛店にいくチャンスだと思ったんです!」
(完全に俺、ダシに使われてるじゃん!)
俺の内心のツッコミをよそに、天宮さんは少しだけ上目遣いになった。
「それに星野さんには、病院で泣いてる顔も、怒られてる顔も見られちゃったから、もう格好つけても意味ないかなって思って。一番好きな所に連れてきちゃいました。……迷惑、でしたか?」
そんなことを言われたら、男としては胃袋が爆発しようが強がるしかない。
「最高に美味いですよ」
(ぐわーっ辛い! 容赦ねぇ、もう舌の感覚がなくて何食べてるかもわかんねぇ!)
結局、その激辛地獄をなんとかやり過ごし、口から火を吹きそうになりながら店を出た直後のことだ。
舌がビリビリに麻痺して涙目になっている俺を見て、天宮さんが悪戯っぽく笑った。
「ふふっ、無理させちゃいましたね。実は、お詫びの本番はここからです」
連れて行かれたのは、夜までやっている落ち着いた雰囲気のカフェ。
そこで彼女が満面の笑みで頼んだのは、『イチゴのショートケーキ』だった。
(さっきまで男顔負けの勢いで激辛料理と格闘してたのに……)
フォークでイチゴをちょこんと刺して、幸せそうに頬張る美女。この「激辛」からの「王道ヒロインの食べ物」という極端なギャップに、俺は再び脳内で悶絶した。
だが、ツッコミどころはそれだけではない。
ケーキと一緒に頼んだブレンドコーヒーから立ち上る湯気を見て、俺は呆れ果てた。
「口の中、激辛で火傷みたいになってるのに、よくそんな熱いコーヒーを飲めるんですね」
「なに言ってるんですか!」
天宮さんはフォークを握りしめたまま、謎の熱弁を振るい始めた。
「コーヒーは絶対に熱々じゃないとダメなんです! アイスなら氷がカラカラ鳴るくらい冷たく! 『生ぬるいコーヒー』なんて、コーヒーへの冒涜ですよ!」
(なんだその謎のこだわり。見た目はお人形さんみたいに完璧なのに、中身は極端から極端にしか振れないバグったメーターしてんな、この子……)
呆れつつも、その人間臭い「素」の部分を見せられるたびに、俺は彼女にどんどん惹きつけられている自分に気づいていた。
***
店を出ると、すっかり夜の空気が涼しくなっていた。
駅へ向かう道すがら、俺は隣を歩く天宮さんに頭を下げた。
「今日はごちそうさまでした。四川料理、最初はびびりましたけど……なんだかんだ美味しかったです」
胃の粘膜が訴えるかすかな悲鳴を無視しつつ、俺は男の意地でそう締めくくった。
「本当ですか? 無理させてないか心配だったんですけど、よかった!」
パァッと花が咲いたように笑う天宮さんを見て、俺はつい気を良くしてしまった。そして、場を持たせようと、言ってはいけない余計なエピソードを口走ってしまう。
「そういえば、辛い店で思い出したんですけど」
「はい?」
「前にメキシコ料理の店でステーキを頼んだんですよ。赤身肉で結構ワイルドな感じのやつ。で、お皿の端に付け合わせの獅子唐が乗ってるなと思って一口で食べたら、それがハバネロで。もう、悶絶するほど辛くて……そこから二十分は何を食べても味がしなくて、もう死ぬかと思いましたよ」
ちょっとした笑い話、かつトラウマの共有のつもりだった。
笑って綺麗に解散するはずだったのだ。
しかし、天宮さんの反応は予想と全く違った。
ピタリと、彼女の足が止まる。
見ると、その大きな瞳が、獲物を見つけた肉食獣のようにキラリと輝いていた。
「……ハバネロの、丸かじり……」
「え?」
「ワイルドな赤身肉に、悶絶するほどのハバネロ……ッ!」
「あ、あの、天宮さん? なんか呼吸荒くなってません?」
ガシッ! と、天宮さんが俺のスーツの袖を掴んだ。
ものすごい熱量でグイッと距離を詰めてくる。いい匂いと、少しの圧。
「星野さん! 私、ずーっと本格的なメキシコ料理の激辛タコスとかハラペーニョ、食べてみたかったんです! でも一人じゃ浮くし、誰も付き合ってくれなくて……!」
「いや、あの、俺もあれは事故で食べただけで、別に好んで激辛を求めてるわけじゃ……」
「四川のマグマを乗り越えた星野さんなら大丈夫です! ね、次はそこに行きましょう! お詫びの『お礼』、させてください!」
(お詫びのお礼ってなんだよ!)
脳内で激しくツッコミを入れつつも、時すでに遅し。
彼女の中で「星野真をダシにして激辛を食べに行くための免罪符」は、完全に発行されてしまったらしい。俺という都合のいい生贄を得て、天宮さんの背中には見えない悪魔の羽がパタパタと羽ばたいているようにすら見えた。
上目遣いで、期待に満ちたキラキラの笑顔で見つめられる。
「…………分かりました。じゃあ、また今度、予定合わせましょう」
「はいっ! すっごく楽しみにしてますね!」
駅の改札前。
満面の笑みでヒラヒラと手を振って帰っていく現代のシンデレラを見送りながら、俺は自分の胃薬のストックが足りるかどうかを本気で心配していた。
(俺……完全に『激辛要員』としてキープされただけだよな……?)
一抹の情けなさと、それでもまた彼女に会えるという誤魔化しきれない期待感。
それが、極端から極端へ振り切れる彼女のペースに巻き込まれる、激辛な日々の始まりだった。
本日もお読み頂きありがとうございます。
スマートな冗談を言ったつもりが、完全に「脱ぎ捨てた靴を戦利品として持ち帰るヤバい奴」になっていましたね(笑)。
そしてヒロインからのディナーのお誘い。ここから彼の胃腸の試練が始まります。




