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【Step.19】我慢しない人が、いい

二日間にわたる『バイシクルモビリティEXPO26』は、大盛況のうちに幕を閉じた。


蛍の光が流れる会場内で、各ブースの撤収作業が慌ただしく始まる。

派遣元のマネージャーと共に帰り支度を終えた天宮さんが、私服姿(と言っても、相変わらずスタイルの良さが隠しきれていないオーバーサイズのパーカー姿だが)で、パイプ椅子を片付けていた俺のところにやってきた。


「星野さん、二日間お疲れ様でした!」

「お疲れ様です。天宮さんも、ヒールでずっと立ちっぱなしで大変でしたね」


「いえいえ、楽しかったです。……あ、そうだ星野さん」


天宮さんは周囲をキョロキョロと見渡し、少し声を潜めて言った。


「この前の有楽町のトルコ料理の件なんですけど。星野さんの会社の福利厚生みたいなツテでご馳走になっちゃったじゃないですか。だから、今日いらしてる上司の方に、ご挨拶とお礼をしておいた方がいいかなって……」


(――――ッ!!)


俺は持っていたパイプ椅子を落としそうになった。


冗談じゃない。うちの会社に「シュミラン掲載の超高級トルコ料理店をタダで使える福利厚生」なんて存在するわけがない。あれは俺がWeb作家としての印税(担当編集の神崎のコネ)をフル活用して捻出した、見栄と意地の結晶なのだ。


「い、いや! ダメです! 絶対にダメです!」

「えっ?」


「今日来てる上司は、その……管轄外というか! むしろそういう福利厚生の存在を知らない派閥の人なので、言うと色々と社内政治がややこしくなるんです!」


我ながら無茶苦茶な言い訳だったが、俺は必死の形相で天宮さんを押し留めた。


「そ、そうなんですか? 会社って大変なんですね……」


「ええ、もうドロドロですよ。俺はまだ力仕事の片付けがあるので、天宮さんは先にお疲れ様でした。また後で、LIMEで連絡します」


「……はい。じゃあ、また」


少し不思議そうな顔をしつつも、天宮さんはペコリと頭を下げて、マネージャーと共に会場を後にした。


俺は冷や汗を拭いながら、彼女の後ろ姿を見送った。


***


菜緒はエキスポ会場から背中を押されるように帰途についた。

新宿駅から湘南新宿ラインに乗り込み、横浜駅で横須賀線への乗り換えを待っていた時のことだった。


(星野さん、疲れてたなぁ……。帰ったら、何かスタミナつく激辛料理のレシピでも送ってあげようかな)


そんな風に、自然と頭の中で彼のことばかり考えていた時。


「……菜緒?」


不意に背後から、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。

振り返ると、そこには見知った顔の男性が立っていた。


「タカヒロ……?」


大学時代に付き合っていた元カレ。

清潔感のあるジャケットに身を包んだ彼は、少し驚いたように目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。


「やっぱり菜緒だ。久しぶり。……ちょっとだけ、時間ある? 近くのカフェで話さないか」


***


駅前のオシャレなカフェ。

向かい合って座ったタカヒロは、アイスティーのグラスを指でなぞりながら、どこか探るような視線をこちらに向けていた。


「モデルの仕事、順調みたいだね。たまに雑誌とかネットで見るよ。……大学の時より、ずっと綺麗になった」


「ありがとう。タカヒロも、商社だっけ? 忙しそうだけど元気そうでよかった」


当たり障りのない近況報告を数分交わした。


別れた時は最悪だった。泣きながら「命の危険を感じる」と言われて振られたのだから、正直どんな顔をして会えばいいのか分からなかったけれど、時間が経ったせいか、お互いに落ち着いて話すことができていた。


やがて、タカヒロは少しだけ姿勢を正し、真剣な眼差しで私を真っ直ぐに見つめた。


「菜緒。……やっぱり、お前以上の女はいなかった」


「……えっ」


「社会人になって、何人かの女の子と付き合ったりもしたけど……どうしても、お前と比べてしまう自分がいるんだ」


甘く、熱を帯びた声。


かつての私なら、その言葉を聞いて胸をときめかせていたかもしれない。

でも、不思議なくらい、今の私の心臓は一定のトーンで静かに脈打っていた。


「もう一回、やり直さないか?」


タカヒロの言葉に、私は戸惑いながら小さく首を振った。


「タカヒロ、でも……私たち、ダメだったじゃない。私の、あの『趣味』に……タカヒロはついてこれなかった」


私がそう言うと、タカヒロは少しだけ気まずそうに目を伏せた後、すぐに顔を上げて必死に訴えかけてきた。


「分かってる! 俺もあの時は若かったっていうか、余裕がなかったんだ。……だからさ、お互いに歩み寄ろう。あの異常な激辛趣味さえ、少し我慢してくれれば……俺だって、たまには辛いものに付き合うからさ」


(――我慢してくれれば)


その言葉を聞いた瞬間だった。


私の脳裏に、ある人物の顔がフラッシュバックした。


『……すみません。彼女の言う通り、別添えで構いませんので、ありったけのチリペッパーか、この店で一番辛いスパイスを持ってきていただけませんか?』


静かなジャズが流れる、銀座の超高級トルコ料理店。

普通の男の人なら、自分の見栄やお店の格式を気にして「ここでは我慢しろ」と嗜めるはずの場面で。彼は私のためだけに、タキシード姿のウェイターに真顔で頭を下げてくれた。


『この食べ物は親愛の表現だから、差し出されたら断ってはいけないと』

『ええ。本わさびです。しかもスーパーで一番高かった特選仕様です』


エチオピア料理店で、ボロボロに涙を流しながら、それでも私を拒絶するのではなく、真っ赤なインジェラに致死量の緑のペースト(わさび)を乗せて、やり返してきたあの不器用な笑顔。


『少なくとも横浜までは、その変な匂いは俺の所為に出来ます』


パクチーの匂いが取れない私を気遣って、遠回りしてまで一緒に電車に乗ってくれたあの夜。


タカヒロは「我慢してくれ」と言った。


普通の男の人なら、それが当たり前なんだと思う。私の趣味は、普通じゃないから。


でも、星野さんは一度だって「我慢して」なんて言わなかった。


理屈をこねて、文句を言って、胃腸薬を飲みながら……それでも最後は必ず、私と同じテーブルに座って、一緒に涙目になってくれた。


私の大好きなものを、否定せずに真っ向から受け止めて、一緒に戦ってくれたのだ。


「……っ」


その事実に気づいた瞬間。

胸の奥から、ジンジンと熱いものが込み上げてきた。それはカプサイシンの熱じゃない。もっと甘くて、どうしようもなく切ない、確かな熱だった。


(私……っ。星野さんのこと、ただの激辛友達だなんて、思ってない……)

私はゆっくりと顔を上げ、タカヒロを真っ直ぐに見つめ返した。


「ごめん、タカヒロ」


「菜緒……? 俺、本当に今回は努力するから」


「ううん、そういうことじゃないの」


私は、自分でも驚くくらい自然に、スッキリとした笑顔を浮かべていた。


「私、自分の好きなものを『我慢』するんじゃなくて……私が美味しく食べられるように高級レストランで頭を下げてくれて、そのくせ自分からは全力でわさびを乗せてやり返してくるような人が……たぶん、好きなの」


「は? なにそれ。……やり、返す?」


タカヒロがポカンと口を開けて困惑している。

当然だ。普通の恋愛の話をしているのに、「やり返す」なんて物騒な単語が出てくるはずがない。


でも、私とあの人の間には、その物騒で刺激的なやり取りこそが、一番の「親愛の表現」だったのだ。


「声かけてくれてありがとう、タカヒロ。お仕事、頑張ってね」


私は席を立ち、伝票を手に取ってレジへと向かった。

お店を出て、夜の横浜の街を駅へと歩き出す。

足取りは、驚くほど軽かった。


バッグの中に入っているスマホが、とても愛おしいものに思える。

(帰ったら、みゆに言おう……。私、完全に恋しちゃったみたい、って)


夜風に吹かれながら、私は彼の不器用な笑顔を思い浮かべ、そっとマスクの下で唇を綻ばせた。

本日もお読み頂きありがとうございます。

天宮さん視点。元カレの「我慢してくれれば」という言葉に対して、銀座で真顔でスパイスを要求し、エチオピアでわさびを乗せてきた星野くんの不器用な姿を思い出すシーン。彼女はもう、彼じゃなきゃダメですね。

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