【Step.18】1cmの身長差と、プロフェッショナルの足元
週末。新宿の高層ビル内にある巨大なイベント空間は、開場を数時間後に控えて戦場のような熱気に包まれていた。
俺はワイシャツの上から羽織っていたスーツの上着を脱ぎ、自社のロゴが入ったスタッフジャンパーに袖を通した。EXPO26の公式台紙と自分の社員証を重ねて、透明のソフトケースに収める。
ネックストラップを首にかけて胸の前に下げると、なんだか急にいっそうの「裏方感」が増した気がした。
「いててて……」
肩を回すと、鈍い痛みが走る。
昨日の午後、前日搬入でこの会場入りした俺たちは、一台数十キロはある新型電動モビリティ(e-bike)を何台も展示台へ運び上げ、何十箱ものカタログの入った段ボールを開梱し続けた。
普段デスクワーク中心の若手営業マンにとって、あの肉体労働は完全に想定外のダメージだった。
「ふぅ……よし、カタログの配置はこんなもんか」
全身の筋肉痛に耐えながら最終チェックをしていると、いよいよ開場十分前を知らせるアナウンスが鳴り響いた。
「星野ー! 派遣元の事務所からコンパニオンの子たちが到着したぞ! ウチの担当の子にポジション伝えてパンフ渡しといてくれ!」
現場の仕切りを任されているウチの課長が、ピリピリとした声で指示を飛ばしてくる。
「了解です!」
俺は返事をし、同じくじゃんけんに勝って裏方として駆り出されている総務部の男(同期で彼女いない歴=年齢)と一緒に、補充用のパンフレットの束が入った段ボールを抱え上げた。
エントランスの方から、各社のコーポレートカラーの衣装を着たコンパニオンたちが、それぞれの担当ブースへと散っていくのが見える。
その時だ。
「おはようございます、星野さん!」
背後から、鈴を転がしたような明るい声が響いた。
振り返った俺は、抱えていたパンフレットを危うく床にぶち撒けそうになった。
「あ、天宮、さん……」
そこに立っていたのは、スポーティかつ近未来的なデザインの、白と『うちの会社のコーポレートカラー』を基調としたタイトなコンパニオン衣装に身を包んだ天宮菜緒だった。
長い脚をすらりと伸ばし、髪は高い位置でポニーテールにまとめられている。
あの日とは違い、今は同じフラットな床の上に立っている。
それなのに、イベント用の高いヒールを履いた彼女の背丈は、176センチの俺よりもほんの1センチだけ高くなっていた。
そのわずかな身長差のおかげで、見下ろすでも見上げるでもなく――彼女の大きな瞳と俺の視線が、寸分の狂いもなく真っ直ぐに交差する。
バッチリと合った視線に、心臓がドクンと大きく跳ねた。
あのビッグサイトのステージで見上げた時と同じ、いや、それ以上に洗練された「画面の中の女神」のオーラが、俺の職場のど真ん中に降臨していた。
「ふふっ、本当に同じ職場ですね。今日はよろしくお願いします!」
彼女は俺の目を見たまま、首元に下げた「STAFF」のパスを軽く持ち上げて、悪戯っぽくウインクをした。
「……ッ!?」
隣で段ボールを持っていた総務部の男が、息を呑んで完全に石化していた。
少し離れた展示台の前にいる開発陣たちも、明らかに挙動不審になっている。
「お、おい……今年のウチの担当コンパニオン、レベル高すぎないか?」
「なぁ、あんな子、事前のリストにいたか……?」
「なんで星野とあんなに普通に話してるんだ……?」
オタク特有の早口でざわつき始める開発陣と、未だに硬直が解けない総務の同期をよそに、俺は冷や汗を流しながら天宮さんに小声で尋ねた。
「お、おはようございます。……本当に、来てくれたんですね。でも、なんでうちのカラーの衣装を……」
「マネージャーにお願いして、裏から手を回しちゃいました。他の会社のブースに行っても意味ないですから」
彼女は悪びれる様子もなく胸を張り、俺の手元にあるパンフレットの束にスッと手を伸ばしてきた。
「はい、パンフレットの束、半分持ちますよ。私、こういうの配るの得意ですから!」
「いや、重いから大丈夫ですよ。天宮さんは、笑顔で立っててくれるだけで十分すぎる宣伝効果に――」
「だーめーでーす」
天宮さんは俺の言葉を遮り、ひょいっとパンフレットの束を半分奪い取った。
「今日は『激辛要員』じゃなくて、『優秀な仕事仲間』として来たんですから。星野さんの足を引っ張るようなマネはしませんよ」
「……」
スタッフジャンパーを着て全身筋肉痛の俺と、完璧な衣装に身を包んだ現代のシンデレラ。
どう見たって不釣り合いなはずの並びなのに、彼女は俺の隣に立つことを心底楽しんでくれているようだった。
「……じゃあ、負けないくらい配ってくださいね。ノルマ、厳しいですよ?」
「望むところです!」
開場を知らせるベルが鳴る。
隣では総務部の同期が「お前、いつの間にあんな超絶美人と……っ! あとで絶対に尋問するからな!」と血の涙を流しながら俺の肩を揺さぶっていた。
***
開場から一時間が経過し、俺たちのブースは完全にパンク状態に陥っていた。
「ああっ、もうパンフレット無くなります! 星野さん、補充お願いします!」
「了解! すぐ持ってくる!」
原因は火を見るより明らかだった。
周囲のブースのコンパニオンも十分に綺麗なのだが、うちのブースの前に立つ天宮さんのレベルが完全に規格外なのだ。彼女が微笑んでパンフレットを差し出すだけで、まるで吸い寄せられるように男性客(時々女性客も)が群がり、用意していた数百部の束が瞬く間に消えていく。
俺は汗だくになりながらバックヤードへ駆け込み、新しい段ボール箱を開けてパンフレットとノベルティの束を抱え上げた。
(それにしても、すごい集客力だな……)
感心しながらブースに戻ってきた俺の目に、嫌な光景が飛び込んできた。
天宮さんの前に、大きな一眼レフカメラをぶら下げた数人の男たち(カメコ)が陣取り、なにやら執拗に絡んでいるのだ。
「えー、いいじゃん! 写真撮らせてくれたお礼にさ、そのキーホルダーとステッカー、タダでちょうだいよ!」
「そうそう、どうせ余るんでしょ?」
彼らが要求しているのは、本来なら展示車両に試乗してアンケートに答えてくれた人にだけ渡す限定ノベルティだった。
天宮さんは困ったように眉を下げつつも、決して作り笑顔は崩さずに対応している。
「申し訳ありません、こちらはアンケートにご協力いただいた方限定でして……」
「ケチくさいこと言わないでさ! ほら、もう一枚撮るから目線こっちちょうだい!」
男たちが強引にカメラを構えようとした、その時。
「恐れ入ります、お客様」
俺は天宮さんの前にスッと割って入り、男たちと彼女の間の視線を(物理的に)遮断した。
「こちらのノベルティは、弊社の新製品をご体験いただいた方への特典となっております。もしご希望でしたら、あちらの試乗受付列にお並びいただけますか?」
「あ? なんだよ兄ちゃん、ちょっとくらい融通きかせろよ」
「申し訳ありませんが、ルールですので。それに……」
俺はスタッフジャンパーの胸元のIDパスを見せつけ、営業マンとしての「一切隙のない冷たい笑顔」を男たちに向けた。
「通路を塞いでの長時間の撮影は、他のお客様のご迷惑となります。これ以上の滞留はお控えいただけますか?」
俺が毅然とした態度で、声のトーンをワントーン落として告げると、男たちは「……チッ、なんだよノリ悪いな」と悪態をつきながら、そそくさと退散していった。
「星野さん……」
「大丈夫でしたか?」
「はい、助かりました。ありがとうございます」
ホッと息を吐き出す彼女に補充のパンフレットを渡し、俺たちは再び怒涛の配布作業へと戻った。
***
「お疲れ様です、星野さん。はい、これ」
シフト交代の時間になり、バックヤードのパイプ椅子に死体のように項垂れていた俺の頬に、冷たいペットボトルが押し当てられた。
見上げると、同じく休憩に入った天宮さんが、スポーツドリンクを差し出してくれていた。
「ありがとうございます……。いや、イベントの裏方って想像以上に重労働ですね。昨日の設営から通しだと、足腰がパンパンですよ……」
「ふふっ、今日は特別お客さんが多いですからね」
「お客さんが多いのは天宮さんの集客力が凄いからですよ。……でも、本当に大丈夫なんですか? 事務所的に」
「え?」
「いや、いくら同じイベントに出るからって、ピンポイントでうちの会社のブースにねじ込むなんて、普通は無理じゃないかと思って」
俺の疑問に、天宮さんは悪戯っぽく笑って種明かしをしてくれた。
「ウチのマネージャーには、前に星野さんからもらった名刺と、今回の求人票を一緒に持っていったんです。前に怪我させた人の会社が今回のEXPOに参加するって言ったら、お詫びも兼ねてってことで二つ返事でしたよ?」
(……怪我の件は、もうお互いの間でとっくに終わっているはずなのに)
わざわざその理由を引っ張り出して、マネージャーを説得してまで俺と同じ職場に来てくれたのか。
彼女の強かで健気な行動力に、俺は少しだけ胸が熱くなるのを感じながら、ペットボトルの蓋を開けた。
そして、隣の椅子に座った彼女の足元に自然と視線が落ちた。
細く美しい足首の先にあるのは、10センチ以上はあろうかという細いヒールのパンプスだ。
「……天宮さんこそ、大丈夫なんですか? そんな高いヒール履いて、ずっと笑顔で立ちっぱなしなんて。足、痛くないんですか?」
素朴な疑問だった。
スニーカーを履いている俺ですら疲労困憊なのに、あんな不安定な靴で数時間も笑顔をキープし続けるなんて、どう考えても人体構造に反している。
俺の言葉に、彼女は自分の足元を少しだけ見下ろし、それから、今まで見せたことのないような「大人びた微笑み」を浮かべた。
「痛いですよ。足の裏も、ふくらはぎも、本当はジンジンしてます」
「えっ、なら少し靴脱いで揉んだ方が……」
「でも、平気なんです」
彼女は真っ直ぐに俺の目を見た。
「あのブースの前に立って、ヒールを履いて皆さんに笑顔を向けるのが、私の『仕事』ですから」
「――――っ」
その言葉の響きに、俺は息を呑んだ。
激辛料理の前で涙目になっていたポンコツな女の子でも、無邪気に俺の服の匂いを嗅いできた無防備な女の子でもない。
そこにいたのは、自分の仕事に対して圧倒的な誇りを持つ、プロフェッショナルな一人の女性(現代のシンデレラ)だった。
「……かっこいいですね。天宮さん」
俺が思わず本音を漏らすと、彼女は一瞬きょとんとして、それから耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「っ……急にそんな、真正面から褒めないでくださいよ……! 恥ずかしいじゃないですか」
(……本当に。この人には敵わないな)
俺は少しぬるくなったスポーツドリンクを飲みながら、この数日、自分が嘘をつき続けていることに、かつてないほどの後ろめたさを感じ始めていた。
本日もお読み頂きありがとうございます。
職場の自社ブースに、まさかの天宮さんが降臨! 「1センチの身長差」で真っ直ぐ視線が交わる瞬間、
書いていてすごくエモかったです。
同僚たちの驚きっぷりも良いスパイスになりました。




