【Step.15】魔法の馬車と、深夜のドライブ
シュールすぎるトルコアイスの攻防戦を終え、大満足のディナータイムはお開きとなった。
「ふふっ、本当に美味しくて楽しかったです! アダナケバブも最高でしたし、最後のアイスも! 星野さん、今日は何から何まで本当にありがとうございました!」
「いえ……楽しんでいただけたなら何よりです」
VIPルームを出て、エントランスへと向かう大理石の廊下。
天宮さんは「私、ちょっとお化粧室に行ってきますね」と小走りで角を曲がっていった。
彼女の背中が見えなくなったのを確認し、俺は傍らを歩いていた初老のウェイターに向き直った。
「あの。本日は急な予約の上、色々と無茶な注文を聞いていただき、本当にありがとうございました」
俺はスーツのポケットから、四つ折りにした数枚の一万円札を取り出し、握手をするような自然な動作でウェイターの掌へと滑り込ませた。
「……星野様。これは」
「俺からの個人的な感謝とお詫びです。シェフにも、あの素晴らしいソースを台無しにしてしまったこと、深くお詫び申し上げるとお伝えください。……でも、あなたのスマートなサービスのおかげで、彼女を最高の笑顔にすることができました。本当に感謝しています」
俺が深く頭を下げると、初老のウェイターは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
だが、彼はすぐに手の中の心付けを滑らかな動作で上着の内ポケットへと収め、本日一番の、心からの温かい微笑みを浮かべた。
「……とんでもございません。お連れ様にあれほど喜んでいただけたのであれば、私共もサービスマン冥利に尽きます。あの独特なスパイスの配合は、シェフにとっても良い刺激になったと申しておりました」
プロフェッショナルとしての完璧な返し。一流のサービスマンの懐の深さに、俺は胸を撫で下ろした。
「星野さーん! お待たせしました!」
パタパタと軽い足音を立てて、天宮さんが戻ってくる。
ウェイターはスッと一歩下がり、再び「完璧な黒服」の顔に戻ってエントランスの重厚な扉を開け放った。
「本日はご来店、誠にありがとうございました。星野様、またのお越しを、心よりお待ち申し上げております」
「はい! ごちそうさまでした!」
夜の有楽町へ足を踏み出す彼女の背中を追いかけながら、俺はウェイターに向けて最後に小さく目礼をした。
「……星野さん? どうかしましたか?」
「いえ。……本当に、いい店でしたね」
俺が少しだけ毒気を抜かれたように笑うと、天宮さんも「はいっ!」と嬉しそうに頷いた。
(……まあ、神崎さんへの借りはとんでもなくデカくなったけどな)
次の新章のプロットは、死ぬ気で最高のものに仕上げなければならない。
そんな胃の痛くなるような現実も、隣でキャリーケースを転がしながら楽しそうに笑う彼女の横顔を見ていると、不思議と悪くないものに思えた。
***
店を出てスマホの時計を確認すると時刻はすでに23時を回っていた。
有楽町駅から山手線で東京駅へと向かい、そこから東海道線の最終近い下り電車に乗り込む。
休日の深夜の下り電車は、飲み会帰りのサラリーマンや学生でそこそこ混み合っていたが、運良く俺たちは並んで座席に腰を下ろすことができた。
「はぁー……さすがに疲れましたね」
天宮さんが、こてんと軽く首を傾げて座席の背もたれに身を預ける。
朝から横浜アリーナでの大舞台をこなし、そのまま新幹線で有楽町へ移動しての激辛ディナー。彼女の体力もそろそろ限界に近いのだろう。
「無理もないですよ。……少し、寝ておきますか? 川崎に着いたら起こしますから」
「んー……。でも、寝ちゃったら星野さんとお話しできないじゃないですか」
少しだけとろんとした目で、彼女がこちらを見上げてくる。
その無防備すぎる視線と、ほんのりと甘い言葉の響きに、俺の心臓がドクンと跳ねた。
「寝ちゃったらお話しできないじゃないですか」
少しとろんとした上目遣いと、その破壊力抜群のセリフに、俺の心臓が警鐘を鳴らす。
さっきまで銀座のVIPルームで余裕ぶっていた「大人の男」の仮面が、あっさりと剥がれ落ちそうになった、その時だった。
『――お客様にご案内いたします。先ほど、先行列車にて発生した線路内立ち入りの影響により……誠に申し訳ございませんが、この電車は急遽、【横浜】で運転を打ち切らせていただきます』
「…………は?」
無機質な車内アナウンスが、二人の間の甘い空気を容赦なく切り裂いた。
『繰り返しご案内いたします。本日はダイヤ乱れの影響により、大船・鎌倉方面への列車の接続はございません。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしますが――』
「えっ……? 星野さん、今のって」
天宮さんが、目をぱちくりと瞬かせる。
俺は慌ててスマホの乗り換え案内アプリと運行情報を開いた。
画面は真っ赤な遅延と運休のマークで埋め尽くされている。血の気が引いた。……やってしまった。有楽町の店に長居しすぎたせいで、ただでさえ終電ギリギリだったのだ。それに加えての、この突発的なトラブル。鎌倉へ帰る手段は、公共交通機関では完全に絶たれた。
「ご、ごめんなさい! 俺が有楽町なんか連れ回したせいで……! 川崎から、タクシー捕まえます。もちろん代金は俺が――」
「あ、大丈夫ですよ! 途中まで寝ちゃってて私も時間気にしてませんでしたし、こんなトラブル誰にも読めないですから! タクシーくらい自分で――」
「ダメです。そんなの、男として絶対に許容できません」
俺は立ち上がり、きっぱりと首を横に振った。
彼女をこんな時間まで連れ回したのだ。ここで深夜のタクシーに一人で乗せるくらいなら、腹を切った方がマシだ。
「……川崎駅で降ります」
「え? でも、川崎から鎌倉ってタクシーだと結構な距離じゃ……」
「俺のマンションが川崎にあります。車を出して、鎌倉まで送ります」
「ええっ!? そんな、悪いですよ! 往復ですごい時間かかっちゃいますし!」
「いいんです! 乗り掛かった船ですから!」
俺が先ほどの彼女のセリフをそのまま返す形で押し切ると、電車は川崎駅のホームへと滑り込んだ。
***
深夜の川崎。
駅前の喧騒を抜け、国道15号の手前にある道に入る。
俺は天宮さんのキャリーケースを引きながら、自分の住むマンションへと彼女を案内した。
「わあ……すっごく立派なマンションですね」
エントランスの重厚なオートロックゲートを横目に、天宮さんが感嘆の声を漏らす。
(マズい。Web小説の印税で調子に乗って買った、セキュリティ無駄に高めのちょっといいマンションだなんて言えない)
「あ、いや……築年数いってるんで、家賃はそんなでもないんですよ。駐車場はこっちです」
俺は誤魔化すように足早に歩き、マンション併設の屋内駐車場へと彼女を誘導した。
深夜の静まり返ったコンクリートの空間に、俺たちの靴音とキャリーケースの車輪の音だけが響く。
「ええっと、俺の車は……あ、あれです」
俺はポケットからスマートキーを取り出し、解錠ボタンを押した。
――ピピッ。
電子音と共に、暗がりの奥でオレンジ色のハザードランプが二回点滅する。
その光に照らし出されたのは、角張った武骨なシルエット。漆黒のボディが照明を反射して鈍く光る、圧倒的な存在感を放つ巨大なSUV――。
メルセデス・ベンツ、Gクラス(ゲレンデヴァーゲン)。
俺が印税に任せて現金一括で購入した、男のロマンの結晶である。
「さ、乗りましょうか。夜なんで道も空いてると思い――」
「……星野さん?」
振り返ると、天宮さんは車の数メートル手前でピタリと足を止め、信じられないものを見るような目で俺と車を交互に指差していた。
「はい」
「これ……ベンツの、ゲレンデですよね?」
「…………まあ、そうですね。よくご存知で」
「イベントの展示で見たことありますから……。あの、これ、本当に星野さんの車なんですよね?」
「はい」
天宮さんは、じとーっとした半眼で俺の顔を覗き込んできた。
先ほどの銀座の超高級店『Zeytrn』でのVIP待遇。そして今度は、新車で買えば数千万は下らない超高級SUV。
「……星野さんって、本当に『ただの会社員』なんですか?」
(あーーーーーっ!! バレる!! これ絶対に怪しまれてる!!)
俺は背筋から滝のような冷や汗を噴出させながら、必死で言い訳の言葉を脳内検索した。
ここで「実は超売れっ子の小説家でして」などと明かせばいいのかもしれないが、一度「ただの会社員です」と零の前で堂々と言い切ってしまった手前、今更引くに引けない。
「ち、中古です!! 中古で買ったんですよ! ロマンを追い求めて、頭金ゼロの120回払いのフルローンを組んでしまって、毎月火の車なんです! だから普段は自炊や、安い激辛料理で節約してるんです!!」
「ええっ!? 120回払い!? 星野さん、そんな無茶して……っ!」
「そうなんです! だから会社員としての給料は全部こいつに消えてます! さっきのVIPルームも、会社の接待枠を無理やり使わせてもらっただけで!」
天宮さんはすっかり騙され、両手で口を覆って「なんてこと……」と、ひどく可哀想な人を見る目を向けてきた。
(……ごめん! 嘘だ! 口座にはこの車が数台買えるくらいの印税が眠ってる! 本当にごめんなさい!)
俺は心の中で血の涙を流して土下座し、スマートに助手席のドアを開けた。
分厚く重いドアの感触。車高が高いため、乗り込むには少しだけステップを上がる必要がある。
「ほら、どうぞ。夜風で冷えたでしょうから、シートヒーター入れておきますね」
「あ、ありがとうございます……。あの、ガソリン代、あとでちゃんと割り勘にしてくださいね?」
「……お気遣いなく」
恐る恐る高級レザーのシートに腰を下ろす彼女を確認し、俺は運転席へと回り込んだ。
エンジンをかけると、野太いエキゾーストノートが低く響く。
「それじゃあ、鎌倉まで。夜のドライブと洒落込みましょうか」
「はい……! なんだか、本当に魔法の馬車みたいです」
魔法の馬車。
彼女の何気ない一言に、俺はハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。
横浜アリーナでの絶対的な劣等感。あのイケメンプロゲーマーに見せつけられた「住む世界の違い」。
だが今、俺の「魔法の馬車」の助手席で無防備に微笑んでいるのは彼女だ。
俺はカーナビの目的地を鎌倉にセットし、深夜の国道15号へとゲレンデヴァーゲンを滑り出させた。
本日もお読み頂きありがとうございます。
ウェイターさんへのスマートな心付けからの、駐車場でのGクラス(ゲレンデヴァーゲン)登場!
ただの哀れな会社員設定、完全に怪しまれています。そりゃそうだ。




