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9 これでプロジェクトは大幅な前倒しで完了ね

 ルサージュ公爵邸での穏やかな朝食を終え、私は前世の現場監督としての血を騒がせながらさっそくアドリー様の執務室で領地の地図を広げていた。


 愛する夫が書類仕事と外交という得意分野に専念できるよう、私は物理的なタスクを巻き取る最強の重機――もとい、頼れる妻としてこの領地を最高にホワイトな環境へと整備しなければならないのだ。


「アドリー様。現在、我がルサージュ領で最も解決が長引いている、物理的なボトルネックとなっているタスクは何でしょうか?」


 私が地図を指差しながら尋ねると、アドリー様は少し驚いたように瞬きをした後、嬉しそうに微笑んで地図の西側にある山岳地帯を指で示した。


「現在、領地の経済的な機会損失として最も大きいのは、このヤトゥルク鉱山の閉鎖ですね」


「ヤトゥルク鉱山、ですか」


「ええ。ここではヤトゥルクメタルという、魔法を弾き返す特殊で極めて強靭な金属が採掘されていました。武具や防壁の素材として非常に高値で取引される重要資源なのですが……数年前、巨大な魔物の群れが暴れ回った影響で、大規模な岩盤崩落が起きてしまったのです」


 アドリー様の説明によると、鉱山へと続く唯一の道が、山の一部が丸ごと崩れ落ちたかのような巨大な岩石の山によって完全に塞がれてしまっているらしい。

 魔術師の部隊や騎士団が何度か撤去を試みたものの、岩の一つ一つが規格外に大きく、下手に強力な魔法や火薬で爆破しようとすれば、地盤の緩んだ山全体が崩落して鉱山そのものが消滅してしまう危険があった。

 結果として、安全かつ確実な手段は人力で少しずつ岩を砕いて運び出すことしか残されておらず、実質的な休眠プロジェクトとして凍結状態にあるのだという。


「なるほど。魔法や重機が使えない繊細な撤去作業が必要なのですね……でも、ヤトゥルクメタルという貴重な資源が流通しなくなって、市場は混乱していないのですか?」


 私の疑問に対し、アドリー様は静かに首を横に振った。

 そのサファイアの瞳には、冷ややかな為政者としての光が宿っている。


「現在、ヤトゥルクメタルが市場に出回っていないため、隣国であるラスデス王国が類似の魔法金属の市場を完全に独占し、莫大な利益を上げています」


「ラスデス王国……私の、母国ですね」


 私は一瞬、言葉に詰まった。

 ラスデス王国は私が生まれ育った国であり、愛するお父様やお母様が暮らしている場所だ。

 もし私がヤトゥルク鉱山を再開させれば、母国の利益を大きく削ぐことになってしまうのではないか。

 いくら私がエアルダールに嫁いだ身とはいえ、故郷に不利益をもたらす真似には少しばかり抵抗があった。


 私の僅かな躊躇いを察したのか、アドリー様は私の手を優しく包み込み、真剣な声で言葉を続けた。


「ラニ様、どうか誤解しないでください。僕はラスデス王国の民を苦しめたいわけではありません。問題なのは、エバーソン王子がその莫大な利益をすべて自身の強権的な軍備拡張に注ぎ込んでいるという事実です」


「軍備の拡張……ですか?」


「はい。彼は他国への侵略準備を進めるために、更なる資金を求めています。そして、その皺寄せとして、ロデスタール侯爵をはじめとする国内の有力貴族たちに対し、理不尽な重税を課し始めているという報告が上がってきているのです」


 その言葉を聞いた瞬間、私の脳内で何かが弾ける音がした。


(なるほど。悪徳ワンマン経営者であるエバーソン王子が市場を独占して不正な利益を上げ、さらに自社の社員や株主である国民やお父様たちを容赦なく搾取しているのね!?)


 前世の社畜時代、私は競争のない独占市場がどれほど業界を腐敗させ、下請けや現場に悲惨な労働を強いるかを身をもって経験してきた。

 健全な市場には、適正な競争が不可欠なのだ。


(エアルダールから良質で安価なヤトゥルクメタルを流通させて、市場の価格を正常化する。そうすればエバーソンの独占状態は崩れ、不当な軍資金の調達も頓挫する。それは結果的に、重税に苦しむお父様たちや母国の民を救うことに繋がるわ!)


 これは単なる他国の利益侵害ではない。

 愛する家族をブラック経営から救い出すための、極めて真っ当で正義ある市場介入である。

 明確な大義名分を得た私の心に、もう一切の迷いはなかった。


「アドリー様。私、行ってまいります」


「ラニ様?」


「健全な市場競争を取り戻し、お父様たちをお救いしなければなりません。ヤトゥルク鉱山の道は、本日の夕刻までに私が必ず開通させてご覧に入れますわ!」


 私は力強く宣言し、驚くアドリー様の手を引いて、すぐさま現場への視察と作業に向かう手配を整えたのだった。


 ◇


 数時間後、私たちはヤトゥルク鉱山の入り口へと到着していた。


 険しい山道を登り切った先に広がっていたのは、絶望という言葉がこれ以上なく似合う光景だった。

 天を衝くような巨大な岩石が幾重にも積み重なり、谷間の道を完全に塞ぎきっている。

 その前では、ツルハシを持った数十人の作業員たちと護衛の騎士たちが、ただ呆然と巨大な岩の壁を見上げることしかできずにいた。


「閣下……お越しいただき申し訳ありません。ご覧の通り、岩の一つ一つが家屋ほどの大きさがあり、下手に砕けば上の岩が崩れ落ちて大惨事になります。これを人力で安全に撤去するには、どんなに急いでも最低十年はかかるかと……」


 現場の責任者である初老の男が、血の滲むような思いでアドリー様に報告をする。

 十年という途方もない工期は、現場の士気を著しく低下させていた。


 私はアドリー様がこの日のために仕立ててくれた、特殊な強化繊維が編み込まれた極厚のドレスの袖を優雅にまくり上げながら、現場の長に向かって微笑みかけた。


「皆様、これまでの現状維持のための調査、本当にお疲れ様でした。ここからは私の管轄となりますので、皆様は少し後ろへ下がって、私が退かした岩の跡地に道の舗装を行う準備をお願いいたしますわ」


「は、はい? 奥方様、一体何を……」


 作業員たちが戸惑う中、私は一切の躊躇なく崩落現場の最前線へと歩み出た。

 目の前にそびえ立つのは、見上げるほど巨大な岩石。

 私はその岩の底部の隙間に両手を深く差し込むと、足幅を広げて地面をしっかりと踏みしめた。

 呼吸を整え、全身の筋肉に静かに力を込める。


 地鳴りのような低い音が周囲の空気を震わせた。

 ――次の瞬間、家屋ほどもある巨大な岩石が、私の両手によっていとも容易く宙へと持ち上げられたのである。


 周囲の空気が、文字通り凍りついた。

 作業員たちの手からツルハシが滑り落ちる音が、静寂に包まれた谷間に虚しく響く。


 私は持ち上げた巨大な岩の重さを確かめながら、崩落の危険がない山肌の窪みへと視線を向けた。


(前世の倉庫整理を思い出せばいいのよ。重心を見極めて、崩れないようにパズルのように組み上げていけば、安全な補強壁が完成するわ!)


 私は巨大な岩を軽快な足取りで運び、山肌の指定した位置へと正確に設置した。

 一つ、また一つ。

 筋力と物理法則だけを頼りに、私は巨大な岩石群を次々と持ち上げてはパズルのピースを埋めるように整然と積み上げていった。


 巨大な岩が動くたびに突風が吹き荒れ、地面が揺れる。

 しかし私の動きには一切の無駄がなく、まるで精密な大型重機が稼働しているかのような正確さで、塞がれていた道が劇的な速度で切り拓かれていった。


 十年かかると絶望されていた岩盤撤去作業は、私の前世のテトリス感覚による圧倒的な作業効率により、開始からわずか三時間で完全に完了してしまった。


 岩山は崩落を防ぐための頑強な防護壁へと作り変えられ、その中央にはヤトゥルク鉱山へと続く、広く安全な道が真っ直ぐに伸びていた。


「き、奇跡だ……! 道が開けたぞ!」


「あの方はただの人間じゃない! 怪力の女神様だ! 我らの領地を救ってくださる女神様だ!」


 作業員たちが感極まって涙を流し、私に向かって次々と跪き、祈りを捧げ始めた。

 私は土埃を軽く手で払い落とし、額の汗を拭った。


(ふう、良い汗をかいたわ。これでプロジェクトは大幅な前倒しで完了ね。お父様たちの重税も、これで少しはマシになるはずだわ)


 達成感に浸っていると、アドリー様が少しも躊躇うことなく土埃の舞う最前線へと歩み寄ってきた。

 彼は信じられないものを見るような――それでいて、深い熱を帯びたサファイアの瞳で私を見つめ、土で汚れた私の両手を大切そうに包み込んだ。


「ああ、ラニ様……! 複雑な岩の構造を瞬時に見抜き、一切の危険を伴わずに安全な道へと作り変えてしまうその圧倒的な力と知性。貴女はやはり、我がルサージュ領に遣わされた至高の女神です」


 アドリー様は私の泥で汚れた頬に、愛おしそうにそっと唇を落とした。


 周囲で作業員たちが歓声を上げる中、私はアドリー様の顔面の暴力と惜しみない賛美に、先ほどの肉体労働とは全く違う理由で心拍数を跳ね上がらせるのだった。


 ◇


 その頃、エアルダール王国から遠く離れたラスデス王国の王宮では、不穏な空気が渦巻いていた。


 豪奢な執務室で、エバーソン王子は叩きつけられた報告書を前に、顔を怒りで真っ赤に染め上げていた。


「エアルダールのヤトゥルク鉱山が、一夜にして開通しただと!? そんな馬鹿な話があるか!」


「は、はい。しかし密偵からの報告によれば、ルサージュ公爵の新たな妻が、たった一人で巨大な岩盤を撤去したと……」


「あの小娘か! 我が国から逃げ出したあの化け物が、私の計画を邪魔するというのか!」


 エバーソンは机上の装飾品を怒りに任せて薙ぎ払った。

 ヤトゥルクメタルが市場に流通すれば、ラスデス王国の独占状態は崩壊する。

 それはすなわち、彼が進めていた大規模な軍備拡張計画の資金源が完全に断たれることを意味していた。


「我が国の覇道を阻むなど、絶対に許さん。あの力、何としてでも我が手中に取り戻さねば……ルサージュ公爵ごと、あの小娘を私にひざまずかせてやる!」


 エバーソン王子の瞳には、焦燥と黒い欲望がどろどろと渦巻いていた。


 健全な市場競争をもたらした怪力令嬢の活躍は、同時に、傲慢な王子による卑劣な妨害工作の火蓋を静かに切って落とすことになったのである。

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