10 貴方のコンプライアンス違反、これ以上は見過ごせませんわ
ヤトゥルク鉱山の劇的な開通から数日。
ルサージュ公爵領は、新たな資源の活用と市場への供給に向けた準備で活気づいていた。
私は前世の現場監督としての経験を活かし、採掘現場の安全基準の策定や、効率的な輸送ルートの構築といった物理的なタスクの整理に追われていた。
愛する夫アドリー様が書類仕事と外交に専念できるよう、私は現場のホワイト化を物理的に推し進める最強の現場監督としての地位を確立しつつあったのだ。
――しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
ある朝、執務室でアドリー様と輸送計画の打ち合わせをしていた時、一通の親書が届けられた。
差出人はラスデス王国の第二王子、エバーソン。
ヤトゥルクメタルの独占市場を物理的に破壊された彼は焦りのあまり、ついに卑劣な暴挙に出たのだ。
「……何ということでしょう」
親書に目を落としたアドリー様の顔が、これまでにないほど冷たく、鋭いものへと変わった。
私がその書状を受け取り内容を確認すると、全身の血が引いていくのを感じた。
エバーソンは、私の父ゲオルグと母フォルナを、エアルダール王国へ国家機密――ヤトゥルクメタルの情報を横流しした国家反逆罪という、あまりにも身勝手なでっち上げの罪で軟禁したというのだ。
そして書状の最後には、血文字のような汚い筆跡でこう記されていた。
『両親の命が惜しくば、ルサージュ領の全鉱山の権利書と共に、貴様一人で国境の砦まで戻ってこい。さもなくば、あの薄汚い侯爵夫婦の首を刎ねてやる』
「お父様……お母様……!」
私は書状を握りしめ、震えが止まらなかった。
エバーソンが私を憎んでいるのは知っていた。
けれど、まさか無関係の両親を人質に取るなんて。
か弱い令嬢として十八年間、私を大切に育ててくれた両親。
彼らが私のせいで危険な目に遭っている。
その事実に、私の胸は張り裂けそうだった。
「ラニ様、落ち着いてください。貴女を一人で行かせるような真似は絶対にさせません」
アドリー様が私の肩を強く抱き寄せた。
その温もりが、パニックになりかけた私の心を辛うじて繋ぎ止める。
彼はサファイアの瞳に冷徹な怒りを宿しながら、デスクの上の呼び鈴を鳴らした。
「エバーソン王子……我が領地を救った女神のご両親に手を出したこと、後悔させてあげましょう」
アドリー様はそう言うと、私を安心させるように一度だけ力強く微笑み、執務室へ駆け込んできた側近に矢継ぎ早に指示を出し始めた。
外交ルートを通じたラスデス王国の第一王子、オスリック殿下への緊急連絡。
そして、ルサージュ公爵領の全資産、全戦力の動員。
愛する妻の両親を救うため、彼は優しき公爵としての仮面を脱ぎ捨て、冷徹な為政者としての牙を剥いたのだ。
◇
翌日、私たちはエアルダールとラスデスの国境付近にある、古びた砦の前で対峙していた。
砦の屋上からは、ラスデス王国の軍旗が風に翻り、その下には数日前の情けない姿とは打って変わって、きらびやかな装甲を身に纏ったエバーソン王子が、精鋭騎士団を引き連れて勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。
「久しぶりだな、化け物令嬢! 一人で来いと言ったはずだが、公爵の腰巾着まで連れてくるとはな!」
エバーソンは砦の上から見下ろし、大声を上げた。
彼の周りには、ヤトゥルクメタルの模造品と思われる、魔法を弾き返す特殊な金属で身を固めた騎士たちが厳重な陣形を敷いている。
彼は私が暴れた場合に備えて、魔法抵抗力を極限まで高めた装備を用意していたのだ。
さらに、彼は砦の最上階に物理衝撃を完全に吸収するという古代遺物の魔法障壁を展開させた馬車を配置し、その中に隠れていた。
これなら私の怪力であっても、砦を破壊して彼に近づくことはできないと確信しているようだった。
「エバーソン王子……貴方が行っていることは、友好国への宣戦布告と受け取ってよろしいですね?」
アドリー様が、穏やかな笑顔のまま一歩前に出た。
その声は低く、ひどく冷ややかで、砦の空気を瞬時に凍りつかせた。
「ふん、宣戦布告だと? 笑わせるな! 私は我が国の反逆者を捕らえ、その身柄を引き渡せと言っているだけだ! 公爵、貴様が連れているその小娘は、我がラスデス王国の貴重な軍事資源なのだ! それを不当に囲っている貴様こそ、国際法違反だろう!」
エバーソンは障壁の奥から、必死に虚勢を張った。
私の怪力を軍事資源と呼び、所有物として扱おうとするその浅ましさに思わず吐き気がした。
(なるほど。この男は、自分以外の人間をすべて、利用価値のある資源か資産としか思っていないのね。現場の苦労を知らない、最悪のブラック社長だわ!)
前世の社畜時代、私は上層部の利益のために現場を使い潰すブラック企業の体質を憎んできた。
目の前の男は、その体質を煮詰めたような存在だ。
健全な市場競争も、人材の尊重も知らない彼に為政者たる資格はない。
「アドリー様。私に、この砦の不適切な経営状況を正す許可をいただけますか?」
私が尋ねると、アドリー様はサファイアの瞳をきらめかせ、優雅に一礼した。
「ええ、もちろん。ラニ様。我が公爵夫人の手によって、この砦のコンプライアンスを完全に遵守させてあげてください」
「承知いたしました」
私はドレスの裾を軽く摘み、一歩、また一歩と、砦に向かって歩き出した。
エバーソンは障壁の奥で、私の動きを見て嘲笑った。
「馬鹿め! その魔法装甲は、どんな強力な魔法も弾き返す! 貴様の怪力など、この砦の障壁の前では無力だ!」
「エバーソン様。貴方はまだ、ご自身の監査結果を理解されていないようですわね」
「監査だと?」
私がニヤリと笑った瞬間、アドリー様が砦に向かって一枚の書類を掲げた。
「オスリック殿下からの伝言です。エバーソン王子……貴方が長年行ってきた、王室資産の横領、及び不当な重税による私腹の肥やし。そのすべての証拠がロデスタール侯爵の手によって完璧にまとめ上げられ、既に国王陛下の元へ届けられました」
「な……!?」
エバーソンの顔が、一瞬にして真っ青に変わった。
障壁の奥に隠れている彼の両手が、ガタガタと震え出す。
実はお父様は軟禁される前に、エバーソンの暴走を読んでいた。
彼は有能な監査役として、エバーソンの長年の不正の証拠を完璧に収集し、それを密かにアドリー様へ送っていたのだ。
「お父様……!」
私は砦の最上階を見上げ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
お父様はただ守られるだけの存在ではなかった。
彼は彼なりの方法で、私と母、そしてこの国の未来を守るために命を懸けて戦っていたのだ。
「エバーソン王子。貴方には現在、国家反逆罪、横領罪、及び友好国への不当な宣戦布告の容疑で、国王陛下より逮捕状が出されています。また、貴方の国内の全資産は凍結され、全ての騎士団はオスリック殿下の指揮下に入りました」
アドリー様の冷徹な宣告が、砦に響き渡った。
エバーソンが必死に築き上げてきた、権力と富。
それが、お父様の監査とアドリー様の政治的包囲網によって、たった数時間で完全に瓦解したのだ。
「う、嘘だ! そんな話、信じるか! 装甲騎士団、やっちまえ! あの公爵と化け物を捕らえろ!」
エバーソンは障壁の奥で、発狂したように叫んだ。
彼の命令を受け、砦の前に並んでいた魔法装甲の騎士たちが一斉に武器を構えて私に向かって突撃してきた。
彼らは魔法抵抗力の高い装備であれば、私の怪力であっても砦を破壊して彼に近づくことはできないと確信しているようだった。
「アドリー様の完璧なプロジェクトプランに、流血のトラブルは不要ですわ!」
私はそう叫ぶと、突撃してくる騎士たちに向かって一歩前に出た。
魔法を弾くという自慢の重装甲。
しかし、私の怪力の前ではそれはただの金属ゴミに過ぎなかった。
私は、最初に突撃してきた騎士の巨大なハルバードを、素手でガシッと受け止めた。
そして、呼吸を整え、全身の筋肉に静かに力を込める。
――メキメキッ。
強力なハルバードが私の両手によっていとも容易く捻じ曲げられ、アルミホイルのようにクシャクシャに丸められた。
私はその金属塊を、驚愕して固まる次の騎士に向かって全力で投げつけた。
金属塊は次の騎士の魔法装甲を容易く貫通し、彼を砦の壁へと叩きつけた。
魔法を弾く装甲など、私の圧倒的な物理力の前では無意味だった。
私は次々と襲い掛かる騎士たちの武器を受け止め、捻じ曲げ、丸めては投げつけ、砦の前に並んでいた精鋭騎士団を、たったの数分で完全に無力化してしまった。
「な……ば、化け物……!」
障壁の奥で、エバーソン王子が恐怖に顔を引きつらせ、ガタガタと震え出した。
「エバーソン様……貴方のコンプライアンス違反、これ以上は見過ごせませんわ」
私はそう言うと、砦の最上階に展開されている物理衝撃を完全に吸収するという古代遺物の魔法障壁に向かって、最後の一歩を踏み出した。
障壁は展開されていたが、ラニの投げた超質量の拘束具の塊は障壁ごと馬車を粉砕。
衝撃を吸収しきれず、馬車は仰向けにひっくり返った。
――圧倒的な頭脳と物理の前に、エバーソンは恐怖で気絶した。
「……素晴らしい。ラニ様、貴女のその完璧なコンプライアンス遵守の姿勢、僕は狂おしいほどに愛しています」
アドリー様が、少しも息を切らしていないラニの手を取り、サファイアの瞳を熱く潤ませる。
周囲で作業員たちが歓声を上げる中、私はアドリー様の顔面の暴力と惜しみない賛美に心拍数を跳ね上がらせるのだった。




