表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/35

11 休養……有給休暇ということね!?

 エアルダール王国の国境沿いにある砦で、悪徳王子による身勝手な宣戦布告とコンプライアンス違反を物理的に鎮圧してから、数日が経過した。


 ルサージュ公爵邸の静かな執務室に、一通の親書が届けられた。

 差出人はラスデス王国の第一王子であり、我が父ゲオルグと密かに連絡を取り合っていたオスリック殿下である。


 封を切り、書面を満たしている流麗な文字に目を通したアドリー様は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。


「ラニ様。どうやら、ラスデス王国の不良債権は無事に処理されたようです」


 アドリー様が書類を机の上に置いた。

 オスリック殿下からの報告によれば、あの後エバーソンは王室資産の横領と国家反逆の罪により、正式に王族の身分を剥奪されたという。

 彼が不当に蓄財していた資産は全額没収され、重税に苦しんでいた領民への還元と、我がルサージュ領への賠償金として充てられることになった。


 そして何より劇的だったのは、彼自身の末路である。

 エバーソンは現在、彼自身がかつて苛烈な重税を課していた辺境の開拓地へ送られ、一般の罪人として強制労働に従事させられているというのだ。


(現場の苦労を知らないワンマン経営者が、ついに現場の最前線で泥にまみれることになったのね。完璧な左遷……いえ、適切な人員配置だわ)


「しかも、彼は精神的にかなり追い詰められているようです。ラニ様の圧倒的な力を見たことで、魔法装甲ですら紙切れのようにひしゃげるという恐怖が骨の髄まで刻み込まれてしまったらしく……作業用の鉄製のスコップを見るだけで激しく身を竦ませ、まともに握ることすらできないそうです」


 アドリー様が少し呆れたような口調で補足した。

 私が武器を丸めて投げつけた光景が、よほどトラウマになったのだろう。

 金属を見るだけで恐怖が蘇るのであれば、開拓地での肉体労働は彼にとって地獄のような日々に違いない。

 だが、それこそが彼がこれまで領民や私の両親に強いてきた苦痛の代償なのだ。

 同情の余地など一切なかった。


「彼もこれで、現場の汗と涙の重みを少しは理解できることでしょう……ところで、お父様とお母様はいつ頃こちらに到着されるのでしょうか?」


 私が尋ねると、アドリー様は時計へと視線を向け、優しく微笑んだ。


「もう間もなくです。オスリック殿下の手配により、国賓級の護衛をつけた特別馬車でこちらに向かっておられます」


 その言葉の通り、それから一時間もしないうちに、公爵邸の正門に豪華な馬車が到着した。

 応接室で待っていた私の前に姿を現したのは、長旅の疲れを微塵も感じさせない、毅然とした顔つきの父ゲオルグと、安堵の涙で目を潤ませている母フォルナだった。


「お父様! お母様!」


 私はドレスの裾を翻し、真っ先に二人へ駆け寄った。

 お母様が私を強く抱きしめ、何度も何度も私の背中を撫でてくれる。

 その温かい感触に、私も堪えきれずに涙をこぼした。


「ラニ……よく無事で。本当に、本当によく頑張ったわね」


 お母様の優しい声に包まれながら、私はお父様の方を見た。

 お父様は私の無事を確認して小さく頷いた後、私の背後に静かに控えていたアドリー様へと向き直った。


「公爵閣下……この度は、娘を、そして我らロデスタール侯爵家を窮地から救っていただき、言葉では言い尽くせないほどの感謝を申し上げます」


 お父様が深く頭を下げると、アドリー様は慌ててそれを制し、彼の手を両手で固く握りしめた。


「とんでもないことです、お義父上。むしろ、お義父上が命懸けで集めてくださったあの完璧な監査資料がなければ、オスリック殿下を動かし、エバーソンを迅速に失脚させることは不可能でした。ラニ様を守るための貴方のご覚悟、心より敬服いたします」


 アドリー様の誠実な言葉に、お父様は目頭を熱くして彼の手を握り返した。


「君は……本当に、娘にはもったいないほどの最高の婿殿だ。ラニのすべてを受け入れ、こうして共に戦ってくれる君に、娘を託して本当に良かった」


 お父様と夫が、男同士の固い絆で結ばれている。

 その光景を見ながら、私は胸の奥で密かな確信を抱いていた。


(冷静で有能な監査役であるお父様に、完璧な戦略と政治力を併せ持つ若き経営者のアドリー様。そして、いざという時の物理的なインフラ整備とコンプライアンス指導を担う最強の重機である私……この家族、完全に世界最強のコングロマリットじゃないかしら。どこの国も手出しできないわね!)


 前世では得られなかった、絶対に裏切らない最強のチーム。

 それが今、このルサージュ公爵邸で結成されたのだ。


 両親が数日間の滞在を終え、オスリック殿下の庇護の下で安全なラスデス王国へと帰国した後、ルサージュ公爵領はかつてないほどの好景気と安定を迎えていた。


 再始動したヤトゥルク鉱山からは良質な魔法金属が次々と採掘され、適正な価格で市場に流通し始めた。

 領民たちの顔には明るい笑顔が戻り、活気に満ちた声が領地のあちこちで響き渡っている。


 私は執務室で、完了したプロジェクトの報告書を満足げに眺めていた。


「素晴らしい成果ですわね、アドリー様。鉱山の採掘効率は予想を遥かに上回っています。さあ、休んでいる暇はありませんわ。次に取り組むべき物理タスクはどこですか? 街道の拡張工事でも、新たな水源の確保でも、私の筋肉が許す限りどこへでも参りますわよ!」


 私が両腕の筋肉に意識を集中させながら力強く宣言すると、書類にサインをしていたアドリー様が苦笑交じりに立ち上がり、私の隣へとやってきた。


「ラニ様、どうか落ち着いてください。貴女のその溢れる情熱は大変頼もしいのですが……現状、急を要するような炎上案件は存在しないのです」


「えっ? 一つも、ですか?」


「はい。ラニ様のおかげで、ルサージュ領が抱えていた一番のボトルネックは完全に解消されました。残りの通常業務や細かなインフラ整備は、領地の優秀な職人たちに任せておいて全く問題ありません」


 アドリー様は私の手から報告書をそっと抜き取り、机の端へと追いやった。


「つまり、これ以上の残業も休日出勤も必要ないということです。ラニ様。貴女には、少し休養が必要です」


(休養……有給休暇ということね!? 社畜時代には都市伝説とまで呼ばれていた、あの輝かしい言葉が今、私の目の前に提示されている!)


 驚きと歓喜に打ち震える私を見つめながら、アドリー様は優しく微笑んだ。


 そしてその夜、月明かりが差し込む寝室の広いバルコニーで、彼は私を背後からそっと抱きしめた。

 彼の高い体温と、夜風に乗って香る甘い香りが私の感覚を支配していく。


「結婚してからというもの、君には領地のために苦労ばかりかけてしまいましたね。僕たちの新婚生活は、波乱に満ちすぎていた」


 耳元で囁かれる低く甘い声に、私の心臓が不規則なリズムを刻み始める。


「ですから、少しの間、仕事や領地のことをすべて忘れられる場所へ……新婚旅行に行きませんか?」


「新婚……旅行、ですか?」


「ええ。エアルダール王国の南部に、美しい湖畔に面した高級リゾート地があります。素晴らしい効能の温泉も湧いているのですよ。ラニ様の疲れた身体を癒すには最適な場所です」


 アドリー様の腕の力が少しだけ強くなり、彼の顔が私の肩口に埋められた。


「誰にも邪魔されない場所で、君をただひたすらに甘やかすためだけの時間を……どうか、僕にください」


 その言葉に含まれた濃厚な熱量に、私は顔から火が出そうなほど赤面した。

 前世を含めても初めての、完全なバカンス。

 美しい湖畔の景色と、温かい温泉。

 そして何より、愛する夫からの極上の甘やかし。


 社畜として働き詰めだった私の人生において、これ以上ない最高のご褒美である。

 私は歓喜の声を上げそうになった。


 ……しかし、次の瞬間、ある恐ろしい事実に気がつき、背筋に冷たい汗が伝った。


(待って。新婚旅行ということは、数日間にわたって、四六時中、アドリー様と二人きりで甘い時間を過ごすということよね……?)


 現在、私がアドリー様と触れ合う際には、彼を物理的に粉砕してしまわないよう、出力制限を限りなく零パーセントに近づけるという極限の筋肉コントロール任務が必須となっている。

 普段であれば、日中の執務時間中は離れているため筋肉を休ませることができる。

 だが、新婚旅行となれば話は別だ。

 美しい景色の中で見つめ合い、温泉でリラックスし、夜は甘い言葉を囁かれながら抱きしめられる。


(つまり……夫の肋骨を粉砕しないための筋肉コントロールミッションが、数日間ぶっ通しで、二十四時間体制でフル稼働するということじゃない!?)


 それはドラゴンを千切って投げるよりも、巨大な岩盤を撤去するよりも、遥かに過酷な精神力と筋力を要求される最高難易度の業務に他ならない。


「ラニ様? どうかしましたか? 少し身体が強張っているようですが」


「い、いえ! なんでもありませんわ! ただ、あまりの喜びに、全身の筋肉が……いえ、心が引き締まる思いがしただけでございます!」


 私は引きつりそうな笑顔を必死に繕いながら、彼に寄り添い返した。


 平和なバカンスへの大きな期待と、未知なる物理的な筋肉疲労への戦慄。

 怪力令嬢の初めての新婚旅行は、世界で一番甘く、そして世界で一番油断のならない究極のミッションとして、幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ