12 リラックスしすぎて筋肉の制御が完全に外れていたわ!
エアルダール王国の北部にあるルサージュ公爵領から、馬車に揺られること数日。
険しい山岳地帯を抜け、気候が温暖な南部へと足を踏み入れた私たちは、王国内でも有数の美しさを誇るという湖畔の高級リゾート地へと到着していた。
透き通るような巨大な湖のほとりに佇むその宿泊施設は、王族や上位貴族のみが利用を許される特別な場所だという。
恭しい態度で出迎えてくれた支配人に案内され私たちが通されたのは、最上階にある最も広いスイートルームだった。
重厚な扉を開けた瞬間、足元に沈み込むような最高級の絨毯と、壁一面の巨大なガラス窓から一望できるきらきらと輝く湖の絶景が目に飛び込んできた。
室内には洗練された調度品が並び、奥には天然の温泉を引き込んだ広大な貸切の露天風呂まで備え付けられている。
(これ、前世の会社の福利厚生パンフレットに載っていた幻の豪華保養所と完全に同じレベルだわ! 役員専用で平社員は一生使えないという伝説のあの施設に、まさか転生後に来られるなんて……! 有給休暇って素晴らしい!)
私は窓からの景色を見下ろしながら、前世では決して味わうことの出来なかった極上の待遇に密かに感動の涙を流しそうになっていた。
そんな私の背後から、長旅の疲れを微塵も感じさせない優雅な足取りでアドリー様が近づいてくる。
彼は室内の中央に鎮座するふかふかの巨大なソファにゆったりと腰を下ろすと、自身の太ももを軽く手で叩き、蕩けるような甘い微笑みを私に向けた。
「ラニ様。馬車での長旅、本当にお疲れ様でした。さあ、まずはここでゆっくり休んでください。ここでは何も気にせず、貴女のすべてを僕に預けてくださいね」
それは、絵画のように美しい夫からの、極上の甘やかしの提案である。
彼に膝枕をしてもらい、その美しい顔を下から眺めながら愛を囁かれる。
普通の令嬢であれば、喜んで飛びつく夢のようなシチュエーションだろう。
しかし、私はその甘い言葉を聞いた瞬間、心臓を冷たい手で掴まれたような戦慄を覚えた。
(待って。すべてを預けたら、貴方の美しい大腿骨が私の圧力で瞬時に粉砕骨折して、待ちに待った新婚旅行が緊急手術ツアーに早変わりしてしまうわ!)
私の身体そのものは普通の令嬢と変わらない重さだが、無意識の力みや重心の掛け方を一歩間違えれば、彼の身体に壊滅的なダメージを与えかねない。
とはいえ、せっかくの彼の甘い気遣いを無下にするわけにもいかない。
私は覚悟を決めて優雅な笑みを浮かべると、「ありがとうございます、アドリー様」と返事をして、彼の足元へと身を横たえた。
そして、私の全身の筋肉を総動員した、究極のミッションが幕を開けた。
私の頭は、彼の太ももの生地にほんの数ミリ触れるか触れないかの位置で完全に静止している。
首から背筋、そして腰にかけての筋肉を限界まで収縮させ、自身の頭部と上半身の重さをすべて空中で支え切るという、名付けてエア膝枕の敢行である。
「ラニ様は本当に羽のように軽いですね。もっと体重をかけてもいいのですよ」
アドリー様が私の銀糸の髪を優しく撫でながら、愛おしそうに囁く。
その言葉とは裏腹に、私の首回りの筋肉は限界に近い負荷により微細な痙攣を始めていた。
「いえ、これくらいが丁度良いのですわ……アドリー様の温もりを感じられるだけで、私は十分に癒されておりますから」
(これ以上力を抜いたら貴方の脚の骨が危ないのです! 前世の接待ゴルフで社長にわざとパターを譲る時よりも、遥かに神経と筋肉を消耗する気遣いだわ!)
私は引きつりそうになる顔の筋肉を必死に笑顔の形に固定し、この過酷な耐久労働を耐え抜いた。
数十分後、私の全身の筋肉が悲鳴を上げ始めた頃、アドリー様が「少し汗をかきましたね。一緒に温泉に入りましょうか?」と、とんでもない提案をしてきた。
私は顔から火が出そうなほど赤面し、「お、温泉は一人でゆっくり楽しみたいですわ!」と全力で拒否の言葉を紡ぎ、逃げるようにして露天風呂へと駆け込んだ。
貸切の露天風呂は、夕暮れに染まる湖を眼下に望む最高のロケーションだった。
エアルダール南部の温泉には特別な魔法の成分が含まれており、疲労回復や筋肉の弛緩に絶大な効能があるという。
私は湯着を纏って温かいお湯の中に身を沈め、深く、深く息を吐き出した。
(ああ……極限の縛りから解放されていく……温泉って最高……有給休暇って最高……)
エア膝枕による極度の筋肉疲労。
そして、毎日のように神経をすり減らしていた夫を粉砕しないための出力制限ミッション。
そのすべての緊張と疲労が、魔法の温泉成分によって文字通りとろけるように解れていくのを感じた。
私は目を閉じ、社畜としての張り詰めた緊張の糸をこの時ばかりは完全に切ってしまったのだ。
完全にリラックスしきった状態で湯から上がり、柔らかなバスローブに身を包んで寝室へと戻ると、そこにはすでに身支度を整えたアドリー様が待っていた。
彼は私が部屋に入ってくるなり、手にした乾いたタオルで私の濡れた髪を優しく包み込み、丁寧に水分を拭き取ってくれる。
彼の指先が頭皮に触れるたび、甘い香りが私の鼻腔をくすぐった。
「温泉は気に入りましたか、ラニ様。少し顔が赤いようですが、のぼせてはいませんか?」
「とても素晴らしいお湯でしたわ。身体の芯から解れていくようで……」
私が夢見心地で答えると、アドリー様はタオルを置き、そのまま私を正面からそっと抱きしめた。
「君が愛おしくてたまらない。領地の仕事を忘れて、こうして君と二人きりで過ごせるこの時間が、僕にとっては生涯最高の宝物です」
耳元で囁かれる真っ直ぐな愛の言葉。
温泉の効能で身も心も完全にリラックスしきっていた私は、その極上の甘さに思考を溶かされ、無意識のうちに彼の背中へと両腕を回していた。
(本当に幸せだわ。少しだけ……ほんの少しだけなら、私から抱きしめ返しても……)
そう思ったのが、すべての間違いだった。
完全にオフになっていた私の筋肉の制御装置は、私が意図したほんの少しの愛情表現を、私の基礎スペックである圧倒的な怪力としてそのまま出力してしまったのだ。
私の腕がアドリー様の背中を抱きしめようとした瞬間、私の両手は彼の背中越しにあった、最高級の天蓋付きベッドを支える太い木製の柱をがっしりと掴んでしまった。
そして、愛情を込めて腕に力を入れた、その刹那――。
爆発音のような凄まじい轟音が、静かなスイートルームに鳴り響いた。
私が無意識に掴み、引き寄せてしまった太さ数十センチはあろうかという頑強な木製の柱が、中央から完全に粉砕され木屑となって宙に舞ったのだ。
支えを失った巨大な天蓋が傾き、寝室の中に凄惨な破壊の痕跡が刻まれる。
私は一瞬何が起きたのか理解できず、自分の手の中にある砕けた木材の破片を見てようやく現実へと引き戻された。
(ああああああ! やってしまった! リラックスしすぎて筋肉の制御が完全に外れていたわ!)
私は血の気が引く思いで、腕の中にいるアドリー様の無事を確認した。
奇跡的に私の怪力は彼の背中を通り越し、背後の柱のみを的確に粉砕していたため、彼自身には一切の怪我はなかった。
「あ、アドリー様! 申し訳ありません、私ったらつい力が……!」
私がパニックになりながら謝罪すると、アドリー様は傾いたベッドと粉砕された柱を一度だけ振り返り、そして再び私へと向き直った。
彼のサファイアの瞳は驚くどころか、今までで一番熱く、そして蕩けるような光を放っていた。
「……素晴らしい。ラニ様、君の僕への情熱は、ついに建築基準法すらも打ち砕くのですね。言葉ではなく、物理的な破壊を伴うほどの愛の深さ。しかと受け止めましたよ」
彼はうっとりとした表情で私の頬に手を添え、極上の笑顔を浮かべている。
夫からの果てしない肯定と溺愛に心臓を跳ね上がらせながらも、私の社畜としての前世の魂は、目の前に広がる惨状を見て絶望のどん底に叩き落とされていた。
(違うの、そういうことじゃないの! ああ、有給休暇の初日だというのに、宿泊施設の備品破損という大失態! 明日には支配人への謝罪と、莫大な弁償金の決裁書、そして始末書を書くハメになるなんてえええ!)
最高級の甘やかしと、物理的な破壊が入り混じる。
怪力令嬢の初めての新婚旅行は一瞬たりとも気の抜けない、波乱に満ちた幕開けとなったのだった。




