8 ルサージュ公爵領を世界最強のホワイト環境に整備してあげる!
朝陽が差し込む公爵邸のテラス席には、エアルダール王国の豊かな自然を象徴するような朝食が並べられていた。
極限の筋肉コントロールを強いた新婚初夜を乗り越え、全身の筋肉がかつてない疲労を訴える中、私は目の前の食卓に並ぶ色鮮やかな料理に目を奪われた。
テーブルの中央には、山岳地帯で採れる香り高いライ麦を使った香ばしいガレットが置かれている。
その上には、濃厚な山羊のチーズと、こんがりと焼かれた厚切りのベーコン、そして採れたての高原野菜が美しく盛り付けられていた。
隣には、山の斜面に自生するという真っ赤なエアルベリーをふんだんに使ったジャムと、山の花々の蜂蜜をかけた濃厚なヨーグルトが添えられている。
(……ああ、美味しそう。徹夜明けのプロジェクト終了後に食べるご褒美ランチみたいだわ)
私はフォークとナイフを手に取り、ガレットを一口大に切り分けて口に運んだ。
ライ麦の素朴な甘みと、山羊のチーズの程よい塩気、そしてベーコンの旨味が口の中で絶妙に絡み合う。
エアルベリーは酸味が爽やかで、疲労困憊の身体に染み渡るような美味しさだった。
「美味しいですわ、アドリー様。このベリーのジャムも、程よい酸味があって絶品です」
私が頬を緩ませて感想を伝えると、テーブルの向かいに座るアドリー様は、自身の食事には一切手をつけることなく、頬杖をついて私を見つめていた。
そのサファイアの瞳は、朝の光を受けてきらきらと輝き、どこまでも甘く蕩けるような熱を帯びている。
「お気に召して何よりです。エアルダールの気候は少し厳しいですが、その分、作物は甘みを蓄えて美味しくなるのです。でも、僕にとっては、美味しそうに朝食を召し上がるラニ様のお姿を見ているだけで、心も身体も十分に満たされてしまいます」
朝から躊躇なく放たれる甘い言葉に、私は飲み込みかけたガレットを喉に詰まらせそうになった。
新婚初夜を経て、彼の私への愛は留まることを知らない。
彼が私を見つめる眼差しには一切の打算も偽りもなく、ただ純粋な敬愛と慈しみが満ち溢れていた。
「アドリー様も、冷めないうちに召し上がってくださいませ。領主としての激務をこなすには、しっかりと栄養を摂らなければ倒れてしまいますわよ」
私が前世の上司のような小言を口にすると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「ラニ様にそう言っていただけると、少しだけ胃袋が動くような気がします。貴女は本当に、僕を気遣ってくださるのですね」
(いえ、単に私が一人で食べているのが恥ずかしいだけなのですけれど……!)
心の中でツッコミを入れつつ、私は穏やかな朝の時間を過ごした。
食後、私たちは場所を移し、公爵邸の一角にある広い執務室へと向かった。
アドリー様が今日の午後に予定されている会議の資料に少しだけ目を通す間、私は彼の許可を得て執務室の壁に広げられたエアルダール王国の詳細な地図を眺めていた。
ルサージュ公爵領は、王国の北部に位置する広大な山岳地帯だ。
地図には良質な鉱石が採れる鉱山や、先ほど食べたエアルベリーの群生地などが詳細に記されている。
豊かな特産品に恵まれた土地であることは一目でわかった。
しかし、同時に気になったのは地図のあちこちに引かれた赤い斜線や、危険を示す印の数々だった。
「アドリー様。この地図にある赤い印は、もしかして魔物の生息地や、土砂崩れなどの危険地帯を示しているのですか?」
私が尋ねると、書類から顔を上げたアドリー様の表情に僅かな暗い影が落ちた。
「……ええ。お恥ずかしい話ですが、ルサージュ領は特産品に恵まれている反面、地形が険しく、自然災害が絶えないのです。それに加えて、あの絶望の黒龍のような強力な魔物が、定期的に山脈の奥深くから下りてきては街道や農地を荒らしていきます」
彼はペンを置き、静かに立ち上がって私の隣へと歩み寄った。
地図を見つめる彼の横顔には朝食の時の甘やかな雰囲気とは違う、領主としての深い苦悩が刻まれていた。
「ラニ様もご存知の通り、僕は十代という若さで公爵の地位を継ぎました。それは決して、僕が望んで得たものではありません……先代の公爵であった僕の両親は、大規模な土砂崩れと魔物の群れから領民を逃がすため、自ら騎士団を率いて前線に立ち、命を落としたのです」
アドリー様の口から語られた壮絶な過去に、私は息を呑んだ。
「両親が命を懸けて守り抜いたこの領地を、僕はどうにかして豊かにしたいと必死で学びました。特産品の流通ルートを整備し、他国との貿易を盛んにし、経済的な豊かさをもたらすことには成功した。しかし……僕自身には、両親のように前線で剣を振るう物理的な力はありません」
彼の大きな手が、地図の上に置かれた。
その指先が、赤い印のつけられた危険地帯をなぞる。
「魔物が現れるたび、土砂崩れが起きるたび、僕は騎士たちに出動の命令を下すことしかできない。安全な執務室から書類に署名し、誰かが傷つき、命を落とす報告を受け取るだけなのです。自分の無力さに、幾度絶望したかわかりません」
彼の声は静かだったが、その奥には血を吐くような悔恨が滲んでいた。
領民を愛し、領地を愛しているからこそ――自分の物理的な戦闘力のなさが彼を深く傷つけていたのだ。
前世のブラック企業で、現場の苦労を知らない上層部が無理な納期を押し付けてくることに憤っていた私には、彼の苦しみが痛いほど理解できた。
彼は現場の痛みを知りながら、そこに直接手を出せないことに苦しんでいる最も責任感の強い為政者なのだ。
「僕は、争いが嫌いです。血が流れるのも、誰かが傷つくのも見たくない。けれど、愛する領民を守るための圧倒的な力を、ずっと渇望していました。理不尽な暴力を犠牲を出さずに制圧できるような、最強の力を」
アドリー様はゆっくりと私の方へ向き直り、私の両手を彼の手で包み込んだ。
サファイアの瞳が、真摯な光を宿して私を真っ直ぐに見つめる。
「だからこそ、ラニ様。僕はあの日、貴女が絶望の黒龍を圧倒的な力で打ち倒す姿を見たとき、魂が救済されるのを感じたのです」
「私の、あの八つ当たりのような……いえ、暴力的な振る舞いに、ですか?」
「暴力的などではありません。貴女のあの力は、誰かを虐げるためのものではなく、悲劇を未然に防ぐための最強の盾です。何代にもわたって僕たちを苦しめてきた災厄を、貴女はたった一人で、しかも誰一人傷つけることなく終わらせてくれた」
彼の手の温度が、私の指先から心臓へと伝わってくる。
「ラニ様。貴女のその力は、僕がずっと探し求めていた希望の光そのものです。だから僕は、ラニ様のその素晴らしい力も、力の使い方を決して間違えない貴女自身も、狂おしいほどに愛しているんです」
それは、今まで私が誰からも与えられたことのない、私の存在すべてを肯定する言葉だった。
か弱い令嬢として十八年間隠し続けてきた私の異質な力を、彼は希望と呼び、最強の盾と称えてくれる。
エバーソン王子のように私を軍事資源として利用しようとするのではなく、私の心ごと愛し、尊重してくれているのが痛いほど伝わってきた。
胸の奥が温かくなり、目頭が熱くなるのを感じた。
そして、それと同時に、私の前世の魂――過酷な現場を生き抜いてきた社畜としての現場監督魂に、轟々と火がつくのを感じたのだった。
(なるほど。つまりこの領地には、インフラ整備のための岩盤掘削や、流通ルートを確保するための障害物撤去、さらには魔物駆除といった物理的なタスクが山積みになっているということね?)
私は、頭の中でカチリと仕事のスイッチが入る音を聞いた。
愛する夫は、内政と知略の天才だ。
書類仕事や経営判断は彼に任せておけば、ルサージュ領はさらに発展するだろう。
ならば、彼が不得手とする物理的な現場仕事は、私が一手に引き受ければいい。
(公爵夫人としての優雅なお茶会もいいけれど、私のこの筋肉は、もっと生産的なことに使われるべきだわ。任せてちょうだい、アドリー様。私のこの力で、危険なタスクをすべて前倒しで片付け、ルサージュ公爵領を世界最強のホワイト環境に整備してあげる!)
私は、胸の奥で力強く決意を固めた。
「アドリー様。私、この領地のことが少しずつわかってきましたわ」
「ラニ様?」
「書類の決裁は、どうかアドリー様が進めてくださいませ。ですが、現場でのちょっとした力仕事や、魔物のご案内が必要な時は、遠慮なく私を頼ってくださいね。私は、貴方の妻なのですから」
私が満面の笑みでそう告げると、アドリー様は一瞬驚いたように目を見開き、やがて花がほころぶような美しい笑顔を見せた。
「……ああ、なんて頼もしい。ラニ様、貴女を妻に迎えられた僕は、世界で一番幸せな男です」
彼が再び私をきつく抱きしめる。
私は、昨夜の教訓を胸に刻み、彼の肋骨に一切の負担をかけない出力零パーセントの極限コントロールで彼の背中に手を添えた。
こうして、怪力令嬢ことラニ・ルサージュの新たな生活は、守られるべき公爵夫人としてではなく、公爵領の安全と発展を物理的に担う最強の現場監督として、本格的に幕を開けたのである。
前世の理不尽な労働環境で培われた社畜魂は、異世界で真の愛と適材適所の職場を見つけ、大いに躍動することになるのだった。




