7 前世でプレイした乙女ゲームの大人向け追加シナリオそのものじゃない!
ラスデス王国の王都から始まった長く華やかなパレードを終え、私たちはついに国境を越えてエアルダール王国のルサージュ公爵領へと到着した。
領民たちの熱狂的な歓迎を受けた後、その日の夜更け、公爵邸の敷地内にある荘厳な聖堂にて身内と限られた側近のみでの厳かな結婚の儀式が執り行われた。
私は、ルサージュ家の象徴である夜空を溶かし込んだようなネイビーを基調とし、銀糸で無数の星々が刺繍された豪奢なドレスを身に纏っていた。
隣に立つアドリー様は、エアルダール王国の伝統的な正装に身を包んでいる。
ただでさえ整った彼の顔立ちが、神聖な灯りに照らされて人間離れした美しさを放っていた。
誓いの言葉を交わし、彼がゆっくりと私のヴェールを上げる。
至近距離で私を見つめる彼の眼差しは、どこまでも甘く――深海のように静かで熱い。
彼が身をかがめ、私の唇にそっと誓いの口づけを落とした瞬間、私の心臓はかつてないほどの警鐘を鳴らした。
(か……顔が良すぎて、視界からの情報量が多すぎるわ。これ、前世の推しアイドルの限定ライブで最前列を引き当てた時よりも過酷なイベントじゃない……!?)
美形の暴力。
その直撃を受けた私は、ただ彼に身を委ね、震える膝を必死に堪えることしかできなかった。
すべての儀式と挨拶を終え、私たちが公爵邸の最上階にある広大な主寝室へと案内された頃には、日付が変わろうとしていた。
重厚な扉が閉じられ、部屋の中には私とアドリー様の二人だけが取り残される。
窓の外にはエアルダールの静寂な夜の山々が広がり、室内は暖炉の柔らかな火と、微かな香草の匂いに満たされていた。
「……ラニ様。ようやく、誰にも邪魔されずにゆっくりできる時間ですね」
アドリー様が、背後から私の腰にそっと両腕を回した。
彼のひどく甘やかな声が耳元をくすぐる。
首筋に彼の顔が寄せられ、温かい吐息が肌に触れた瞬間――私は前世の締め切り前とはまったく違う種類の動揺で全身を硬直させた。
(待って、このシチュエーション、前世でプレイした乙女ゲームの大人向け追加シナリオそのものじゃない! 画面越しじゃなくて実体験としてこれを受けるのは、社畜の精神的キャパシティを完全に超えているわ!)
パニックに陥る私の内心など露知らず、アドリー様は私の肩に顔を埋めたまま――ゆっくりと私の髪を結い上げていた複雑な装飾を解き始めた。
白銀の髪が背中へと流れ落ちる。
彼はその一束を大切そうに掬い上げ、唇を寄せた。
「あの馬車での一件、本当に肝を冷やしました。貴女が傷つくくらいなら、パレードの荷車などいくら壊れても構わなかったのに」
「……ですが、民衆の方々に怪我があっては、せっかくの祝賀が台無しになってしまいますから。あの程度の力仕事、私にとっては造作もないことですわ」
「ええ、知っています。貴女のその溢れる力も、誰かを守ろうとする苛烈なまでの優しさも……だからこそ、僕は貴女を手放せない」
アドリー様は私をゆっくりと振り返らせると、そのまま横抱きにして、部屋の中央に鎮座する天蓋付きの巨大なベッドへと歩みを進めた。
最高級の羽毛が敷き詰められたマットレスの上に、私は静かに降ろされる。
彼が私の上に覆い被さるようにして、シーツに両手をついた。
至近距離で見下ろしてくるサファイアの瞳には、昼間の穏やかな公爵としての顔ではない、一人の男性としての深く独占的な熱が宿っている。
「ラニ様。今夜は、貴女のすべてを僕に教えてくれませんか?」
蕩けるような甘い声の響きに、私は理性を手放しそうになった。
愛する人にここまで望まれ、求められることの幸福。
私は彼の思いに応えようとゆっくりと両腕を上げ、彼の広くて頼もしい背中へと回した。
そして愛おしさを込めて、彼を抱きしめ返そうと腕に力を込めた――その刹那。
ミシッ。
私の肘先が触れていたシーツの生地が、限界を超えて引き裂かれそうになる嫌な手応えが伝わってきた。
(……はっ! いけない、落ち着きなさい、ラニ!!)
私は一瞬にして現実に引き戻された。
今の私には、触れるか触れないかの繊細な力使いが求められるのだ。
昼間、巨大な荷車を片手で投げ飛ばし、鋼鉄の車軸を指先で捻り潰したこの両腕。
その名残がある状態で、もし感情のままにアドリー様を抱きしめてしまったらどうなるか。
――答えは簡単だ。
彼の美しい背骨や肋骨は瞬時に粉砕され、新婚初夜の甘い寝室は凄惨な救急医療の現場へと変貌してしまう。
明日からの彼は公爵としての執務どころか、全身をコルセットで固定された絶対安静の身となり、最悪の場合は物理的に再起不能となってしまう。
(私が愛を表現すればするほど、愛する夫の生命が脅かされる! なんという理不尽なデッド・オア・アライブ!)
私は前世で会社の命運を握る重要プレゼンの資料を、一枚のミスプリントも許されない状況で印刷機にかける時のような、極限の集中力を発揮した。
全身の筋肉の出力を羽毛が落ちるよりも軽く、そよ風が吹くよりも弱く、徹底的に制限する。
アドリー様の体温を感じながら、私の手はただ彼の背中に添えられているだけという絶妙な均衡を保ち続けた。
「ラニ様……少し、体が強張っていますよ。怖いですか?」
「い、いえ……! 怖くなどありませんわ。ただ、少し、緊張しているだけで……」
「大丈夫。僕が、貴女を優しく解かしてあげますから」
アドリー様はそう言って、さらに甘い口づけを落としてくる。
彼の愛撫が深くなるたびに、私の全身の筋肉は本能的に力もうとする。
それを理性の力で全力で押さえつける。
彼が情熱を傾けてくれるほどに、私の体内では自己の怪力との果てしない死闘が繰り広げられていたのだった。
◇
小鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から眩しい朝の光が差し込んできた。
私は、まるで土の中から蘇ったゾンビのような重々しい動作でのっそりとベッドの上で上体を起こした。
(……ああ。栄養ドリンク。前世で徹夜明けに一気飲みしていた、あの高濃度タウリン配合の青い小瓶が猛烈に欲しい……)
頭の奥が痺れ、腕も、足も、背中も、全身のありとあらゆる筋肉が悲鳴を上げている。
――誤解のないように言っておくが、昨夜の出来事そのものが暴力的に激しかったわけでは決してない。
アドリー様はどこまでも優しく、私を壊れ物を扱うように慈しんでくれた。
彼の手つきは完璧で、新妻としての幸福を十分に与えてくれた。
私がかつてないほどの疲労困憊に陥っている原因は、ただ一つ。
一晩中、愛する夫をうっかり物理的にひねり潰してしまわないよう、絶え間なく自分の力を極限まで薄め、制御し続けたことによる尋常ではない筋肉疲労と精神的疲弊である。
(ドラゴンの尻尾を掴んで山脈に十回ほど叩きつける方が、よっぽど筋肉には優しかったわ。繊細な力のコントロールって、全力で暴れるより何百倍も疲れるのね……!)
私は自分の両手を見つめ、深いため息を吐き出した。
その隣でシーツの擦れる音がして、美しい顔立ちの男がゆっくりと寝返りを打った。
乱れた濃藍の髪。
はだけた胸元。
朝の光の中で見るアドリー様は、夜とはまた違った無防備な色気を漂わせている。
「……おはよう、ラニ様。昨夜は……とても幸せでしたよ」
彼が目を細め、私に向けて蕩けるような、この世のすべての春を集めたかのような微笑みを見せた。
その顔面の暴力に再び心臓を撃ち抜かれながらも、私は引きつる頬の筋肉を必死に動かして、震える声で答えた。
「おはようございます、アドリー様……私も、大変幸せな夜でしたわ」
(ええ、別の意味で完全に命がけの死闘でしたけどね……! 私の筋肉、本当にお疲れ様!)
こうして、平穏な生活を夢見ていた怪力令嬢の結婚生活は、毎夜毎夜、愛する夫の命を守るための究極の出力制限という新たな業務を抱えながら、甘く過酷に始まっていくのだった。




