6 ――この人、本当にダメだ
ラスデス王国のロデスタール侯爵邸は、朝から戦場のような騒ぎに包まれていた。
エアルダール王国の公爵アドリー様と私の結婚式が、異例の速さと規模で執り行われることになったからだ。
挙式の形式は、まずラスデスの王都で親族への披露を行い、その後豪華なパレードを組みながら国境を越え、エアルダールのルサージュ公爵領で本番の儀式を挙げるという国家プロジェクト級のスケジュールである。
「ラニ様、あまり根を詰めないでください。準備の細かいことは僕の連れてきた職人たちに任せればいい」
応接室で、アドリー様が私の肩にそっと手を置いた。
彼はエアルダールから最高級の絹織物、宝石、そして腕利きの仕立て屋までをも呼び寄せていた。
私の実家の侍女たちが目を回すほどの過剰な物資が、屋敷の廊下を埋め尽くしている。
「ですが、お出しする料理のメニューや、招待客の座席表を確認しないと……不備があれば現場が混乱しますし、プロジェクトの遅延は避けたいんです」
私が前世の社畜根性を発動させて書類の山に挑もうとすると、アドリー様は穏やかな笑顔のまま私の手からさらりとペンを奪い取った。
「その役割は僕が引き受けます。ラニ様、貴女が今すべきことは、ただ健やかに、美しく笑っていることだけです。もしこれ以上、貴女が眉間に皺を寄せて働くのなら、僕は不敬を承知でこの屋敷の全業務を買い取ってでも、貴女をベッドに縛り付けなくてはならなくなる」
アドリー様のサファイアの瞳が、逃げ場を許さない独占欲を孕んで私を射抜いた。
(こ、この人、顔が良いだけじゃなくて福利厚生……いえ、愛が重すぎない!?)
前世のブラック企業では「代わりはいくらでもいる」と使い潰されていた私が、今や「存在そのものが奇跡」として過保護に扱われている。
この極端な環境の変化に、私の心臓は朝からフル稼働していた。
一週間の準備期間を経て、ついにパレードの日が訪れた。
私はアドリー様が特注した、最高級のシルクと繊細なレースをふんだんに使ったウェディングドレスに身を包んでいた。
……ちなみにこのドレス、私の不意の力みに耐えられるよう、見えない部分に特殊な強化繊維が編み込まれているらしい。
私たちは屋根のないオープン馬車に乗り、ラスデスの王都を出発した。
沿道は、王国の誇る儚き美少女が隣国の麗しき公爵に見初められたという噂を聞きつけた民衆で埋め尽くされていた。
「ラニ様、見てください。皆、貴女を祝福していますよ」
アドリー様が私の手を握り、優雅に観衆へ手を振る。
私は引きつりそうな頬の筋肉を必死にコントロールし、令嬢らしい微笑みを浮かべていた。
(令嬢ラニの最後の仕事だわ。ここで怪力を披露して、お父様の胃に穴を開けるわけにはいかないもの)
――しかし、運命という名のトラブルは往々にして最悪のタイミングで牙を剥く。
パレードが国境付近の賑やかな街に差し掛かった時のことだ。
前方を走っていた、お祝いの品を山積みにした巨大な荷車の一台が道路の深い段差に足を取られた。
ガクン、という不吉な衝撃音。
積み上げられた重い木箱の数々が固定を失い、逃げ遅れた民衆の方へと崩れ落ちようとしていた。
「危ない! 逃げろ!」
騎士たちが叫ぶが、密集した群衆はパニックで動きが取れない。
その光景を目にした瞬間、私の脳内に、前世で培われた緊急事態対応マニュアルが火を噴いた。
――不備、事故、遅延。
それらはすべて、現場の責任者として叩き潰すべき敵だ。
「アドリー様、ちょっと失礼いたします!」
「えっ、ラニ様!?」
アドリー様が止める間もなく、私はウェディングドレスの長い裾を豪快に掴み上げ、走っている馬車から軽やかに跳躍した。
(納期直前のサーバーダウンに比べれば、物理的な傾斜なんて誤差の範囲よ!)
私は弾丸のような速度で、倒れかかる荷車の真横に滑り込んだ。
そして、数トンの重みがかかった荷台の側面を真っ白なシルクの手袋に包まれた両手でガシッと受け止める。
…………。
………………。
空気が凍りついた。
民衆も、騎士も、そしてエバーソン王子とのトラブルを収めたばかりの私の父ゲオルグまでもが、開いた口が塞がらないといった様子で私を凝視している。
私は平然とした顔で、傾いた巨体を本来の位置へと押し戻した。
ついでに、脱落しかけていた車輪の鉄製の軸を目視し、指先でぐいと押し込み、適当な余り鉄を捏ねて固定した。
はい! これで完璧。
修復完了。
「怪我はありませんか? 皆様、安全な場所まで下がってくださいね」
私は乱れた髪を整え、何事もなかったかのように馬車へと戻った。
静寂を破ったのは、割れんばかりの地響きのような大歓声だった。
「救世主だ! 怪力の女神様万歳!」
「なんて力強いお姿! これぞ我が国の誇りだ!」
民衆の熱狂を背に、私は顔から火が出そうな思いで座席に座り直した。
やってしまった。
令嬢ラニの儚げ設定が、物理的に粉砕されてしまった。
「……ああ。なんて……なんて素晴らしいんだ、僕の花嫁は」
恐る恐るアドリー様の方を見ると、彼は顔色を悪くするどころか陶酔したような表情で私を見つめていた。
「ドレスを翻し、災厄を素手で押し止めるその雄姿。美しすぎて、心臓が止まるかと思いました。ラニ様、貴女のその溢れる力こそ、僕が一生をかけて賛美し続ける芸術だ」
アドリー様は私の泥がついた手袋にさえ、愛おしそうに唇を寄せた。
――この人、本当にダメだ。
私の怪力そのものを愛し、それを隠そうともしない私をまるごと肯定してくれている。
やがてパレードは無事に国境を越え、エアルダール王国のルサージュ公爵領へと入った。
夕暮れに染まる壮麗な公爵邸が見えてくる。
今夜はあの屋敷の聖堂で、私たち二人の本番の儀式が執り行われるのだ。
怪力令嬢の新たな人生は、いよいよ本格的な幕を開けようとしていた。




