5 お義父上って呼ぶの早いから!
翌朝、私は再びルサージュ公爵家の馬車に揺られていた。
目的地は、私の実家があるラスデス王国の王都、ロデスタール侯爵邸だ。
昨夜の騒動を経て、父ゲオルグは一足先に予備の馬車で帰路につき、私はアドリー様と共に公式な訪問として国境を越えることになったのである。
朝日が差し込む車内は、昨日よりもいっそう静かだった。
向かいの席に座るアドリー様は、手元の書類に目を落としている。
その横顔に、私は不意に視線を奪われた。
夜空を溶かし込んだような濃藍の髪が、朝露を含んだ光を反射して輝いている。
縁取られた長い睫毛の影が、陶器のように滑らかな頬に落ち、サファイアの瞳は知的で穏やかな光を宿していた。
(……待って。この人、改めて見ると前世からトータルしても見たことないレベルのイケメンじゃない!?)
前世のブラック企業時代、疲れ果てた私の唯一の癒やしは画面越しに拝む推しのアイドルだった。
けれど、目の前のこの男は、その誰よりも――そして今世で出会ったどの王族よりも、圧倒的に整っている。
美形の暴力。
そう呼ぶにふさわしい破壊力が、至近距離から私を襲っていた。
「……どうかしましたか? ラニ様。僕の顔に、何かついていますか?」
書類から顔を上げたアドリー様が、ふわりと優雅に微笑んだ。
その破壊力に、私の心臓が大きく跳ねる。
「い、いえ! なんでもありませんわ! ただ、エアルダール王国の景色は、我が国とは少し違うなと思いまして!」
私は赤面を隠すように、勢いよく窓の外へ視線を逸らした。
(危ない。顔の良さに惑わされて、さっき壊したドアノブの弁償代の交渉を忘れるところだったわ。社畜にとって、美形の上司は往々にして一番の天敵なのよ……!)
自分にそう言い聞かせ、私は窓の外に広がるラスデス王国へと続く街道の景色を眺めることに専念した。
馬車が国境を越え、ラスデス王国の領内に入ってしばらくした頃だった。
順調に進んでいた馬車の速度が落ち、やがて完全に停止した。
「閣下。前方の街道が塞がっております」
御者の声に、アドリー様が窓から外を伺った。
そこには、運搬中の巨大な石材を積んだまま、車輪が脱輪して立ち往生している大型の荷車があった。
石材は街道の半分以上を塞ぎ、後方には多くの商人や旅人の馬車が列を作って困り果てている。
「これだけの重さだ、十人がかりでもびくともしないぞ!」
「クレーン車を呼ぶにも、最寄りの街まで半日はかかるぞ。どうするんだ!」
商人たちの絶望的な叫びが聞こえてくる。
アドリー様が、隣に控える騎士に声をかけようとした。
「僕たちの騎士を向かわせよう。これでは通ることも……」
「あ、アドリー様。少し失礼いたしますわ」
私は騎士たちが動き出すよりも早く、馬車の扉を開けて外へ出た。
社畜時代の癖だろうか。
目の前で業務上のトラブルが発生しているのを見ると、効率を考えて体が勝手に動いてしまうのだ。
資材搬入の遅れは、プロジェクト全体の遅延に直結する。
「お嬢さん、危ないから離れていなさい! この石材が崩れたら命に関わる!」
一人の商人が私を制止しようとした。
白銀のふんわりとした髪にアメジストの瞳、そして華奢な体格の私が、重い石材の前に立つ姿は彼らの目には自殺行為に映ったのだろう。
「ご心配なく。少しだけ、横に寄せさせていただきますわね」
私は最高級の絹で作られたドレスの裾を汚れぬよう軽く摘み、石材が積まれた荷車の底に右手を添えた。
そして、十八年間隠し続けてきた筋肉にほんの少しだけ意識を集中させる。
呼吸を整え、背筋を伸ばし、地面をしっかりと踏みしめる。
「よいしょ」
私は数トンの質量があるはずの石材と荷車を、片手でひょいと持ち上げた。
…………。
………………。
周囲が、水を打ったように静まり返った。
私は軽い足取りで、持ち上げた荷車を街道の脇の安全な場所まで運び、そっと地面に下ろした。
衝撃で石材が崩れないよう、あくまで丁寧に、慎重に。
「はい。これで、皆様通れるようになりますわよ」
私は手に付いた僅かな塵をパンパンとはたき、何事もなかったかのように微笑んだ。
商人も、旅人も、そして私の後ろにいたアドリー様の騎士団までもが、石像のように固まっている。
(あ……しまった。ついうっかり、社畜時代の現場監督みたいなノリでやっちゃったわ……)
自分のしでかしたことに気づき、冷や汗が流れる。
ラスデス王国で、私は風に吹かれただけで倒れるか弱い令嬢として十八年間通してきたのだ。
それなのに、衆人環視の中で重機並みのパワーを披露してしまうなんて。
「……ああ。なんて、なんて凛々しいんだ、ラニ様」
沈黙を破ったのは、馬車から降りてきたアドリー様だった。
彼は恐怖に顔を引きつらせるどころか、サファイアの瞳を感動に潤ませ、惜しみない拍手を私に送っていた。
「君のその、一切の迷いがない誇り高い筋肉……いえ、お心が、僕は誇らしい。困っている民を放っておけないその慈愛こそが、真の美しさだ」
(公爵様、今、確実に筋肉って言おうとしたわよね!? 筋肉は否定しないけど、公爵夫人の評価基準としてそれでいいの!?)
アドリー様は呆然とする商人たちを尻目に、私の手を取り、まるで宝石を扱うような手つきでエスコートし始めた。
「さあ、ラニ様。王都への道が開かれました。僕たちも行きましょう」
こうして、私は怪力令嬢としての片鱗を街道に刻みつけながら、王都のロデスタール侯爵邸へと帰還したのである。
◇
邸宅に到着すると、そこには血相を変えた父ゲオルグと、母フォルナが揃って出迎えてくれた。
直されたばかりの応接室のドアは、昨日よりも頑丈そうな蝶番に変わっていた。
「……ラニ。本当に無事だったんだな」
お父様が、安堵と困惑の入り混じった顔で私を見つめる。
一方、お母様は、私の隣に立つ絶世の美青年――アドリー様を見て、ハンカチを口元に当てて絶句していた。
「ロデスタール侯爵、およびフォルナ夫人。昨夜は突然のことで失礼しました。改めて、正式にご挨拶に参りました」
アドリー様は、非の打ち所がない優雅な所作で頭を下げた。
応接室に移動し、重厚なソファに向かい合う。
アドリー様はお父様の目を真っ直ぐに見据え、言葉を続けた。
「僕は、ラニ様を僕の妻として迎えたい。正式な求婚に参りました」
「な……!」
「まあ……!」
両親の叫びが重なる。
お父様が震える手で茶を一口飲み、眉間に皺を寄せた。
その視線は一瞬だけ私の右手に向けられ、それから泳ぐようにアドリー様へと戻った。
「公爵閣下……お気持ちは大変光栄ですが、ラニは見ての通り、風が吹けば折れてしまうような儚い娘なのです。彼女は、蝶の羽を触るような細心の注意を払わなければならないほど繊細で……昨夜、エバーソン王子の馬車が勝手にひしゃげたのも、きっと、その、あまりに彼女が可憐すぎて、鉄が勝手に恐怖したか何かの間違いでして……」
(お父様……それは、苦しすぎるわ!!)
お父様の弁明に、私は内心で盛大に突っ込んだ。
けれど、お父様にとっては、私はあくまで守られるべき愛娘なのだ。
目の前で鉄の支柱を飴細工のように捻り切った事実を目撃してなお、彼はそれを何か不可解な現象として処理し、娘のか弱さを必死に守ろうとしているようだった。
「……ええ、存じております。彼女がどれほど、自分を押し殺してまで、この世界の平穏を守ろうとしてきたかを」
アドリー様が、穏やかに微笑んだ。
彼は現実を直視できずにいるお父様を否定せず、巧妙な言い回しで――けれど、私にははっきりと伝わる愛を語り始めた。
「僕は、彼女の本当の姿……その、内側に秘めた圧倒的な輝きも含めて、すべてを愛しています。彼女が自分を隠す必要のない場所を、僕は僕の領地に作りたい。彼女のその手が、何かに怯えることなく、自由に振るわれる日々を僕が責任を持って一生お守りします」
アドリー様が、テーブルの下でそっと私の手を握った。
その温もりは強く、揺るぎない。
お父様は、アドリー様の誠実すぎる瞳と、私のどこか諦めたような――けれど、幸せそうな顔を見て、ついに深く溜息をついた。
「……閣下が、そこまで仰るのなら。娘の、あの……常識を超えた事情も含めて受け入れてくださると言うのなら、私に反対する理由はありません。ラニを、どうか頼みます」
「ありがとうございます、お義父上」
(お義父上って呼ぶの早いから! そしてお父様、最後は受け入れたわね! 私、一生この人に監視……いえ、愛される立場になっちゃったわ!)
今世で求めていた平穏とは、どうやら程遠い結末になりそうだった。
けれど、自分の力を肯定され、美しい公爵様に熱烈に望まれる今の状況は……悪くはない。
怪力令嬢としての私の新たな人生は、世界一甘い包囲網の中で本格的に幕を開けることになったのである。
「……さあ、ラニ様。式の準備を急がなければ。君に似合う、最高に頑丈で、美しいドレスを仕立てさせよう」
アドリー様が耳元で囁く言葉に、私は心拍数が限界を突破するのを感じながら、そっと目を伏せるのだった。




