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4 少しばかり、立て付けが悪かったようですわ

 アドリー様の背中は、どんな防壁よりも頼もしく私の視界からエバーソンの醜悪な顔を遮ってくれた。


 彼は聖者のような微笑みを浮かべたまま、静かに口を開く。

 その声は心地よい響きを持ってホールに染み渡った。


「エバーソン殿下。ここはエアルダール王国の公爵邸、僕のプライベートな空間です。夜分に無断で国境を越え、我が領地を救った恩人をそのように呼ぶことは、到底看過できません」


「恩人だと? 笑わせるな! 彼女は我がラスデス王国の――」


「貴方がラスデスの第二王子であろうとも、友好国の、それも我が領地を救った恩人を不当に侮辱し、無理やり拘束しようとする行為。これは我がエアルダール王国への、ひいてはルサージュ家への宣戦布告と受け取ってよろしいですね?」


「な、宣戦……!? 何を飛躍したことを!」


 エバーソンが怯んだ隙に、アドリー様はさらに距離を詰めた。

 ただ微笑んでいるだけなのに、エバーソンの従える騎士たちまでもが圧倒的なプレッシャーに押されて思わず後退りする。


「飛躍ではありません。僕にとって、ラニ様はそれほどまでに代えがたい存在なのです」


 アドリー様が、さりげなく私の肩を抱き寄せた。

 その温もりに心臓が跳ねる。

 そんな私たちのやり取りを、呆然とした表情で見守っていた人物がいた。


「……ラニ。お前、本当に無事だったのか?」


 父、ゲオルグだ。

 彼は、ひどく複雑な表情で立ち尽くしていた。

 娘が深夜に姿を消したと知り、王家の特注馬車に無理やり同乗して国境沿いのこの屋敷まで文字通り飛んできたのだろう。

 着慣れた夜会服が、激しい道中を物語るように乱れている。


 彼は王子に従ってきたのではない。

 ただ私を心配して追いかけてきたのだと、その痛々しいほどの表情でわかった。


「お父様……勝手に出ていってしまって、ごめんなさい」


「ロデスタール侯爵。娘さんを案じるお気持ちは痛いほどわかります。ですが、ご安心ください。ラニ様は、僕の魂を救ってくれた女神なのです」


 アドリー様が、お父様に向かって深々と頭を下げた。

 公爵という立場でありながら、隣国の侯爵に対してこれほど真摯な礼をとる姿に、ホールにいた全員が息を呑む。


「僕は、ラニ様に一目惚れしました。彼女を、あのような心ない言葉で傷つける者からは、僕が一生をかけてお守りしたい……侯爵。僕は彼女との結婚を前提とした、正式な縁談の使者を明日にも送らせていただきます」


「え、今……結婚って、言った……?」


 お父様が、信じられないものを見る目でアドリー様と私を交互に見つめた。

 私も、それどころではない。


(結婚!? 展開が早すぎて、さっき壊したドアノブの弁償代を切り出すタイミングが完全に消えたわ!)


「ふざけるな! 誰が許すか! ラニ、さっさと馬車に乗れ! 私のために、その力で敵国を粉砕し、私を唯一無二の王にするのだ!」


 エバーソンが、逆上して私の方へ手を伸ばそうとした。

 その刹那――アドリー様が、私の耳元でとろけるような低い声で囁いた。


「ラニ様。少しだけ、僕に貴女の勇気を見せていただけますか? この不快な騒音を、止めるために」


 アドリー様の瞳に宿る、私への全幅の信頼。

 その眼差しに当てられて、私の胸の奥に火が灯った。


 ――わかったわ。

 エバーソンみたいなクソ上司予備軍には、物理的な理解が必要なのね。


「……わかりましたわ、アドリー様」


 私はアドリー様の腕から離れ、エバーソンの目の前にまで歩み出た。

 私は彼を無視して、玄関のすぐ外に停められた彼が自慢げに乗り込んできた王家特注の鉄製馬車を見やった。


「いい馬車ですわね、エバーソン様。王家の威光を示す、頑丈な作りだと伺いましたわ」


「ふん、当然だ。これこそが最強の――」


「それなら、少しくらい調整しても、壊れませんわよね?」


 私は、馬車の車輪を支える太い鉄製の支柱にそっと右手を添えた。

 そして呼吸を整え、指先に意識を集中させる。


 十八年間。

 隠して、演じて、押し殺してきた――私の本当の姿。


 鉄が悲鳴を上げる鈍い音が夜の空気に響いた。

 私の指が触れた場所から、鋼鉄の支柱がまるで茹で上がったアスパラガスのように、ぐにゃりと歪んでいく。


 そのまま、私は支柱を一捻りした。

 鉄が引き絞られ、巨大な馬車の車体が耐えきれずに大きく傾いた。


「……ひっ!?」


 エバーソンが短い悲鳴を上げ、後ずさる。

 私は飴細工のように曲がった鉄の支柱から手を離し、優雅にスカートを摘んで一礼した。


「あら……少しばかり、立て付けが悪かったようですわ。これでは、王都まで帰るのは難しそうですわね?」


 馬車は不自然に傾き、もはや走行不能なのは誰の目にも明らかだった。

 ただの少女の指先が、王国の誇る鋼鉄を捏ねたという事実。

 その光景にエバーソンは逆らったら死ぬという原始的な恐怖を本能に刻み込まれたようで、ガタガタと震え出した。


「バ、バケ……いや、なんでも……ない……ひ、引け! 全員、撤収だ!」


 エバーソンは傾いた馬車を放置して、騎士たちに抱えられるようにして夜の闇へと逃げ去っていった。

 あとに残されたのは静まり返った玄関ホールと、呆然としたお父様、そして――。


「素晴らしい……やはり、貴女のその力は、世界を平和にする奇跡だ」


 アドリー様が再び私の元へ歩み寄り、愛おしそうに私の手を取った。

 汚れた私の指先に、彼はためらうことなく唇を落とす。


「侯爵。夜も更けました。今夜は、ラニ様を僕の屋敷でゆっくりと休ませてあげてください。明朝、改めて僕が貴方の元へ彼女を送り届けます。もちろん、婚約指輪を持ってね」


 お父様は娘の圧倒的な破壊力と、それを奇跡と呼んで跪く公爵の姿を見て、もはや言葉を失っていた。

 けれど、アドリー様の誠実な瞳と私のどこかスッキリとした表情を見て、彼は深く溜息をついた。


「……わかった。ラニを、頼みます……公爵閣下」


 お父様は良き理解者としての寂しさと安堵を滲ませて、予備の馬車を借りて静かに帰路についた。


 再び、屋敷には静寂が戻った。


「さあ、ラニ様。少し騒がしくなりましたが……客間に戻りましょうか。マッサージの続きを。今度は、もっとリラックスしてくださいね?」


 アドリー様が、私の腰をそっと引き寄せる。

 サファイアの瞳が、至近距離で私を見つめている。


 エバーソンに捨てられたはずの私は、どうやら――王子よりよっぽど強引で、けれど誰よりも甘く私を肯定してくれる公爵様に、物理的にも精神的にも、完全に捕らえられてしまったようだった。


「……マッサージ、ですか?」


「ええ。貴女のその美しい指先が、これ以上、不快なもののために震えないように」


 耳元で囁かれる甘い声に、私は前世でミスをして報告書を書かされている時の動悸よりも激しく心臓を揺さぶられるのだった。

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