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3 私を動揺させないで!

 私がルサージュ公爵家の馬車に揺られることになったのは、まったくの想定外だった。


 深夜の山脈。

 公爵アドリー様に押し切られる形で、私はエアルダール王国の公爵邸へと運ばれている。


 車内に一歩踏み入れた瞬間、私はその内装の豪華さに目を見張った。

 ベルベットのシートは吸い付くような肌触りで、何より驚いたのはその乗り心地だ。


(おしりが全然痛くない……!)


 前世の社畜時代、営業回りで使い倒した軽自動車の腰に響く振動とは雲泥の差だ。

 最高級のサスペンションが効いているのか、険しい山道を走っているはずなのにまるで雲の上を滑っているかのような感覚だった。


 しかし、座り心地が良ければ良いほど私の心は重くなっていく。


(これ、絶対にドラゴンの巣窟を更地にした修理代とか、不法侵入の罰金とか請求されるパターンよね? ああ、ブラック企業の残業代未払いよりタチが悪いわ……)


 前世のトラウマで贅沢な空間であればあるほど、後の請求書への恐怖として蘇ってくるのだ。


 馬車が止まり、扉が開かれた先にあったのは夜の闇に白く浮かび上がる壮麗な屋敷だった。

 エアルダール王国の様式美を極めたその邸宅は、尖塔こそないものの、広大さと気品においては私が暮らすラスデス王国の王宮にも引けを取らない。


「さあ、ラニ様。まずは温かい湯浴みと、お食事を。貴女のような尊い方を、このような夜更けまで歩かせてしまった僕を許してほしい」


 アドリー様が、馬車の前でエスコートの手を差し伸べる。

 濃藍の髪が月光に透け、サファイアの瞳が私を優しく見つめている。

 その眼差しがあまりに誠実で、私は断る言葉を見失ってしまった。


 屋敷の玄関ホールに足を踏み入れると、整列した使用人たちが一斉に頭を下げた。

 私は緊張のあまり、ドレスの裾を強く握りしめた。

 案内された客間の入り口で、私は自分の立ち位置を整えようと、無意識にドアの装飾の一部を支えにしてしまった。


 その瞬間、嫌な手応えが指先に伝わった。

 私の僅かな握力に耐えきれず、精巧な彫刻が施された取っ手の根元が粘土のようにぐにゃりと歪んだ。


(やってしまった……! 確実に追加請求が来るわ!)


 私は顔面を蒼白にさせながら、歪んだ金属を素知らぬ顔で背後に隠した。

 幸いアドリー様は先に部屋の中を確認しており、私の失態には気づいていないようだった。


 用意された風呂は、前世のユニットバスが何十個入るかわからないほど広大で、薔薇の花びらが浮かべられていた。

 侍女たちは、私の汚れを落としながら「なんて美しいお肌でしょう」「これほどの力を持つ方が、こんなにも華奢だなんて」と、畏怖と敬意の入り混じった溜息をついている。


 彼女たちの言葉に、私は居心地の悪さを感じていた。

 本当は婚約破棄されたストレスをドラゴンにぶつけただけの、情緒不安定な女なのだと言い出せるはずもなかった。


 湯浴みを終え、用意された絹の寝衣に着替えた私は客間のソファでアドリー様と向かい合った。

 テーブルには、温かいスープと芳醇な香りの肉料理が並んでいる。


「口に合うといいのだけれど……ラニ様、貴女が今夜してくださったことは、僕にとって、そしてこの領地の民にとって、奇跡そのものなのです」


 アドリー様は、私の正面に座り、穏やかな声で話し始めた。

 その表情には、領主としての深い苦悩の跡が滲んでいた。


「あの絶望の黒龍たちは、長年、僕の領地を脅かしてきました。作物は荒らされ、家畜は奪われ……何より、勇敢な騎士たちが、民を守るために命を落としていくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。自分の無力さに、何度も心を痛めてきたのです」


 アドリー様のサファイアの瞳が、僅かに伏せられる。


「だから、月明かりの下で貴女がドラゴンを打ち倒す姿を見たとき、僕は魂が震えるのを感じました。貴女のその強さは、誰かを傷つけるためのものではなく、理不尽な災厄を終わらせるための救いの力だ。僕は、一目見た瞬間に、貴女という存在に心を奪われてしまった」


 真っ直ぐな告白に、私の胸がドクンと跳ねる。


「……手が、少し震えていますね。やはり、お疲れなのでしょう」


 アドリー様が、テーブル越しに私の右手をそっと取った。

 私の手は、ドラゴンを殴り飛ばしたときよりも激しく震えていた。

 それは疲れではなく――彼との距離があまりに近いことへの本能的な動揺だった。


「僕にできることは少ないけれど……せめて、この手の強張りを解かせてほしい」


 アドリー様の温かい指先が私の手のひらを包み込み、ゆっくりと揉みほぐし始めた。

 彼の指先は驚くほど細く、繊細だ。

 マッサージをするその手つきはどこまでも優しく、大切に慈しむような熱を帯びている。


(ちょ、近いっ! 私の指一本であなたの指の骨が粉砕されるのよ! 私を動揺させないで! 殺人犯にしないで!)


 最初はそんな恐怖が頭をよぎったが、彼の手が私の指を一本ずつ丁寧に解いていくうちに不思議と体の力が抜けていくのを感じた。


 彼のサファイアの瞳が、至近距離で私を見つめている。

 エバーソンのように私を値踏みする目ではない。

 一人の女性として、心からの敬愛を捧げる穏やかな眼差し。


 その体温が伝わってくるたびに、私の心臓の音がうるさくなっていく。

 前世のブラック企業で締め切りに追われていた時の動悸とは違う――もっと甘く、苦しい高鳴り。


「ラニ様。僕は、貴女をただの恩人としてお返ししたくない……僕の隣に、ずっといてはいただけませんか?」


 その時、客間の扉が激しく叩かれた。


「閣下! 申し訳ございません! ラスデス王国の騎士団、およびロデスタール侯爵閣下がお見えです!」


 使用人の切迫した声に、私は弾かれたように立ち上がった。


(終わった。お父様に怒られるどころか、これ、国際問題に発展してるわ……!)


 玄関ホールへと急ぐと、そこには父ゲオルグの姿があった。

 彼は、ひどく複雑な表情で立ち尽くしている。


 そして、その隣には――。


「おいバケモノ女! よくも私の元から逃げ出したな! 貴様のその力、王国の軍事機密として私が管理すると言ったはずだ!」


(は!? 私を勝手に捨てたのはあんたでしょ!)


 数時間前の恐怖を都合よく忘れ、欲望を肥大化させたエバーソン王子が傲慢な笑みを浮かべて立っていた。


 私の平穏への道のりは、どうやら予想以上に険しいものになりそうだった。


 私は拳を握りしめ、背後に控えるアドリー様の気配を感じた。

 彼は穏やかな笑顔のまま――けれど、その瞳に鋭い光を宿して、私の前に一歩踏み出したのである。

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