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2 え……今なんて?

 夜の帳が下りた北の連峰は、下界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 私はロデスタール侯爵家の自室の窓から飛び出し、風を切ってこの地へと辿り着いた。

 白銀の髪が夜風に煽られ、視界を遮る。

 着地の際、足の裏から伝わる硬い岩盤の感触が、私の全身に漲る異常な力を受け止めてくれた。


 ここは、隣国との国境近くに位置するルサージュ公爵領の深淵。

 王国最強の騎士団ですら足を踏み入れるのを躊躇うという、魔境中の魔境だ。


「……空気が、冷たくて気持ちいいわね」


 私は自ら引きちぎって膝丈ほどになったドレスの裾を翻し、周囲を見渡した。

 先ほどまでいたあの応接室の、重苦しい空気。

 エバーソン王子の傲慢な声や、隣にいた女の勝ち誇ったような薄ら笑い。

 それらを思い出すだけで、私の胃の奥が焼け付くような不快感に支配される。


 十八年間。

 私は彼らに、か弱く、守られるだけの価値しかない人形だと思わせるために、どれほどの神経を削ってきただろうか。


 前世のブラック企業で、理不尽な上司の小言を笑顔で聞き流していたあの頃と同じ。

 私は、波風を立てないことが最善だと信じて、自分という牙を隠し続けてきたのだ。


 その結果が、あのあっけない婚約破棄。

 私の努力は彼らにとっては、価値のない退屈な置物に過ぎなかったというわけだ。


 ふつふつと、心の底から泥のような怒りが湧き上がってくる。

 前世で、過労死するその瞬間までデスクにかじりついていた私の無念が、今、この華奢な体の中で暴れ回っている。


 ――その時、上空の空気が震えた。

 見上げれば巨大な翼を広げたドラゴンたちが、侵入者である私を排除しようと旋回を始めている。

 その中心には、ひときわ巨大な漆黒の鱗を持つ古龍が私を見下ろしていた。


 龍が大きく口を開け、大気を震わせる咆哮を上げる。

 普通の令嬢ならこの音圧だけで気絶するか、恐怖で動けなくなるのだろう。


 だが、今の私の脳内にあるのは、恐怖を塗りつぶして余りある、猛烈な八つ当たりの衝動だけだった。


「……うるさいわね。人が、これからの身の振り方を真剣に考えている時に」


 私は、右の拳をゆっくりと、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。

 女神様に授かった、この過剰すぎる力。

 これまでは、世界という脆いガラス細工を壊さないために、全神経を集中させて封印してきた。

 けれど、もう我慢する必要はない。


「これは、人助けよ。そう、ルサージュ公爵領の平和を守るための、慈悲深いボランティア活動なの。だから……ちょっとくらい、本気で暴れてもいいわよね!?」


 私は自分にそう言い聞かせると、岩盤を強く蹴った。

 足元の地面が爆発したかのような衝撃と共に砕け、私の体は弾丸のような速度で垂直に跳ね上がる。


 一瞬で空中の古龍の眼前に到達した私は、驚愕に目を見開くその鼻面に、全力の拳を叩き込んだ。

 直接触れた拳から生じた衝撃波がドラゴンの硬質な鱗を容易く粉砕し、その巨躯を後方の岩壁へと弾き飛ばす。


 山一つ分ほどもある重みが、私のたった一撃で、まるで紙屑のように吹き飛んでいく。

 凄まじい破壊音が山脈に反響した。

 古龍は岩壁に背中から激突し、山を削りながら地面へと墜落していった。


 周囲を飛んでいた群れのドラゴンたちが予想だにしない事態に混乱し、一斉に灼熱の炎を吐きかけてくる。


「熱いわね! でも、前世のあの、冷房も効かないオフィスで深夜まで働かされていた頃の殺伐とした空気よりは、よっぽどマシよ!」


 私は空中で身を翻し、襲い来る火球を素手ではたき落とした。

 手のひらに熱を感じるが、痛みはない。

 それどころか暴れれば暴れるほど、体の中の澱んでいた毒が抜けていくような奇妙な高揚感があった。


 私は逃げようとしたドラゴンの尻尾を両手で掴み取ると、そのまま力任せに振り回した。

 ジャイアントスイング。

 私の腕の中で数トンの質量を持つ生き物が、ただの凶器へと成り果てる。

 周囲のドラゴンたちを、振り回した個体で次々となぎ倒していく。

 岩石が砕け、巨体が地に伏す凄まじい衝撃が絶え間なく鳴り響いた。


 数分後。

 魔境と呼ばれていた場所にはかつての静寂とは異なる、荒廃した沈黙が訪れていた。


 足元には、意識を失って折り重なるドラゴンの山。

 私はその頂上に立ち、肩で息をしながら、ようやく少しだけ気持ちが軽くなったのを感じた。


「……ふぅ。ちょっと、やりすぎちゃったかしら。でも、これで領民の人たちは安心して眠れるはずよ……完全なる善行ね。そうに違いないわ」


 私は額の汗を拭い、泥や返り血で汚れたドレスの裾を気にするふりをして、無理やり自分を納得させた。


 ――その時、麓の方から複数の馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえてきた。


 私は慌てて、周囲に散らばった岩の陰に身を隠そうとした。

 けれど、周囲の地形は私の暴挙によって無残な更地へと変わっており、隠れる場所などどこにもなかった。


 蹄の音は、ドラゴンの巣窟であったはずのこの場所で止まった。

 現れたのは美しく整った隊列を組んだ、公爵家の騎士団らしき一団だった。


 その先頭で馬を降りたのは、月明かりの下でひときわ目を引く、濃藍の髪を持つ青年だった。

 夜空を深く溶かし込んだような、深みのある濃紺。

 その瞳は澄んだサファイアのように輝き、私という異質な存在を真っ直ぐに射抜いている。


(……うわ、見つかった。これ、不法侵入とか物損とかで訴えられるパターンじゃない?)


 私は返り血を浴びた自分の姿を思い出し、冷や汗が流れるのを感じた。

 ドレスは引きちぎられ、髪は乱れ、足元には自分が叩きのめしたドラゴンの山。

 どう言い訳したところで、不審者以外の何者でもない。


 アドリー公爵と呼ばれたその青年は、周囲の惨状を言葉を失ったように見つめていた。

 無理もない。

 王国最強の騎士団でも討ち取れなかった絶望の黒龍が、今や私の足元で無様に白目を剥いて転がっているのだから。


 騎士たちが、恐怖に顔を引きつらせて剣を抜こうとする。

 私は思わず後退りした。

 ここで彼らまで倒してしまったら、本当の意味で指名手配犯になってしまう。


 しかし、アドリー公爵は違った。

 彼は騎士たちの制止を片手で制すると、呆然とした表情のまま、私に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってきたのだ。


「……ま、まさか……貴方様のような、愛らしい方が……これを?」


 彼の声は、震えていた。

 それは恐怖によるものだと、私は確信した。

 当然だ。

 こんな細い腕でドラゴンをなぎ倒した女など、化け物以外の何物でもないだろう。


(こんな異質な馬鹿力を持っていたら、どこへ行っても怖がられ、疎まれるでしょうね……)


 私が彼に弁明をしようと口を開きかけた――その時。

 アドリー公爵はあろうことか、血と泥に汚れた私の足元に跪いたのである。


「美しい……」


 彼の口から漏れたのは、拒絶の言葉ではなく、魂の底から絞り出されたような感嘆の溜息だった。


「え……今なんて?」


 私は耳を疑った。

 アドリー公爵は美しいサファイアのような瞳に情熱的な光を宿して、私を見上げている。


「我が領地を長年苦しめてきた災厄を、これほどまでに鮮やかに……貴女のような小さくも気高い方が、たった一人で立ち向かってくださったのか」


 彼は私の汚れを拭うことも憚られるほど大切そうに、私の右手を下から支えるように掬い上げた。

 その手は温かく、微かに震えている。


「貴女は、僕の領地を救ってくれた英雄だ……いいえ、絶望の中にあった僕の魂を、その光り輝く強さで救ってくれた方だ。僕は生まれて初めて、真に守るべき尊いものを見つけた気がします」


(……守るべきもの? 私が? ドラゴンの尻尾を掴んでブン回してた私を?)


 私は、あまりの事態の急変に思考が追いつかなかった。

 エバーソン王子には足手まといの人形と切り捨てられたが、この目の前の青年は私の暴力そのものにあろうことか美しさを見出している。


「不躾ながら、僕は、貴女のような方に今まで出会ったことがありません。一目、お姿を拝見した瞬間、心臓の鼓動が止まらなくなってしまった」


 アドリー公爵は、私の泥だらけの手の甲に敬意を込めてそっと唇を触れさせた。

 その仕草はどこまでも優雅で――けれど、隠しきれない独占欲のような熱が混ざっているのを私は感じ取ってしまった。


「どうか、僕の屋敷へお越しいただけませんか? 貴女のその傷を癒し、最高の感謝を持って、おもてなしをさせていただきたい……そして、もし許されるなら、もっと貴女のことを知りたいのです」


 私は、目を丸くして彼を見つめることしかできなかった。

 前世の社畜時代にも、今世の箱入り令嬢時代にも、こんなにも情熱的に必要とされたことなんて、一度もなかった。


「……え、あ、はい? お屋敷? おもてなし?」


 私は混乱のあまり、気の抜けた返事しかできなかった。

 けれど、アドリー公爵の瞳の中に宿る揺るぎない確信を見て、私は悟った。


 この人は、本気だ。

 私が化け物であることを承知の上で――いや、化け物である私そのものに、一目惚れしてしまったのだと。


 夜の山脈に、破壊の跡と、予期せぬ恋の予感が刻まれる。

 エバーソン王子に捨てられたはずの私は、そのわずか数時間後、隣国の公爵に魂を救った女神として熱烈なプロポーズを受けることになったのである。


 ――私の新たな人生は、どうやら私の想定を遥かに超える、おかしな方向へと動き始めてしまったようだった。

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