1 か弱い花は、今日で卒業させていただきます
(なんなのよこの体、不便すぎる……!)
手のひらの中で、繊細な細工が施されたクリスタルグラスが、まるで見せかけの虚飾を剥ぎ取るかのように粉々に砕け散った。
粉砕された破片の間から真っ赤な果実酒が溢れ出し、私の白く細い指先を汚していく。
突然だが――私、ラニ・ロデスタールは怪力だった。
どれくらいの怪力かと言えば、本気で握ればダイヤモンドを砂に変える自信があるし、床を強く踏みしめれば一階の広間まで直通の穴を開けられる。
そんな、物理法則を無視したレベルの破壊力を、この華奢な体に宿しているのだ。
前世の私は、地球の日本という場所で暮らしていた。
そこでの生活は地獄という二文字で集約できるものだった。
ブラック企業での終わらない残業、上司からの執拗なモラハラ、同僚からの責任の押し付け。
「はい、すみません。すぐやります」
そう繰り返すうちに心は摩耗し、視界は灰色に染まり――最終的には、深夜のオフィスでキーボードを叩いたまま、過労死という悲劇的な最期を迎えてしまったのである。
そんな私を見兼ねたのか、あるいは単なる悪ふざけか。
真っ白な空間で出会った女神様が、私にこう問いかけたのだ。
「力が――欲しいか?」
(え、今どきの女神様ってこんな青年漫画の悪魔みたいなこと言うの……?)
内心で激しく突っ込みつつも、死にたてホヤホヤで思考が停止していた私は、自嘲気味に答えた。
「あー……はい。力がもっとあれば、あのモラハラ上司のこともわからせられたんですかね。もう二度と、誰にも踏みにじられない、圧倒的な力が欲しいですよ、ええ」
半分は八つ当たり。
半分は願望。
すると女神様は、薄く、どこか楽しそうに微笑んだ。
「なら、あげます」
「え、あ、はい?」
そうして転生した先が――ロデスタール家の侯爵令嬢だったってわけ。
ウェービーな白銀の髪に、アメジストの瞳。
どこからどう見ても、風が吹けば折れてしまいそうな儚げな美少女として私は生まれ変わった。
だが、中身は別物だ。
十八年前、赤ん坊として目覚めた私が最初にやったことは、お祝いに贈られた金のガラガラを無意識の握力で平らな鉄板に加工することだった。
――以来、今世こそは平穏に生きたかった私は、この十八年間必死に自分を押し殺してきた。
ドアノブを回す時は、壊れやすい綿菓子を触るように。
歩くときは、薄い氷の上を進むように。
常に全身が微かに震えているのは、内側から溢れ出す破壊の衝動を、筋肉の微細なコントロールで封じ込めているからだ。
おかげで周囲からは「繊細で、常に怯えている可憐なラニ様」と盛大に勘違いされ、この国の第二王子であるエバーソンの婚約者にまで選ばれてしまった。
――そして今日、その勘違いが、最悪の形で実を結ぼうとしていた。
「ラニ、君との婚約は今日限りで破棄させてもらう!」
ノックもせずに応接室へ乗り込んできたエバーソン王子は、金髪をきらめかせながら尊大に言い放った。
その隣には、彼が真の聖女と呼んで憚らない浮気相手――派手な装飾のドレスを着た女、セルティーヌが寄り添っている。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか?」
私は、怪力で粉砕してしまったグラスの破片をメイドに片付けさせながら、努めて冷静に問いかけた。
指先が震える。
それは悲しみではなく、今すぐこのテーブルの角を素手で引きちぎって投げつけたいという猛烈な暴力への誘惑を、全精神力で押さえ込んでいる証拠だ。
「理由は明白だ! 私は次期国王候補として、共に国を支え、困難に立ち向かえる力強い伴侶を求めている」
エバーソンは、セルティーヌの腰を引き寄せながら、私をゴミを見るような目で見下した。
「だが君はどうだ? いつも私の隣で小鹿のように震え、私の厳しい指導にも俯くばかり。君のようなか弱い花は、私のような強き者の隣には相応しくない! セルティーヌ見ろ、彼女は魔法で魔物をなぎ倒し、私を鼓舞してくれる。君のような守られるだけの人形は、私の足手まといなのだよ」
「……足手まとい、ですか」
「そうだ。君には、私のような輝かしい王者の隣を歩く資格はない。去り際くらいは大人しく、この婚約破棄同意書にサインしろ。これからは実家の奥底で、誰にも壊されないように怯えて暮らすといい」
エバーソンが、机に書類を叩きつけた。
――十八年。
私は十八年間、この令嬢という皮を剥がさないように、慎重に、慎重に生きてきた。
前世で上司に罵倒されたときも、死ぬまで働かされたときも、私はずっと「はい」と答えてきた。
けれど。
女神様、私、やっぱり無理だわ。
もう一回死んで、もう一回生まれ変わっても、私はやっぱり「はい」なんて言えそうにない。
「……エバーソン様」
「なんだ? 潔くサインする気になったか?」
「いえ。少し、確認したいことがありまして」
私は、テーブルに置かれた最高級の羽ペンを手に取った。
そして、金属製のペン軸の部分を、親指と人差し指だけで軽くつまむ。
嫌な軋みが走り、エバーソンが息を呑む。
彼が見つめる先で、頑丈なはずの軸が飴細工のようにぐにゃりと歪み、最後には私の指の跡がくっきりと残ったままぺしゃんこに潰れた。
「な、なんだ……手品か?」
「手品? いいえ、これは私の誠意ですわ……サイン、いたしました。これで満足かしら?」
私はぐしゃぐしゃに潰れたペンで、無理やり書類に名前を刻んだ。
もはやサインというよりは、紙を突き破って黒檀の机に直接彫り込まれた深い溝だ。
「さあ、用が済んだならお帰りください。お出口までお送りしますわ」
私はゆっくりと立ち上がった。
一歩踏み出すたびに、足の裏から床を粉砕しないようにという制御を解いていく。
エバーソンとセルティーヌは、何が起きているのか理解できないといった表情で、部屋の出口――分厚いオーク材で作られた、装飾豊かなドアの前まで後ずさった。
「君……何かがおかしいぞ。まさか、ショックで狂ったのか?」
「いいえ、エバーソン様。私は今、人生で一番、正気ですわ」
エバーソンがドアノブを掴み、逃げるように部屋を出ようとする。
その瞬間、私は彼の真横に移動した。
風が鳴るほどの速度。
彼の目には、私が瞬間移動したように見えたはずだ。
「か弱い花は、今日で卒業させていただきます」
「な――」
「だって、これくらいの力がないと、立て付けの悪いドアも開けられませんもの!」
私はエバーソンの手が添えられたドアノブの上から、その豪奢なドアそのものを鷲掴みにした。
そして、一気に引き抜いた。
建物全体が震動するほどの衝撃が応接室に走った。
私が引いたのは、ドアノブではない。
ドア本体だ。
それも、蝶番をねじ切り、周囲の壁の石材ごと、ゴッソリと枠から引き剥がしたのだ。
「……あ」
やりすぎた。
私の右手に握られたドアだったものは、凄まじい圧力によって中心部がひしゃげ、もはや薪のような有様になっている。
ドアがあった場所には、不自然に巨大な、崩れた石材が露出した大穴が開いていた。
「「…………」」
エバーソンとセルティーヌは、腰を抜かして床にヘタり込んでいた。
二人の顔は真っ青だ。
エバーソンの足元にじわじわと水溜まりが広がっていくのを、私は冷めた目で見つめる。
「……あら。少し、力が入りすぎたかしら?」
私は右手のドアの残骸を、廊下の端へと放り投げた。
床を大きく揺らす重量音が響き渡る。
「……バ、バケ……モノ……ッ!」
「失礼ね。これを婚約破棄の正当な理由にしてくださって結構ですわ……さあ、早く行け、このクソ野郎。次は、あんたの首の骨がドアと同じ立て付けになっていないか、確認してあげましょうか?」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ!!」
エバーソンとセルティーヌは、もはや靴も履かずに、今しがた私が開けた大穴を通って転げるように逃げ出していった。
遠ざかる情けない悲鳴。
十八年間、溜めに溜め込んだ鬱憤が、ほんの少しだけ晴れたような気がした。
「……ふぅ。お父様に怒られるわね、これ」
静寂が戻った応接室で、私は自分の右手を眺めた。
十八年間。
一度も拳を握ることを許されなかった、この最強の力。
女神様に理不尽をわからせる力を頼んだ自分を、今日ほど褒めてやりたいと思ったことはない。
けれど、まだ足りない。
ドアを一枚ぶち壊した程度では、全身を巡るこの暴力的なエネルギーは発散しきれないのだ。
「……あー、もう! 暴れたい! 本気で、何も気にせずに、全力で何かを殴り飛ばしたい!!」
私は、重苦しいドレスの裾を豪快に引きちぎった。
繊細なレースも、高価な刺繍も関係ない。
今の私に必要なのは、動きやすさだけだ。
窓を開け、外を見る。
視線の先には、王都を囲む北の山々。
そのさらに奥、隣接するルサージュ公爵領の深淵には、王国最強の騎士団ですら恐れるという古代のドラゴンが住み着いていると聞く。
巷では、その凶暴さゆえに絶望の黒龍と恐れられているそうだ。
「ドラゴンさん……悪いけど、今夜は、私のストレス発散に付き合ってね」
私は窓枠を蹴り、夜の闇へと躍り出た。
普通の人間なら地面に叩きつけられる高さだが、私にとっては、ただの跳躍に過ぎない。
ロデスタール侯爵家の庭園に巨大なクレーターを残し、白銀の閃光が山へと消えていく。
まさかこの夜、私が八つ当たりのついでにルサージュ領を長年苦しめていたドラゴンを一網打尽にしてしまうとは――。
そして、その圧倒的な暴力を目撃したルサージュ公爵が一目惚れをしてしまうとは――この時の私はまだ、知る由もなかったのである。
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