34 貴方のような悪徳経営者は、存在そのものが社会悪ですわ!
圧倒的な質量を持つ古代の超重力拘束陣に囚われ、私の身体は硬い岩盤に縫い付けられたように全く動かせなくなっていた。
呼吸をするだけでも肺がひしゃげそうな絶対的な重圧の中、ゼノヴァス帝国の最高司令官であるグリード・カネスキーによって、鈍い輝きを放つ刃が私の首筋へと向かって無慈悲に振り下ろされた。
(こんなところで、終わってしまうの……? せっかく前世の上司であった如月課長と再会できて、誰にも奪われない最高の居場所を手に入れたというのに。また私は、理不尽な組織の圧力に押し潰されて命を落とすの……!?)
死の恐怖が全身を駆け巡り、私は強く両目を閉じた。
しかし、その絶体絶命の瞬間。
――君に二度と、理不尽な重圧を一人で背負わせはしない!!
魂の奥底に、最愛の夫の切実な叫びが響き渡った気がした。
◇
その頃、ルサージュ・ホワイト・フォートレスの心臓部である巨大な水晶柱に両手を突き立て、要塞全体の瘴気浄化システムを維持していたアドリーは、全身の血が凍りつくような悪寒を感じ取っていた。
魔力を通じて繋がっている愛する妻の命が、今まさに消えようとしている絶望的な危機。
彼が持つ無効化の能力は、原則として彼自身の肉体に直接触れたものにしか効果を発揮しない。
要塞の浄化も、彼が水晶柱に直接触れ続けているからこそ成立しているのだ。
遥か遠く離れた敵陣にいるラニを守る術など、通常の物理法則や魔法理論では絶対に不可能である。
しかし、彼には前世から抱え続けてきた、あまりにも重く深い後悔があった。
過酷なブラック企業で限界まで働き、理不尽な環境の中で命を落とした部下――赤坂こはる。
彼女を守れず、その死に絶望して自ら命を絶った彼は、女神に「大切な人が笑っていられる環境を絶対に保証できる力が欲しい」と願ってこの異世界に転生したのだ。
今世でようやく再会し、互いに愛を誓い合った彼女を――二度と同じように理不尽な重圧の下で死なせるわけにはいかない。
「……赤坂さん!! 君に二度と、理不尽な重圧を一人で背負わせはしない!!」
アドリーは水晶柱に叩きつけていた魔力回路を、極限の出力で逆流させた。
自分自身を発信機とし、空間の座標すらも無視して、己の絶対的な盾の概念そのものをラニの魂へと直接送り届けるという、常軌を逸した魔力運用である。
許容量を遥かに超えた魔力のオーバークロックにより、アドリーの端正な口元から一筋の鮮血が流れ落ちる。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界が白くぼやけるが、彼は決して水晶柱から手を離すことなく全霊を込めて守護の力を彼方へと放った。
◇
私の首筋にグリードの処刑剣が触れる――まさにその刹那。
私の全身が、突然、淡い青い光に包み込まれた。
それは、昨日の戦闘で私を極大魔法から守ってくれた、アドリー様のあの温かく、絶対に揺らぐことのない守護の光だった。
グリードの大剣が光の境界に激突した瞬間――まるで硬い岩に叩きつけられた安価なガラス細工のように、処刑剣の刃の方が根本から粉々に砕け散ったのである。
それだけではない。
私を地面に縛り付けていた絶対的な重圧――すなわち私から自由を奪っていた理不尽なノルマの鎖すらも、青い光に触れた瞬間に完全に霧散し、消滅してしまった。
「なっ……何事だ!? 馬鹿な、処刑剣が砕けただと!? それに絶対重圧の拘束陣が、完全に魔力を失っているではないか!」
手の中に残った柄だけを握りしめ、グリードが驚愕に目を見開いて後ずさる。
私はゆっくりと立ち上がり、自分の身体を包む淡い青い光を見つめた。
遠く離れた要塞にいるはずのアドリー様が、自らの限界を超えて、私にこの絶対防御の結界を飛ばしてくれたのだ。
彼がどれほどの痛みを伴いながら、この無茶な遠隔保証リモート・プロテクションを発動させたのか、私には痛いほどに理解できた。
(アドリー様……如月課長。貴方は本当に、どこまでも私を守ろうとしてくださるのですね)
最愛の夫からの、命を懸けた業務支援。
私が今なすべきことは、この光が消える前に目の前にいる元凶を完全に排除し、愛する人の元へ帰ることだ。
「……従業員を使い捨ての歯車としか見なさず、他国の市場を力技で荒らし回る。そして今度は、私の夫にまで無理な負担を強いた。貴方のような悪徳経営者は、存在そのものが社会悪ですわ!」
私は全身の筋肉に、かつてないほどの怒りとエネルギーを集中させた。
出力は百パーセントを優に超え、限界突破の領域へと達する。
ウェービーな白銀の髪が逆立ち、私の周囲の大気がプラズマを帯びて激しく弾けた。
「ルサージュ公爵家より、ゼノヴァス帝国への不当な敵対的買収に対する、完全なる物理的拒絶倒産宣告を下します!」
私は大地を蹴り砕き、グリードの懐へと一瞬で肉薄した。
彼が慌てて懐から防衛用の魔導具を取り出そうとするが、私の拳の速度の前ではまるで止まって見える。
私は右の拳を引き絞り、彼の腹部に向かって全筋力を乗せたフルパワー・パンチを叩き込んだ。
空気が破裂するような轟音と共に、私の拳から放たれた莫大な物理的衝撃波が、グリードの分厚い装甲を紙切れのように貫通した。
衝撃は彼の肉体をすり抜け、背後の空間へと円錐状に広がりながら、盆地の岩山そのものを根こそぎ粉砕し、地形を変えるほどの巨大なクレーターを穿った。
「が、はっ……! ば……かな。我が帝国の、合理性が……たかが一人の女の暴力に……!」
グリードは大量の血を吐き出し、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
彼の全身の骨は砕け、防衛魔装も武器も完全に砂粒のように消え去っている。
もはや指先一つ動かすことはできない、完全なる戦闘不能状態であった。
絶対的な恐怖政治で軍を統率していた最高司令官が、一撃で物理的に粉砕された事実を目の当たりにし、周囲を取り囲んでいたゼノヴァス帝国の兵士たちは完全に戦意を喪失した。
瘴気の発生装置はすべて破壊され、狂戦士化の魔法薬の効果も切れた彼らは武器を投げ捨て、ある者は逃げ出し、ある者はその場に平伏して降伏の意思を示した。
――これにて、ゼノヴァス帝国によるルサージュ領侵攻の野望は完全に打ち砕かれたのである。
「……終わったわ。労働基準法を無視するブラック企業への、コンプライアンス指導の完了よ」
私は倒れたグリードを一瞥することもなく背を向け、全速力で国境のルサージュ・ホワイト・フォートレスへと駆け出した。
戦後処理や捕虜の確保は、後から来る騎士団に任せればいい。
今の私にとって最優先のタスクは、無茶をして私を守ってくれた最愛の人の安否を確認することだけだ。
要塞の心臓部へ飛び込むと、そこには水晶柱の横で力なく膝を突き、荒い息を吐いているアドリー様の姿があった。
彼の口元には拭いきれなかった一筋の血の跡が残り、顔色は透き通るほどに蒼白だった。
「アドリー様!」
私が駆け寄ると、彼はゆっくりと顔を上げ、私を見ると最高に優しく――そして、安堵に満ちた微笑みを浮かべた。
「……おかえりなさい、ラニ様。無事で、本当によかった」
「貴方こそ、なんて無茶を! 遠隔で防御結界を飛ばすなんて、一歩間違えれば魔力回路が焼き切れていましたよ!」
私は涙ながらに彼を抱き起こし、その蒼白な頬に手を添えた。
アドリー様は私の手に自分の手を重ね、静かに首を振った。
「君を失う痛みに比べれば、これくらいの負荷など何でもありません……約束したでしょう。君のすべてを、僕が受け止めるって」
その言葉に、私の涙腺は完全に決壊した。
私は彼を強く抱きしめ、声を上げて泣きじゃくった。
彼もまた、私の背中に腕を回し、私の髪を優しく撫で続けてくれた。
最強の矛と盾。
前世での悲しい別れを乗り越え――今世でようやく互いのすべてを救い合うことができた私たち。
ブラックな帝国の脅威が完全に去った国境の要塞で、私たちは永遠に続く平和と、二度と壊れることのない絶対的なパートナーシップを心ゆくまで確かめ合うのだった。




