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33 現場監督の単独出張です

 お父様が手配してくれた最高品質の資材と、私の圧倒的な物理的施工能力、そしてアドリー様の絶対防御の付与。

 それらすべてが完璧に噛み合って完成したルサージュ・ホワイト・フォートレスは、国境の谷間においてまさに難攻不落の威容を誇っていた。


 ゼノヴァス帝国軍がどれほど強力な攻城魔法を放とうと、巨大な投石機で岩を打ち込もうと、アドリー様の魔力コーティングが施された純白の城壁はすべての衝撃を完全に無効化して弾き返す。


 要塞の内部に配置されたルサージュ軍の兵士たちは敵の攻撃に怯えることなく、極めて安全な環境下から一方的に弓や魔法で反撃を行うことができていた。

 疲労も負傷も限りなくゼロに近い、まさに定時退社が約束された超ホワイトな防衛戦である。


(素晴らしいわ。現場の安全が完全に保障されているからこそ、従業員たる兵士たちは最高のパフォーマンスを発揮できる。我が領地のインフラ整備と防衛プロジェクトは、完璧に機能しているわね)


 私は要塞の屋上から戦況を見下ろし、現場監督としての確かな手応えに満足の息を吐いた。


 一方、攻めあぐねているゼノヴァス帝国軍の陣地では、司令官であるグリード・カネスキーが忌々しげに我が要塞を睨みつけていた。

 物理的な破壊も、魔法による突破も不可能。

 兵士をいくら使い捨てて突撃させても、あの白い壁を越えることはできない。

 その事実を前に、冷徹なブラック経営者である彼がそのまま素直に撤退を選ぶはずがなかった。


 ――翌日の夜明けと共に、戦場の空気は一変した。

 敵陣の奥深くから不気味な黒い霧が大量に発生し、風に乗って国境の谷間全体を覆い尽くし始めたのである。


 その黒い霧は、城壁に物理的な損害を与えるものではなかった。

 しかし、大気そのものを汚染するその霧は、要塞の僅かな隙間や通気口から内部へと侵入し始めた。


 霧を吸い込んだルサージュ軍の兵士たちが次々と武器を取り落とし、その場に膝を突いて激しく咳き込み始める。

 彼らの顔からは急激に生気が失われ、立っていることすら困難なほどの極度の疲労感と精神的な絶望感に襲われていた。


(これは……毒ガスというより、人間の気力と体力を根こそぎ奪い取る特殊な瘴気ね! 物理的な建造物を破壊できないと悟るや否や、今度は中にいる従業員の健康を直接害する環境攻撃に出るだなんて!)


 私は咳き込む兵士たちを安全な区画へ避難させながら、敵の卑劣な手段に激しい怒りを燃やした。

 安全な職場の空気を汚染し、従業員を精神的、肉体的に追い詰める。

 それはまさに、過酷な労働環境を強制する最悪のハラスメント行為そのものではないか。


「ラニ様、このままでは要塞内部の環境が完全に汚染され、全軍が機能停止に陥ります」


 アドリー様が険しい表情で私の元へ駆け寄ってきた。

 彼は即座に状況を分析し、自らの役割を最も効率的に発揮するための経営判断を下した。


「僕がこの要塞の心臓部コアに直接魔力を接続し、僕の無効化の力を空調システム全体に行き渡らせます。そうすれば、外部から侵入する瘴気を完全に浄化し、巨大な空気清浄フィルターとして機能させることができるはずです」


 アドリー様はそう宣言すると、要塞の魔力供給源である巨大な水晶柱に両手を突き立てた。

 ――瞬間、彼の身体から放たれた青い魔力が脈動するように要塞全体へと広がり、内部に侵入していた黒い瘴気を次々と浄化し、消滅させていく。

 兵士たちの顔に血色が戻り、苦しげな呼吸が落ち着きを取り戻し始めた。


 しかし、その代償は大きかった。


「アドリー様、それでは貴方が……!」


「ええ。要塞全体を浄化し続けるためには、僕はこの場から一歩も動くことができなくなります。すべてのリソースを、この防衛機能に割かざるを得ない」


 水晶柱に両手を固定したアドリー様は、額に薄っすらと汗を滲ませながら微笑んだ。

 最高経営責任者が自ら中央サーバーと化し、組織全体のシステムを維持するためにその身を縛り付けられる状況。

 これでは、ジリ貧の防衛戦を強いられることになってしまう。


(敵の狙いは、まさにこれだわ。アドリー様という最強の盾を要塞の維持に釘付けにすることで、私たちの身動きを封じる気なのだわ)


 私は強く拳を握りしめ、水晶柱の前から動けない彼へと向き直った。


「アドリー様。貴方がこの職場の環境を守り抜いてくださるのなら、私が直接、あの劣悪な労働環境を生み出している発生源を物理的に撤去してまいりますわ。現場監督の単独出張です」


 私の決意を聞いたアドリー様は、止めることはしなかった。

 彼は私の実力を誰よりも理解し、信頼してくれているからだ。


「……わかりました。必ず、無事で帰ってきてください。貴女の帰る場所は、僕が何に代えても守り抜きますから」


「ええ、いってまいります!」


 私はアドリー様の言葉を背に受け、要塞の正面ゲートから単身で外へと飛び出した。


 視界を遮るほどの濃密な瘴気が立ち込める中、私は肺呼吸を極限まで浅く制限し、全身の筋肉の出力を跳ね上げた。

 大地を蹴り割り、砲弾のような速度で敵陣の真っ只中へと突入する。

 慌てて迎撃しようとするゼノヴァス帝国の兵士たちを、私は文字通り重機のような突破力で薙ぎ払いながら、瘴気の発生源を探し求めた。


 平原の各所に設置されていた、黒い煙を吐き出す不気味な魔導装置。

 私はそれらを見つけるや否や、素手で装甲を引き裂き、内部の魔石回路を物理的に粉砕していった。

 三つ、四つと装置を破壊するごとに、戦場を覆っていた黒い瘴気が徐々に晴れていく。


(これで最後の一つね。これをスクラップにすれば、不当な環境攻撃は完全に終了よ!)


 私は敵陣の最深部、ひときわ巨大な瘴気発生装置が設置された盆地へと足を踏み入れた。

 しかし、私がその装置を破壊するために拳を振り上げようとした瞬間――。


「遅かったな、化け物令嬢」


 装置の背後から、氷のように冷酷な声が響き渡った。


 現れたのは、ゼノヴァス帝国軍の最高司令官――グリード・カネスキーだった。

 彼は部下を犠牲にして時間稼ぎをさせていた間に、この最深部で私を待ち構えていたのだ。


「グリード・カネスキー! 自ら出向いてくるとは好都合ですわ。貴方のその歪んだ経営体制ごと、私がここで物理的に解体してさしあげます!」


 私が踏み込もうとした瞬間、グリードは不敵で邪悪な笑みを浮かべた。


「あの厄介な瘴気も、たかが兵士の命も、すべては単なる囮に過ぎん。絶対防御を持つ男を要塞の維持に釘付けにし、貴様という最大の脅威を単身でおびき出す。これこそが、我が帝国の誇る完璧な分断工作なのだよ」


 彼が指を鳴らした瞬間、私の足元の大地が幾何学的な光を放ち始めた。


(なっ……! 魔法陣!? いつの間にこんなものを仕掛けて……!)


 回避する暇などなかった。

 光の陣が完全に起動した直後、私の全身に、これまでの人生で経験したことのない異常な重力がのしかかった。


 それは単なる物理的な重さではない。

 魂そのものを大地に縫い止めるかのような、古代の遺物による超重力拘束陣。


 ブラック企業において、達成不可能な絶対的ノルマを課せられた労働者が、その見えない重圧によって心身を押し潰されるのと同じように――私の上に、何十倍、何百倍という自分自身の体重がのしかかってくる。


「くっ……あああっ!」


 規格外の筋力を誇る私でさえ、その理不尽な重圧に耐えきれず、激しい音を立てて硬い岩盤の上に片膝を突いてしまった。

 立ち上がろうと全身の筋肉に力を込めるが、力を入れれば入れるほど、拘束陣はその力に比例して重力を増していくという悪魔のような仕様だった。

 足元の岩盤が私の重みで放射状にひび割れ、砕けていく。


「見事な怪力だが、この古代遺跡から発掘された絶対重圧の陣の中では、抗う力そのものが己を縛る鎖となる。最強の矛も、振るうことができなければただの粗大ゴミに過ぎんな」


 身動きの取れなくなった私を見下ろし、グリードは悠然と歩み寄ってきた。

 彼の手には、鈍い光を放つ巨大な処刑用の大剣が握られている。


(しまっ……た。アドリー様と分断された今の私には、この理不尽な重圧を無効化する手段がない……!)


 私は歯を食いしばり、床に手をついたまま彼を睨みつけた。

 グリードは冷酷な眼差しで私を見下ろし、大剣を高く振り上げた。


「これにて、ルサージュ領の現場監督は不当解雇強制排除となる。あの要塞に引きこもっている男も、貴様の首を見れば絶望に打ちひしがれることだろう」


 刃が風を切る不吉な音が響く。

 圧倒的な重力に縛られ、回避することはおろか、指先一つ動かすことすらできない絶体絶命のピンチ。


 振り下ろされる無慈悲な刃の軌道を前に――私はただ、愛する夫の顔を脳裏に思い浮かべることしかできなかった。

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