32 わずか三日で完遂させてみせますわ!
小鳥の囀りと共に、春の柔らかな朝陽が公爵邸の寝室に差し込んでいた。
私は上質な絹のシーツの中でゆっくりと目を覚まし、自分の身体がひどく温かく、強靭な腕の中にすっぽりと収まっていることに気がついた。
視線を上げると、私を抱きしめたまま穏やかな寝息を立てているアドリー様――前世における私の直属の上司であり、今世における最愛の夫の美しい寝顔があった。
昨夜、互いの前世の正体を完全に確認し合った私たちは、それまで二人の間に横たわっていた目に見えない壁を完全に取り払った。
アドリー様がいかなる物理的衝撃も無効化する絶対的な盾の能力を持っていると知った私は、この異世界に転生してからの十八年間、常に自分に課し続けてきた極限の筋肉出力制限を、生まれて初めて完全に解除したのだ。
愛する人の背骨を粉砕してしまうかもしれないという恐怖から解放された私は、自身の内に秘めた圧倒的な情熱と体力を一切手加減することなく、アドリー様へとぶつけた。
彼もまた、私のその出力百パーセントの愛と重量を顔色一つ変えずに、ただ果てしなく深く甘い熱情をもって受け止め、応え続けてくれたのである。
(結果として、跡継ぎを作るというルサージュ公爵家最大の事業承継は、これ以上ないほどに完璧な形で前進したと言えるわね。でも……)
昨夜の、自分でも信じられないほど大胆で、激しかった己の振る舞いを脳内で再生した瞬間、私の顔面から火が出るほどの強烈な羞恥心が爆発した。
(まさか、前世の職場であれほどお世話になっていた上司が、私のフルパワーの愛を受け止めてくれる世界で唯一の器だったなんて……! これ以上の相性の良さはこの世に存在しないわ!)
私が顔を真っ赤にしてシーツを頭から被ろうとした時、頭上から低く艶やかな声が降ってきた。
「おはようございます、こはる……いえ、僕の愛しいラニ様。よく眠れましたか?」
アドリー様がサファイアの瞳を細め、私の頬を包み込むようにして優しく撫でた。
彼のその落ち着き払った態度に、私はさらに恥ずかしくなり、身を縮こまらせて頷いた。
「おはようございます、アドリー様。あの、昨夜は私、その……少し、出力の調整を放棄しすぎてしまったと言いますか……お怪我は、本当にありませんか?」
私が恐る恐る尋ねると、アドリー様は少しだけ目を丸くした後、肩を震わせて静かに笑い出した。
「まさか、力加減をずっと調整していたとは……僕の能力について、もう少し早く話していればよかったですね」
彼は私の額に甘い口づけを落とし、愛おしそうに私を抱き寄せた。
その温もりに包まれながら、私はふと、彼がこの領地を守れずに苦しんでいたという過去の独白を思い出していた。
アドリー様は絶対的な盾という最強の防御力を持ちながら、なぜ領民を魔物から守れず、絶望に打ちひしがれていたのか。
私がその疑問を口にすると、アドリー様は少しだけ寂しげに微笑み、私の手を取った。
「僕の能力は、あくまで僕自身へのダメージを無効化するだけのものなのです……つまり、攻撃力が完全に零なのです。ドラゴンが領地を襲いに来た時、僕はその炎の前に立ち、盾となって耐え続けることはできました。けれど、僕にはそのドラゴンを物理的に排除する手段が、何一つなかった……僕が前に立っている間だけは被害を食い止められますが、僕が別の村を助けに行けば、元の場所は焼かれてしまう。終わりのないジリ貧の防衛戦。僕がどれだけ耐えても、事態を根本から解決することはできなかった。それが、僕にとっての無力感の正体だったのです」
それは、前世の如月課長が直面していた葛藤と同じだった。
上層部の理不尽な怒りを自分が代わりに受けることはできても、ブラック企業という構造そのものを破壊することはできず、結果として私という部下を失ってしまった。
そのトラウマが、今世でも受け止めるだけでは救えないという呪縛となって彼を苦しめていたのだ。
「だから……あの日、僕が何年も耐えることしかできなかった凶悪なドラゴンを、貴女がたった一撃で粉砕してくれた時。僕の目の前で起きたのは、奇跡という名の事業再生でした。僕に決定的に欠けていた根本的な問題解決能力を持つ貴女を見た瞬間、僕は一瞬で、心すべてを奪われてしまったのですよ」
アドリー様の告白に、私の胸が熱くなる。
私が持っていた壊すことしかできない力は、彼が誰よりも欲していた守るための矛であり、彼が持つ絶対に傷つかない体は、私が誰よりも欲していた全力で触れられる安全な場所だったのだ。
――二人の出会いは、偶然ではなく、互いの欠落を埋め合わせるための必然的なマッチング。
私たちはしばらくの間、朝の光の中でその運命的な相性の良さを確かめ合うように、静かに寄り添い合っていた。
しかし、私たちが背負っているのは、ルサージュ領という巨大な組織の未来である。
平和な時間は執務室から届けられた緊急報告書によって、速やかにビジネスモードへと切り替わることになった。
◇
「ゼノヴァス帝国のグリード・カネスキー司令官が、国境の荒野に巨大な軍事拠点の建設を開始した、と?」
朝食を終えて執務室に入ったアドリー様は、報告書に素早く目を通し、鋭い顔つきへと変化していた。
昨日の戦闘で旗艦を破壊され敗走したグリードであったが、彼はただ逃げ帰ったわけではなかった。
敗北による損失を先行投資と割り切り、本国から大規模な部隊と資材を呼び寄せているというのだ。
彼らの狙いは、国境線上に難攻不落のブラック要塞を築き上げ、我が領地の物流網を圧迫し、長期的な経済封鎖と飽和攻撃を仕掛けることにある。
「アドリー様。不当な営業妨害の拠点を築かせるわけにはいきませんわ。こちらも対抗策を講じるべきです。敵が要塞を作るというのなら、こちらはそれを上回る圧倒的な品質と短納期で、防衛の拠点を完成させるべきですわ!」
私は地図上の国境線を指し示し、力強く宣言した。
「ただちにルサージュ・ホワイト・フォートレス建設プロジェクトを立ち上げましょう。通常の工期であれば最低でも一年はかかる規模ですが、私の筋肉という最強の重機と、アドリー様の安全保証の能力を組み合わせれば、わずか三日で完遂させてみせますわ!」
◇
その日の午後、私たちは国境の最前線へと到着した。
お父様がラスデス王国から手配してくれた最新の建築資材が山のように運び込まれているが、要塞の骨格となる巨大な石材は現場の岩山から調達する必要があった。
「さて、キックオフからフルスロットルで参りますわよ!」
私は準備運動を済ませると、国境の谷間を形成している巨大な岩山へと単身で近づいた。
岩肌に両手を当て、深くまで指を滑り込ませる。
そして、呼吸を整え、全身の筋肉の出力を一気に解放した。
大地の底から轟くような振動が伝わり、岩と岩が激しく擦れ合う重低音が空気を震わせた。
私は数十トンにも及ぶ巨大な岩盤の塊を、まるでケーキを切り分けるかのように次々と山から引き剥がしていった。
切り出した巨大な岩塊を両手で持ち上げ、谷間の防衛ラインへと運ぶ。
私は圧倒的な演算能力を持つ現場監督として、岩の形状を瞬時に見極め、パズルを組み上げるようにして巨大な城壁の基礎を構築していく。
「お父様から供給された最高の資材と、私の圧倒的な施工速度! そして何より……」
私が組み上げた巨大な石垣に、アドリー様が静かに手を触れる。
その瞬間、彼の身体から放たれた淡い青色の魔力が波紋のように石材へと広がり、岩肌を強固な魔力の被膜でコーティングしていった。
「これで、この城壁は僕の肉体と同じ絶対防御の性質を持ちました。いかなる極大魔法も、この壁に触れた瞬間に衝撃を無効化されます」
アドリー様が涼しい顔で宣言する。
私の超質量による物理的な建築と、アドリー様による究極の安全基準の付与。
二人による完全な分業と圧倒的な相乗効果により、通常であれば何百人もの職人が数ヶ月かけて行う作業が、わずか数時間のうちに次々と完了していく。
同行した建築技師たちは口を半開きにしたまま、私たちの常軌を逸した施工速度をただ呆然と見守るしかなかった。
◇
そして、宣言通り三日後の朝。
国境の谷間には、朝日を浴びて白く輝く、巨大にして難攻不落のルサージュ・ホワイト・フォートレスが完全にその威容を現していた。
巨大な岩盤を隙間なく積み上げ、アドリー様の魔力でコーティングされた城壁は、いかなる軍勢の侵攻も許さない絶対の拒絶を示している。
要塞の内部には兵士たちの快適な居住区間と、兵糧を大量に備蓄できる保管庫が完備されていた。
一方、はるか東の荒野に陣取っていたゼノヴァス帝国軍の仮設本部では、斥候からの報告を受けたグリード・カネスキーが、信じられないものを見るように目を血走らせ、怒号を上げていた。
「馬鹿な……あり得ない! たった三日で、谷を塞ぐほどの巨大な要塞が完成しただと!? どのような魔法を使えばそんな工期が実現できるというのだ! 不正だ、これは何かのインチキに違いない!」
兵士の命を使い潰すことしか知らないブラック帝国の司令官には、従業員の安全を第一に考えるホワイト企業のトップと現場監督が生み出す、奇跡のような生産性の高さを理解することなど永遠に不可能である。
完成したばかりの真っ白な要塞の屋上。
春の風が吹き抜ける中、私とアドリー様は並んで立ち、遥か彼方に見える敵の陣地を見下ろしていた。
「完璧な仕上がりです、ラニ様。これでもう、彼らが我が領地の利益を不当に奪うことは絶対にできません」
アドリー様が私の手を取り、その指先にそっと唇を落とす。
私は彼の手を強く握り返し、不敵な笑みを浮かべた。
「ええ。防衛の拠点は完成しました。あとは、あの悪質なブラック帝国が完全に倒産し、この国境から撤退するまで、徹底的にコンプライアンスの遵守を指導して差し上げますわ!」
出力百パーセントの愛と信頼で結ばれた最強の公爵夫妻による、理不尽なブラック国家の完全なる解体プロジェクト。
その最終決算に向けたカウントダウンが、今、確かな手応えと共に静かに始まろうとしていた。




