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31 その能力の理由が、もし私の推測通りなのだとしたら

 ゼノヴァス帝国の不当な敵対的買収工作を物理的に粉砕し、一時的な停戦を迎えた日の夜。

 ルサージュ公爵邸は、戦勝の興奮が冷めやらぬ領民たちの祝杯の声を遠くに聞きながら、深い静寂に包まれていた。


 私は自室の広いバルコニーで、春の夜風に吹かれながら空に浮かぶ月を見上げていた。

 昼間の戦闘で筋肉の出力制限を百パーセント解放した際の、心地よい疲労感と熱量が、まだ身体の芯に僅かに残っている。


 しかし、私の思考を占めていたのは勝利の余韻ではなく、あの戦場で私の全力の踏み込みによる絶大な反動と、敵の極大魔法の直撃を完璧に無効化してくれたアドリー様の存在だった。


(どんな攻撃を受けても、私がどれほど規格外の力をぶつけても、決して傷つかない絶対的な盾……その能力の理由が、もし私の推測通りなのだとしたら)


 背後で、バルコニーに続くガラス扉が静かに開かれた。


 振り返らなくてもわかる。

 その規則正しく、落ち着いた歩調。


 前世のオフィスの冷たい廊下で、私が終わりの見えない業務に限界まで追い詰められていた時、いつも温かい缶コーヒーを持って救いの手を差し伸べてくれた――あの足音だ。


「……夜風が冷えますよ。また無理をして、風邪をひいてしまっては大変です」


 アドリー様が、私の肩に上質なカシミヤのショールをそっと掛けた。

 私はその温もりに身を委ねながら、これまで胸の奥に閉じ込めていた――しかし、今や確信へと変わった名前を、震える唇で紡ぎ出した。


「……如月、課長」


 その肩書きと名前を口にした瞬間、背後に立つアドリー様の身体が僅かに強張ったのがわかった。

 魔法と剣が存在するこの異世界には、到底似つかわしくない現代の響き。


 長い、長い沈黙が流れる。

 やがて、彼は私の隣に並び、私と同じように遠い月を見つめながら、懐かしさと、ひどく深い痛みを孕んだ声で答えた。


「……久しぶりだね、赤坂さん」


 その名前を呼ばれた瞬間、私の視界が急激に熱く滲んだ。


 ――赤坂あかさかこはる。

 それが、過酷な建設・不動産業の現場で、泥にまみれて働き、ついには命を落とした私の本当の名前。


 そして――如月きさらぎれん

 理不尽な上層部の圧力から私を庇い続け、唯一の心の拠り所であった、私の敬愛する上司の名前。


「如月課長……どうして。どうして、貴方までこの世界にいるのですか? 私は、あの職場で……過労で倒れて。だけど、貴方はあそこで、私がいなくなった後も生き続けていたはずなのに」


 私はそこまで言って、言葉を詰まらせた。

 私が過労死した後も、彼は生きていたはずなのだ。

 それなのに、なぜ彼もこの異世界に転生しているのか。


 アドリー様――如月課長は、悲しげにサファイアの瞳を伏せ、その理由を静かに語り始めた。


「君がいなくなった後の世界は、僕にとって、何の意味も持たない白紙の報告書のようなものだった……守りたかったんだ。あんなブラックな環境で、文句一つ言わずに誰よりも頑張っていた君という一番大切な現場の光を、僕は上司として、どうしても救い出したかった。それなのに、僕の力が及ばなかったせいで、君を失ってしまった……君のいないオフィスに、君のいない世界に、僕が留まる理由は一つもなかったんだよ」


 課長は私が亡くなった後、その後悔と絶望から逃れられず、自ら命を絶って私の後を追ったのだと告白した。


 そのあまりにも重く、悲痛な決断の理由に、私は息を呑むことしかできなかった。

 彼はどこか穏やかな――けれど、切実な表情で言葉を続ける。


「死の狭間で、僕は女神様に問われた……次に生まれ変わるなら、どんな力が欲しいかと。僕は迷わず答えた。もう二度と、守りたかった人を理不尽な衝撃や痛みで失いたくない。すべての責任を、すべてのダメージを僕一人が引き受けて、大切な人が笑っていられる安全な環境を絶対に保証できる守護の力が欲しい、とね」


 それが、アドリー様が持つ絶対的な盾の能力の正体だった。


 前世で、部下であった私を守り切れなかったという彼の一途な贖罪の念。

 それが、この異世界において、いかなる極大魔法も無効化し、私の全力の拳すらも傷跡一つ残さずに受け止める、最強の防御力となって結実したのだ。


「……私は」


 私は溢れ出す涙を拭うこともできず、掠れた声で言った。


「私は自分の手で、どんな理不尽な壁も、不当な圧力もぶち壊して、自分の居場所を整えられる力が欲しかった……だから、こんな化け物みたいな怪力を女神様から授かったのだと思います」


「化け物なんて言わないで。その力のおかげで、君は今、こうして誰にも奪われない自分の居場所を立派に作り上げているじゃないか」


 課長は私の頬を優しく撫で、その大きな手で私の涙を掬い上げた。


「赤坂さん……あんなにボロボロになるまで働いて、誰にも報われなかった君に、僕はせめて最後くらい、きちんと言葉を掛けてあげたかった。それだけを伝えるために、僕はあの日、君を追ったのかもしれない」


 夜風が止み、世界からすべての音が消えたかのような錯覚に陥った。

 アドリー様は、私の両肩を正面からしっかりと包み込み、前世からずっと――私が誰よりも欲しかった言葉を口にした。


「……お疲れ様。あんな過酷な環境で、一人で限界まで戦って、本当によく頑張ったね」


 その言葉が耳に届いた瞬間、私の心の最も深い場所に残っていた、前世の孤独な深夜残業の記憶が完全に浄化されていくのを感じた。


 報われなかった人生。

 誰にも見てもらえなかった努力。

 理不尽に搾取され続けた日々。


 ――けれど、この人だけは、私のすべてを見ていてくれた。

 そして、私のために命すら捨てて、この世界まで追いかけてきてくれた。


「……か、課長っ、アドリー様……っ! うああああんっ!」


 私は完全に大人の分別を失い、子供のように大声を上げて泣き出し、彼の胸に飛び込んだ。

 今までは、もし私が彼を強く抱きしめてしまったら、その瞬間に彼の骨格を粉砕してしまうのではないかという恐怖が、常に私に極限の筋肉出力制限を強いていた。

 自分の怪力で愛する人を壊してしまうのが怖くて、私はずっと、彼と触れ合うたびに心のどこかでブレーキをかけていたのだ。


 ――けれど、今は違う。

 目の前にいるこの人は、私がどんなに力を込めても、どんなに激しい感情をぶつけても、決して壊れることのない、世界で唯一の、そして最強のセーフティネットなのだ。


「……もう、遠慮なんてしません。私は、貴方を絶対に、絶対に手放さないんだから……!」


 私は筋肉の出力を一切制限することなく、百パーセントの力で彼を強く、強く抱きしめ返した。

 普通の人間であれば即座に圧死し、頑強な城壁ですら容易く崩落するほどの凄まじい物理的圧力がアドリー様の肉体に叩きつけられる。


 しかし、アドリー様は苦悶の表情を浮かべるどころか、私のその破壊的な抱擁を世界で一番愛おしい温もりであるかのように受け止め、私の身体を優しく、力強く包み込み返してくれた。


「ああ、いいよ。どれだけでも、強く抱きしめて……君のその痛いほどの重みこそが、僕がこの世界で生きる理由であり、守りたかった全てなんだから」


 月明かりの下、ようやく完全に重なり合った二人の魂。

 前世という過酷な労働環境を経て、私たちは死という最悪の離職を選ばざるを得なかった。


 けれど、巡り巡ったこの異世界という新たな職場で、私たちは公爵夫妻という、いかなる理不尽な暴力にも決して破棄されることのない、最高の終身雇用契約を結んだのだ。


 私の前世の名前と、彼に対する上司としての敬称。

 それはもう、二度と口にすることのない過去の遺物となるだろう。

 これからは、ラニとアドリーという、対等で最強のパートナーとして生きていくのだから。


 私は彼の広く温かい胸の中で、これまでのすべての悲しみと安堵を吐き出すように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。

 二度と壊れることのない最強の盾に守られながら、私の長く、辛かった前世の果てしない残業時間が、今、本当の意味で終わりを迎えたのだった。

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