27 背徳感と気まずさで頭がおかしくなりそう!
私が開発した異世界初の蒸し饅頭による嗜好品を用いた本人確認から数日が経過した。
アドリー様が口からこぼした「脳に糖分が染み渡る」というあの言葉と、無意識の手の動き。
彼が前世のブラック企業で私を庇い続けてくれたあの優しい上司であるという仮説は、私の中ですでに九十九パーセントの確信に達していた。
しかし、私から「前世の部下です」と名乗り出ることは避けていた。
私たちは今、ルサージュ公爵領を治める夫婦であり、最高のビジネスパートナーである。
現在のこの幸福な関係性に、前世の上司と部下という上下関係のノイズを混入させることは、コンプライアンス的にも組織運営的にも避けるべきだと判断したからだ。
そんなある日の午後。
執務室で作業を進めていたアドリー様が、膨大な書類の束を抱えて私の隣へとやってきた。
「ラニ様。少し、貴女の力を貸していただけませんか。冬季の各村への支援物資および、ヤトゥルクメタル製暖房器具の最適配分モデルの構築を行っているのですが、どうにも数字の辻褄が合わない箇所がありまして」
アドリー様が申し訳なさそうに提示してきたのは、領地全体の物流を管理する極めて複雑な予算と在庫のデータ群だった。
(なるほど。この非効率な数字の羅列を前にして、私が黙っていられるはずがないわ。ただちに情報の最適化に着手しましょう)
私は一つ頷き、書類の束を引き寄せた。
前世で培った事務処理能力と、現在の公爵夫人としての領地把握能力をフル稼働させ、私は完全に過集中モード――いわゆる社畜のゾーンへと突入した。
視線を書類から一切外すことなく、右手の羽ペンで凄まじい速度で数値を修正していく。
その際、私は無意識のうちに机の空きスペースに置いた左手の指先を、特定の法則に従って動かしていた。
前世の事務作業で必須だったコピーやペーストを行うための、キーボードのショートカットキーを叩くエア・タイピングの癖である。
もちろん異世界の机の上にキーボードなど存在しないが、極限まで集中した私の脳と肉体は、前世の労働環境の記憶をそのまま物理的な動作として再現してしまっていたのだ。
私が書類の山を九割方片付け、最後の集計作業に入ろうとした時のことである。
私の右斜め前、書類も筆記具も置いていない絶妙な空きスペースに、陶器のカップが音もなく置かれた。
立ち昇る湯気からは、深煎りのブラックコーヒーの強い香りが漂ってくる。
「無理をするなよ。たまには有休、取れよな」
頭の上から降ってきたその声は、甘く優しいルサージュ公爵のものではなく、深夜のオフィスで疲れ切った部下を気遣う、あの不器用な上司のトーンそのものだった。
極限の集中状態にあった私の脳は現在の状況を完全に忘却し、染み付いた条件反射によるオートリプライを口走ってしまった。
「社長の無茶振りが終わるまで無理です。この案件が終わったら泥のように寝ますから……」
言い終えた瞬間、私の全身の血液が急速に凍りついた。
思考が停止し、羽ペンを握ったままの姿勢で完全に硬直する。
(やってしまった……! 今の声のかけ方、そして絶妙な位置へのコーヒーの差し入れ。これはアドリー様が仕掛けた、私に対する逆本人確認クロスチェックだったのだわ!)
私が恐る恐る視線を上げると、アドリー様はサファイアの瞳をこれ以上ないほど優しく細め、愛おしそうに私を見つめ下ろしていた。
「社長、ですか。随分と過酷な夢を見ながら作業をされていたのですね……ですが、僕の領地では理不尽な過労は一切禁物ですよ。貴女の頑張りは、僕が誰よりもよく知っていますから」
アドリー様は私の失言を追及することなく、優しく私の白銀の髪を撫でた。
その温かな手のひらの感触と、言葉の裏に隠された強烈なメッセージ。
(間違いない。今の絶妙なフォローと、過去を肯定するような言い回し。アドリー様も、私の正体が前世の部下であることに完全に気がついている。その上で、あえて言葉には出さず、現在の夫婦としての関係を壊さないように配慮してくれているのだわ……!)
互いに正体を百パーセント確信しながらも、あえてそれを明言しないという沈黙の秘密保持契約が結ばれた瞬間だった。
私は泣き出しそうになるのを必死に堪え、彼が淹れてくれた温かいブラックコーヒーを両手で包み込んだ。
前世の紙コップとは違う、高級な陶器のカップ。
しかしその味は、かつて私を慰めてくれたあの不器用で優しい味と全く同じだった。
互いの魂の繋がりを再確認し、より一層の深い絆で結ばれた私たち。
しかし、その感動的な沈黙の合意は――夜を迎えた寝室において私に未曾有の精神的危機をもたらすことになった。
私は上質な絹の寝衣に着替え、広大なベッドの端に座り込み、頭を抱えていた。
現在、ルサージュ公爵家では極めて重要かつデリケートな事業承継プロジェクト――すなわち、次期当主を授かるための跡継ぎ作りが進行中である。
毎夜のように甘く情熱的な営みを重ねてきたにもかかわらず、一向に妊娠の兆候が見られないことに対し、私は妻として、そしてプロジェクトの責任者として密かな焦りと深い落ち込みを感じていた。
アドリー様はその度に「成果を急ぐ必要はありません。僕たちの時間はたっぷりあるのですから」と優しく慰めてくれていたのだが……。
(落ち込んでいる場合ではないわ。よく考えなさい、ラニ。互いの前世の正体を確信したということは……つまり私は、前世の直属の上司と、毎晩あんなことやこんなことをして、跡継ぎを作ろうとしていたということじゃないの!)
事実を正確に認識した瞬間、私の顔面から火が出るほどの凄まじい羞恥心が爆発した。
(待って、無理よ。いくら今は愛する旦那様とはいえ、中身があの上司だと意識してしまったら、職場恋愛どころの話ではないわ。重大なコンプライアンス違反を犯しているような、背徳感と気まずさで頭がおかしくなりそう!)
私が一人でベッドの上で悶絶していると、浴室から戻ってきたアドリー様が寝室の扉を開けた。
少し濡れた濃藍の髪と、少しだけ開いた胸元。
普段であれば見惚れてしまうその姿も、今の私には元上司の過剰なプライベート姿という恐ろしい情報処理エラーを引き起こす要因でしかない。
アドリー様もまた、私と視線が合った瞬間に僅かに歩みを止め、どこかぎこちない空気を漂わせていた。
彼の方も、愛する妻がかつて自分を慕って無理ばかりしていた、庇護すべき部下であると明確に意識してしまったことで、夫としての情熱と上司としての理性が激しく衝突しているに違いない。
二人の間に、中学生の初恋のような、あるいは入社初日の新入社員と役員が密室に取り残されたような、尋常ではない緊張感が走る。
しかし、領地の未来という株主の期待に応えるためにも、この事業承継の取り組みを放棄するわけにはいかないのだ。
アドリー様は意を決したように静かに息を吐き、ベッドへと近づいてきた。
そして、逃げ場を失って震える私の肩を優しく抱き寄せ、そのままゆっくりとシーツの上へと押し倒した。
「……君がかつてどのような存在であったとしても、僕が君を愛する妻だと想う気持ちは、何一つ変わりません。だから、その……これからも、僕に君を愛させてくれませんか」
アドリー様のサファイアの瞳が、至近距離で私を見つめ下ろす。
その声には、夫としての熱烈な愛情と、元上司としての深い包容力が完全にミックスされており、私の理性を根底から焼き尽くそうとしていた。
(上司の顔と声で、そんな甘すぎる愛の告白をしないで! 恥ずかしさと混乱で心拍数が限界を突破してしまうわ! いけない、ここで筋肉の出力制限が外れれば、私は元上司であり最愛の夫である彼の背骨を物理的に粉砕してしまう!)
私は全身の筋肉に意識を集中させ、出力制限を零コンマ零零一パーセントの極限状態に保つための最高難易度のミッションを開始した。
前世の正体を互いに知ってしまったことで、慰め合いの夜は一転して、糖度と物理的危険度が最高潮に達する未知の領域へと突入していく。
静かな冬の夜、互いの記憶と愛情が複雑に絡み合うベッドの上で、私の限界を超えた筋肉コントロールの戦いは朝が来るまで果てしなく続くのだった。




