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26 これは未開拓の市場――いわば、ブルーオーシャンですわ

 数日前に目撃した、あの決定的な終業のルーティン。


 無意識に手首を捻って存在しない腕時計を確認し、首の凝りをほぐしながら、羽ペンで机を三回叩く。

 あの一連の動作が、前世のブラック企業で私を唯一人間として扱ってくれたあの上司のものと、寸分違わず一致していたという事実は私の脳内にある安全管理システムに最大級の警告を発し続けていた。


(偶然の一致として処理するには、あまりにも再現度が高すぎる。現場監督として、この未解決事案を放置しておくわけにはいかないわ。これはもう、徹底的な裏付け調査……すなわち、嗜好品による本人確認が必要ね)


 私は朝の身支度を整えながら、前世の記憶のアーカイブを高速で検索していた。

 あの上司が、日付が変わる直前の最も過酷な時間帯に、疲れ切った顔を綻ばせて大切そうに食べていたもの。

 それは、深夜のコンビニエンスストアで彼が好んで買っていた、一個百円程度の何の変哲もないこしあんの蒸し饅頭だった。


「よし、本日のミッションは異世界におけるお饅頭の再現と、それを用いた特定ターゲットへの実証実験に決定ね!」


 私は気合を入れ直し、公爵邸の広大な厨房へと足を運んだ。


 ◇


 厨房では、ルサージュ公爵家の食卓を支えるベテランの料理長が、朝の仕込みの真っ最中だった。

 私が突然「蒸し料理の甘味を作りたい」と相談を持ちかけると、彼は手にした包丁を止め、不思議そうに首を傾げた。


「蒸す、ですか? 奥方様。このあたりでは、小麦粉を使った料理といえば、オーブンで焼き上げるパンか、あるいはスープの具材として煮込むのが一般的ですが……」


「ええ。ですが、蒸気という熱媒体を直接食材に当てることで、パンとは全く異なる柔軟で弾力のある食感を生み出すことができるのです。これは未開拓の市場――いわば、ブルーオーシャンですわ。料理長、私と一緒に、領地の特産品を用いた新たな看板商品を開発しませんか?」


 私の新たな看板商品という言葉に、職人気質の料理長の瞳に熱い火が灯った。


 私はまず、お饅頭の心臓部とも言える餡の代用品を探した。

 幸いなことに、ルサージュ領の山岳地帯では、先の水道橋プロジェクトによって安定した水分供給が可能になったことで、非常に甘みの強い良質な豆類が豊富に収穫されている。

 これを丁寧に煮詰め、皮を除いて滑らかに濾し、砂糖を加えてさらに水分を飛ばしていく。

 完成したのは、前世の記憶にあるものよりも遥かに香りが高く、上品な甘みを持つ特製のこしあんだった。


 続いては、皮の開発である。

 領地で採れた最高級の小麦粉に、少量の発酵種を加え、蒸した際の膨らみと口当たりを緻密に計算していく。

 厨房の一角に、私が急造させた木製の蒸し器を用意した。

 熱せられた水分が白い蒸気となって立ち昇る中、私は丸めた生地を慎重に並べていった。


(蒸し時間は、火加減と外気温を考慮して、正確に計らなければならないわ。これは現場の工程管理と同じ。一秒の妥協も許されない)


 数十分後、蒸し器の蓋を開けると、そこには白く輝く、掌サイズの愛らしい物体が並んでいた。

 指先で触れれば吸い付くような弾力があり、それでいて温かく柔らかな質感。

 パンのように表面が硬化することなく、内部に水分を完璧に閉じ込めた、異世界初の蒸し饅頭の完成である。


「奥方様、これは……! 口の中に入れた瞬間、生地が溶けるように馴染み、中の餡の甘さが暴力的なまでの幸福感をもたらします。なんという革新的な製法でしょうか。これなら、歯の弱いご老人から小さなお子様まで、幅広く支持されるに違いありません!」


 試食した料理長が感極まった声を上げた。

 私はその言葉を聞き、確かな手応えを感じていた。


(よし、製品のクオリティは基準値を大きくクリアしたわ。次は、これを用いた実証実験ね)


 私はさらに、このルサージュ蒸し饅頭を今後の領地の名産品としてブランド化するためのロードマップを頭の中で描き始めた。

 カフェ・ヴァレンタインのような超人気店とまではいかなくとも、この独自の食感と保存性の高さは、街道を行き交う旅人の携帯食や領民の日常的な娯楽として、莫大な経常利益を生み出すはずだ。


 ◇


 夜。


 雪が深々と降り積もる静寂の中で、私は蒸したての温かいお饅頭を二つ、丁寧に籠に詰めてアドリー様の執務室へと向かった。

 扉を開けると、そこには連日の残業で疲労の色を隠せないアドリー様が、膨大な物資配分計画書と格闘していた。


「アドリー様、夜分に失礼いたします。領地の特産品を用いた新たな製品の開発を行いましたの。ぜひ、ご意見をいただけないでしょうか」


 私は温かいお茶と共に、二つに並んだ白いお饅頭を彼の前に差し出した。

 アドリー様は一瞬だけ、見たこともない形状の食べ物に不思議そうな表情を見せた。

 しかし、私の開発報告という言葉に即座に応じ、彼はペンを置いた。


(さあ、本人確認開始よ。もし彼があの上司なら、この独特な甘味を前にして、身体に染み付いた特定の動作を再現するはずだわ)


 私は心拍数が跳ね上がるのを必死に抑え、彼の挙動を一点に集中して監視した。


 アドリー様はまず、お饅頭を右手でそっと持ち上げた。

 そして、食べる前にそれを無意識のうちに二つに割り、中の餡が隅々まで詰まっているかを確認するように「よし」と小さく頷いた。


 そして、一口。

 ――その瞬間だった。


 彼は噛み締めるのを一度止め、瞳を閉じると、右手の指先で自身の右のこめかみを軽く押さえた。

 そして、深い安堵の溜息を漏らしながら、独り言のようにこう呟いたのだ。


「……ああ、脳に糖分が染み渡る」


 それは、前世の深夜二時。

 進捗の遅れに頭を抱え極限状態に陥っていたあの上司が、コンビニのお饅頭を口にした際に必ず漏らしていた魂の叫びと全く同じフレーズだった。

 さらに彼は食べ終えた後、自身の指先に付いた微かな粉を、特定の順番で、特定の指使いで、パッパッと無意識に払い落とした。


(……本人確認完了。九十九パーセント、黒、いえ、白だわ。この人は、私のあの上司だわ。間違いなく、私の前世を知っている『彼』だわ!)


 私は衝撃のあまり、持っていた盆を落としそうになった。

 偶然の一致などではない。

 あの一連の所作は、長年の過酷な労働環境の中で彼自身が精神を保つために無意識に構築した独自の防御プログラムなのだから。


「ラニ様、これは素晴らしい。初めて口にする食感ですが、どこか非常に懐かしいような、不思議な安心感がする味です……心が、救われるような気がします」


 アドリー様は、いつものように穏やかな微笑みを浮かべた。

 しかし、その瞳の奥には、前世のあのくたびれた――けれど、誰よりも優しかった男性の残像が確かに揺らめいていた。


「……お口に合って、良かったですわ。アドリー様、このお饅頭、領地の新たな名産品として正式に事業化したいと考えております。まずは、街道の休憩所や、領内の市場でテスト販売を開始し、そこから徐々に販路を拡大していく予定です。生産ラインの構築については、料理長とフィリップに協力を仰ぎ……」


 私は震える声を隠すように、怒涛の勢いで今後のビジネスプランをまくし立てた。


 正体を確信してしまった。

 この人が、私の憧れ――いえ、私が唯一信頼し、その背中を追い続けていた人なのだと。


 だが、今の私たちは、エアルダール王国の公爵夫妻なのだ。

 異世界で、今更「元部下です」などと言い出せるはずがない。


 もし彼が自分も転生者であることに気づいていたとしても、今の立場や、私との夫婦関係を壊したくないために、あえて黙っている可能性だってある。


(今は、このビジネスパートナーとしての関係を、そして今の幸せな夫婦生活を最優先にすべきだわ。でも……ああ、なんてこと。私の今の旦那様が、あの最高の上司だったなんて)


 窓の外では、雪が全ての音を吸い込み、白銀の世界が広がっている。


 アドリー様はもう一つのお饅頭を美味しそうに口に運びながら、私の熱っぽい視線に気づいて、少しだけ不思議そうに首を傾げた。

 二人の間に流れるのは、甘いお饅頭の香りと、言葉にできないほど重く――そして、幸福な秘密。


 私は心臓の激しい鼓動を抑えながら、彼が美味しそうに糖分を摂取する姿を、ただじっと、慈しむように見つめ続けることしかできなかった。

 私たちの魂がかつて結んでいた絆は、この甘い嗜好品を通じて、時を超え、次元を超えて、今この冬の夜に再び確かなものとして溶け合おうとしていた。

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