25 そんな偶然、確率論的に言って天文学的な数字になるはずよ
ルサージュ公爵領に、長く厳しい冬が到来した。
分厚い雲が空を覆い、数日前から降り続いている雪は広大な領地を一面の白銀の世界へと変えつつある。
かつてのルサージュ領であればこの季節は流通が完全に停止し、各村が雪に閉ざされて孤立してしまうという深刻なインフラ不全に陥っていたはずだった。
――しかし、今年の冬は全く状況が異なっていた。
私が春先から陣頭指揮を執って進めてきた主要街道の拡張と舗装工事は、雪が積もった状態でもその真価を発揮している。
さらに、魔物使いのフィリップが調教した新型重機である四ツ目猪が、その圧倒的な馬力と巨大な鋤を活用して、夜明けと共に主要幹線道路の雪を完璧に押し退けていくのだ。
最強の生物的除雪車の誕生である。
(素晴らしいわ。四ツ目猪の稼働による物理的な除雪作業と、舗装された街道の組み合わせによって、厳冬期における物流ネットワークの寸断という最大のリスクが完全に排除されている。これなら、いかなる悪天候下でもサプライチェーンの安定稼働が保証されるわね)
私は執務室の窓から、雪の中でも滞りなく行き交う荷馬車の列を見下ろし、現場監督としての確かな手応えに胸を張っていた。
そして、その安定した物流ラインに乗って、お父様との間で結ばれた戦略的提携による莫大な利益が領地の隅々にまで行き渡り始めていた。
ラスデス王国から関税なしで優先的に輸入されるようになった高品質な耐寒用の羊毛製品や、保存性の高い特産品の数々。
それらと引き換えに、ルサージュ領からは高純度のヤトゥルクメタルを用いた新型の魔法暖房器具が輸出され、同時に領内の民にも安価で提供されている。
お父様という最強の監査役であり窓口を持つことで実現した、国家間の完璧な貿易バランス。
これによって領民たちの生活水準は飛躍的に向上し、氷点下の環境下であっても凍える者など一人も出ない、極めてホワイトな生活環境が構築されていた。
「ラニ様。視察の報告書の確認が終わりましたよ。各村への越冬物資の配分も、貴女が再計算してくれた最適化モデルのおかげで、全く無駄のない完璧な数値に仕上がっています」
背後からかけられた声に振り返ると、重厚な執務机に向かっていたアドリー様がペンを置いて美しい微笑みを向けていた。
夜の帳が完全に下りた執務室内は、壁際に設えられた大きな暖炉で燃える薪の熱と、魔法暖房器具の恩恵によって外の厳しい寒さが嘘のように暖かく保たれている。
年末に向けての繁忙期である現在、領地経営のトップであるアドリー様の業務量はピークに達していた。
それでも彼は一切の疲労を顔に出さず、ただ領民と私のために、膨大な決裁書類と向き合い続けている。
(トップ自らがこれほどまでに献身的に働き、適切な経営判断を下し続けているのだもの。現場監督である私が、彼を全力でサポートしないでどうするの)
「お疲れ様です、アドリー様。少し休憩になさいませんか? 体が温まる甘い飲み物を淹れましたの」
私は窓辺から離れ、執務机の傍らに用意していた銀の盆から湯気を立てる二つの陶器のカップを持ち上げた。
上質なカカオをたっぷりと使い、温めたミルクと合わせた濃厚なホットチョコレートである。
アドリー様の前にカップをそっと置くと、甘く芳醇な香りが執務室内に広がった。
「ありがとうございます。ラニ様の淹れてくれるものは、どんな高級な茶葉よりも僕の心と身体を癒してくれます」
アドリー様はサファイアの瞳を優しく細め、ホットチョコレートを一口味わい、深い安堵の息を吐き出した。
それから再びペンを握り、残りの書類へと視線を落とす。
私は彼の邪魔にならないよう隣の椅子に腰掛け、彼が処理し終えた書類を各部署ごとに分類し、明日の朝一で指示を出せるよう物理的なタスク整理を進めていた。
暖炉の薪が赤々と燃えて爆ぜる音と、羽ペンが羊皮紙の上を滑る規則的な音だけが静かな夜の執務室を満たしていく。
そして、壁に掛けられた大きな振り子時計の針が、夜の深い時刻を指し示した――まさにその時だった。
最後の書類に流麗なサインを書き終えたアドリー様が、ふと、その手を止めた。
彼は何気ない動作で自身の左腕を少し持ち上げ、手首を軽く捻って視線を落とした。
(……腕時計を確認する仕草?)
しかし、彼の上質なシャツの袖口に、そのような装飾品は存在しない。
彼は一瞬だけ己の行動に戸惑うような空白の間を見せた後、自身のチョッキのポケットから美しい装飾の施された懐中時計を取り出した。
そして、時間を確認した後、硬質な金属音を立てて蓋を閉じたのだ。
深く、長い息を一つ吐き出す。
続いて彼は、長時間同じ姿勢を続けていたことで凝り固まった筋肉をほぐすように、首を左右にゆっくりと曲げて関節を伸ばした。
そして、最後の手順とばかりに、右手に持っていた羽ペンの尻で、机の表面を一定のリズムで三回、叩いたのである。
(……えっ)
その一連の動作を目撃した瞬間、私の心臓が警鐘のように激しく跳ね上がった。
全身の血が逆流するような、強烈な既視感。
(今の動作。手首にない腕時計を確認しようとする無意識の癖からの、首のストレッチ。そして、仕事を終える合図のようにペンで机を三回叩くあの独特のリズム……!)
見間違えるはずがない。
それは前世のブラック企業において、終わりの見えない深夜残業の最中、日付が変わる直前にあの上司が毎日必ず見せていた「今日の仕事はここまでだ。全員帰るぞ」という合図のルーティンと、寸分の狂いもなく完全に一致していたのだ。
私が手元の書類を握りしめたまま呆然と固まっていると、アドリー様がゆっくりとこちらへ向き直り、極上に優しく――そして、どこか懐かしさを帯びた微笑みを浮かべた。
「さて、今日の進捗はここまで。残りのタスクは明日の朝一で共有しましょう。お疲れ様、今日もよく頑張ってくれましたね」
それは、ただの労いの言葉ではなかった。
私が前世で、擦り切れるような労働の中で唯一救いを求めていた――あの優しい上司の言葉の選び方と全く同じだった。
アドリー様は立ち上がり私の隣へと歩み寄ると、驚愕に見開かれた私の目を気にする風でもなく、私の銀糸の髪を手のひらでひどく愛おしそうに撫でた。
(ありえないわ……そんな偶然、確率論的に言って天文学的な数字になるはずよ)
私は心の中で、パニックに陥りそうな思考を必死に否定しにかかった。
(前世であれだけお世話になった上司と、全く同じ異世界に転生している? あまつさえ、今世では私と結婚しているだなんて……いくらなんでも非現実的すぎるわ。ご都合主義な夢物語にも程がある!)
前世のトラウマと、今世での圧倒的な幸福。
その二つが直接結びつくという事実を、私の論理的思考が全力で拒絶している。
(そうよ、きっと偶然だわ。過酷な業務をこなす有能な中間管理職や経営者が行き着く、疲労回復と終業確認のための普遍的なルーティンが似通ってしまっただけ。あの言葉遣いだって、部下や妻を労うための一般的なビジネス定型文の一つに過ぎないわ。私が日々の業務に追われるあまり、昔の優しい記憶を今の最高の旦那様に勝手に重ね合わせてしまっているだけなのだわ!)
私は自らの内に湧き上がった都合の良い推測を、徹底的なコンプライアンス監査のごとく厳しく切り捨て、無理やり心の奥底へと封じ込めようとした。
しかし、私の頭を撫でる彼の手のひらの温もり。
そして、一切の理不尽から私を守り抜こうとする――不器用なほどに誠実なあの背中。
どれだけ論理で否定しようとしても、魂の奥底で共鳴する絶対的な安心感だけはどうしても誤魔化すことができなかった。
「ラニ様? どうしました、そんなに顔を赤くして。暖炉の火が強すぎましたか?」
アドリー様が心配そうに顔を覗き込んでくる。
その端正な顔立ちには、前世のくたびれたスーツ姿の男性の面影など一ミリも存在しない。
それでも。
「……いえ。なんでもありませんわ。ただ、アドリー様がこうして私の努力を認めて、労ってくださることが……とても嬉しかっただけですの」
「当然のことです。貴女の頑張りは、誰よりも僕が一番近くで見て、評価していますから」
彼は迷いなくそう断言し、私の額に甘い口づけを落とした。
窓の外では、静かな雪が音もなく降り積もり、ルサージュ領を白銀の世界へと変えていく。
私の心の中には、確信には至らないものの、決して消えることのない一つの強烈な仮説が芽生えていた。
もし、本当に万が一、あの上司が彼なのだとしたら。
私は今、世界で一番幸せな元部下であり、世界で一番愛されている妻なのだろうと。
氷点下の冬の夜、二人の間に横たわる前世の記憶のヴェールがかつてないほど薄く――そして、甘く透け始めているのだった。




