21 我がルサージュ領の現場では、労働災害ゼロを徹底しておりますの!
大型水道橋がもたらした豊穣の夏野菜の視察を終え、私とアドリー様は農地からさらに奥へと進み、深い森と隣接する新たな開拓予定地へと足を運んでいた。
この一帯は、来年の作付けに向けて木々を伐採し、土壌を整えている最中の現場である。
数名の農民や領地から派遣された作業員たちが、額に大粒の汗を浮かべながら切り株の引き抜き作業や土の運搬に精を出していた。
(うん、荷車の配置も適切だし、作業員の方々の休憩サイクルもきちんと管理されているわね。現場監督としては、非常に安心できる優良な労働環境だわ!)
私が前世の職業病とも言える視点で現場の安全管理体制を心の中で評価し、深く頷いていた――まさにその時だった。
突如として、隣接する深い森の奥から無数の鳥たちが一斉に空へと飛び立った。
直後、大地の下から突き上げるような重い振動が足元に伝わってくる。
何本もの太い木々が不自然に大きく揺れ、葉を散らしながらなぎ倒されていくのが見えた。
「な、なんだ!? 森から何かが来るぞ!」
作業員の一人が恐怖に顔を引きつらせて叫んだ。
森の暗がりを突き破り、強烈な獣の臭いと共に太陽の下へと姿を現したのは身の丈が小さな家屋ほどもある巨大な猪の魔獣だった。
額に不気味な四つの赤い目を光らせ、口元からは鋭く天を突く二本の巨大な牙が伸びている。
全身を覆う針金のような剛毛は興奮で逆立ち、口からは大量の涎を撒き散らしていた。
おそらく、森の奥深くで何らかの縄張り争いに敗れ、この開拓地へと迷い込んできた凶暴なはぐれ個体だろう。
「ひぃっ……! 四ツ目猪だ! 逃げろ!」
農具を放り出し、作業員たちが一斉に悲鳴を上げて逃げ惑う。
しかし、運悪く切り株の根に足をとられた年配の農民が、無惨にも地面へと転倒してしまった。
四ツ目猪はその動きに反応し、標的を定めたかのように太い鼻息を噴き出しながら、倒れた農民に向かって一直線に突進を開始した。
数トンの巨体が猛スピードで迫り来る。
その破壊力は、人間の脆弱な肉体など一瞬で紙切れのように引き裂いてしまうだろう。
(いけない! このままでは領民の方々が怪我をして、重大な労働災害が発生してしまうわ!)
私が重い特注のドレスの裾を蹴り上げ、助けに入ろうと筋肉を収縮させた瞬間――。
私の横を、一陣の風が通り抜けた。
アドリー様は腰に佩いた護身用の剣を抜くことすらせず、ただ自身の脚力のみで大地を蹴り、四ツ目猪と倒れた農民の間に瞬時に立ち塞がったのだ。
彼は逃げ遅れた人々を自身の背後に完全に隠すように庇い、巨大な魔獣に向かって無防備にも両手を大きく広げた。
その姿は、自らの肉体をただの物理的な盾として捧げるあまりにも無謀で、自己犠牲に満ちた行動だった。
(……前世の僕は、無力な中間管理職だった)
迫り来る死の予感の中で、アドリーの脳裏には決して消えることのない暗い後悔の念が蘇っていた。
(上層部からの理不尽な要求と、終わりの見えない過酷な労働環境。そこから大切な部下たちを守りたかったのに、会社という巨大な力に逆らえず、僕は最も守りたかった彼女を過労で喪ってしまった。だからこそ、今世では自分の庇護下にある者たちを理不尽な暴力から守り抜く。たとえ、この身をただの盾にしてでも――!)
サファイアの瞳には一切の恐怖はなく、ただ背後の民を守るという鋼のような決意だけが宿っていた。
四ツ目猪の巨大な牙が、アドリー様の細い身体を貫こうと迫る。
しかし、その牙が彼の上質なシャツに触れるよりも遥かに早く――。
「我がルサージュ領の現場では、労働災害ゼロを徹底しておりますの!」
凛とした私の宣言と共に、凄まじい衝撃波が開拓地を吹き荒れた。
私はアドリー様の真正面に割り込むと同時に、突進してくる四ツ目猪の二本の巨大な牙を、左右の手でそれぞれ正面からガッチリと受け止めたのだ。
数トンの質量と猛スピードの運動エネルギーが私の両腕にのしかかるが、私の足は数ミリたりとも後退することはない。
私の踏み込んだ足元の固い岩盤が、圧力に耐えきれずに蜘蛛の巣状に深くひび割れていく。
純粋な物理的筋力による完全な相殺。
「大人しくなさいな!」
私は両腕の筋肉にさらに力を込めると、猪の牙を掴んだまま強引に自身の腰を捻った。
猪の突進の勢いをそのまま利用し、見事な円運動を描いて巨体を空中へと持ち上げる。
そして、抵抗する間も与えずに、開拓地の柔らかい土の上へと猪の背中から勢いよく叩きつけた。
大地が大きく跳ね上がり、大量の土煙が舞い上がる。
脳が激しく揺らされた四ツ目猪は、一瞬にして意識を刈り取られ白目を剥いて完全に沈黙した。
一切の流血を伴わない、完全な安全状態への無力化である。
「よし、鎮圧完了ですわ。それにしても、素晴らしい馬力ですこと。この四ツ目猪、ただ討伐して肉にしてしまうには惜しい人材――いえ、獣材ですね。領地の魔物使いの者に少し調教させれば、この新規農地の開墾用トラクターとして立派に再就職できますわよ!」
私が両手の埃を払いながら、現場監督としての極めて実用的な提案を口にすると、静まり返っていた現場から一気に割れんばかりの歓声が沸き起こった。
「す、すげえ! 奥方様が四ツ目猪を素手で投げ飛ばしたぞ!」
「我らの女神様だ! ルサージュ公爵家万歳!」
作業員たちが安堵の涙を流しながら抱き合って喜ぶ中、私は背後に立つアドリー様へと振り返った。
彼はゆっくりと広げていた両腕を下ろし、私の姿をどこまでも優しく、そして誇らしげな眼差しで見つめていた。
「さすがはラニ様。貴女がいてくれて本当に良かった。見事な働きです」
アドリー様はただ純粋に私の労働成果を心から称賛してくれた。
しかし、彼は私への労いもそこそこに、すぐに身を翻して地面に座り込んでいる年配の農民の元へと駆け寄った。
公爵という最高位の貴族でありながら、彼は一切の躊躇いなく泥だらけの地面に膝をつき、自身の高価なズボンが汚れることなど気にも留めずに農民の視線に合わせて優しく問いかけた。
「怪我はありませんか? どこか痛むところは」
「か、閣下……! もったいないお言葉でございます。私は転んだだけで、奥方様と閣下のおかげで傷一つございません……! まさか領主様ご自ら、我々のような土に塗れた者の盾になってくださるなど……」
農民が感極まって涙をこぼすと、アドリー様は自身の懐から清潔な布を取り出し、農民の服についた泥を優しく払った。
「誰も欠けなくてよかった……もう二度と、理不尽に誰かが傷つくのは見たくないですから。貴方たちが無事で、本当に良かった」
その言葉の響きは、領主としての義務感から出たものではなく――魂の底から絞り出されたような、切実な安堵に満ちていた。
(……今の言葉、そして誰かを庇って真っ先に前に出るあの姿)
私は、土に塗れた農民を労わるアドリー様の背中を見つめながら、理由のわからない温かな既視感に胸を打たれていた。
(不思議ね。剣も抜かず、自分の身を挺してまで現場の人間を守ろうとするあの不器用な背中を見ていると……前世で、無茶な残業ばかりする私にいつも『無理をするな』と温かいコーヒーを差し入れてくれた、あの優しい上司の姿を思い出してしまったわ)
私が前世で最後に見た、ブラック企業という終わらない戦場の中で、唯一私を庇い、人間として扱ってくれた大切な人の面影。
それが、目の前にいる美しく高貴な公爵の背中と、不意に重なって見えたのだ。
(まさか、そんなはずはないわよね。でも……どうしてこの人の隣は、こんなにも懐かしくて、心が安らぐのかしら)
私が呆然と立ち尽くしていると、農民の無事を確認し終えたアドリー様が立ち上がり、私の方へと振り返った。
夏の強い陽射しを背に受けた彼は、いつものように私を極上に甘やかす甘く優しい微笑みを浮かべている。
理不尽から身を挺して守ろうとする公爵様と、すべての危険を物理で粉砕する怪力令嬢の絆は、この夏の騒動を経てより一層深く、強く結びついていくのだった。




