20 これこそが、最高のプロジェクトの形だわ!
あの地下での古代遺跡の物理的な強制撤去という名の肉体労働から、さらに数ヶ月の月日が流れた。
ルサージュ公爵領は、目にも鮮やかな深い緑と眩しい陽光に包まれ、本格的な夏の季節を迎えていた。
私の前世の現場監督としての知識と、今世の規格外の物理力によって工期の遅延を力技で回避した大型水道橋は、ついに完全な姿で竣工の日を迎えている。
山間部の豊富な水源から引かれた冷たく澄んだ水は、巨大な石造りのアーチを渡り、領地の隅々にまで張り巡らされた水路を通って乾きがちだった大地をたっぷりと潤していた。
今日は、その水道橋の恩恵を最も受けている農業地帯の視察という名目で、私とアドリー様は二人きりで領内の山岳地帯へと足を運んでいた。
公爵夫妻の正式な訪問となれば現場の農家の人々に過剰な気を使わせてしまうため、私たちは身分を隠した軽装でのお忍び視察である。
私は動きやすい涼しげな麻のワンピースを纏い、アドリー様も普段の重厚な正装ではなく、胸元の少し開いた薄手の上質なシャツに細身の長ズボンという出で立ちだ。
ただでさえ美しいアドリー様が、夏の強い陽射しを受けて僅かに汗を滲ませている姿は、暴力的なまでの色気を放っている。
すれ違う村の娘たちが、次々と頬を赤らめて振り返っていくのも無理はなかった。
「素晴らしい眺めですね、ラニ様。貴女が守り抜いてくれた工期のおかげで、今年の夏はかつてないほどの豊かな実りを見せています」
「ええ、本当に。これほど見事な緑の絨毯を見られるなんて、現場監督冥利に尽きますわ」
私たちが立っているのは、山の斜面を利用して作られた広大な段々畑を見下ろす高台である。
高冷地であるこの地域は、夏でも空気がひんやりとしており、昼夜の寒暖差が激しい。
その気候と、今回開通した水道橋から途切れることなく供給される無尽蔵の冷たい水が組み合わさることで、この段々畑では極上の高原野菜が育てられているのだ。
畑のあちこちからは豊かな水が乾いた土を潤す清らかな音が響き、農作業に汗を流す領民たちの活気に満ちた声が風に乗って聞こえてくる。
「おや、そこのお若いご夫婦。見慣れない顔だが、王都からの観光客かい? こんな山奥までよく来たね」
畑の脇に設けられた日除けのテントの下で休憩していた初老の農夫が、人懐っこい笑顔で私たちに声をかけてきた。
私たちがこの土地を治める領主夫婦であることには、全く気がついていないようだ。
アドリー様は少しも嫌な顔をせず、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。こちらの畑の作物がとても見事でしたので、つい見惚れてしまいまして」
「今年の野菜は特別製だからね! 領主様が立派な水道橋を造ってくださったおかげで、山からの冷たい水が豊富なんだ。昼間の強い太陽と夜の厳しい冷え込み、それにこの美味い水があれば、野菜はどこまでも甘くなる。ほら、ちょうど今朝収穫したばかりのやつが冷えているから、一つずつ食べていきなさいな」
農夫はそう言うと、傍を流れる水路の冷たい水に浸してあった真っ赤に熟した大きなトマトを二つ取り出し、布で軽く拭ってから私たちに差し出してくれた。
私は喜んでそれを受け取り、大きく口を開けてかぶりついた。
薄く張った皮が弾けると同時に、驚くほど甘く、そして僅かな酸味を含んだ濃厚な果汁が口の中いっぱいに溢れ出した。
大地の力強さと、澄み切った冷たい水の爽やかさが一体となった、極上の味わいである。
(なんて瑞々しくて美味しいの! 前世の深夜残業中、乾いたオフィスのデスクでパソコンの画面を睨みながら無心でかじっていた野菜とは、まるで別の食べ物みたいだわ! 太陽と水と、豊かな大地の味がする!)
私は社畜時代の荒んだ食生活を思い出しながら、目の前にある本物の自然の恵みに深い感動を覚えていた。
しかし、ここで一つの重大な物理的問題に直面する。
私の手の中にある、この限界まで水分を蓄えた完熟の高原トマトである。
(待って。このトマト、皮が極限まで薄くて中身がはち切れそうなくらいに詰まっているわ。うっかり指先に力を込めてしまったら、限界まで水を入れた水風船のように手の中で大破裂を起こしてしまう! せっかくのアドリー様の美しいお顔や上質なシャツを、赤い果汁で無惨に染め上げる大惨事になりかねないわ!)
私は瞬時に全身の筋肉を統制し、指先の出力を極限のマイナス領域へと移行させた。
卵の黄身を素手で掴むよりもさらに繊細な力加減。
まるで空気に触れるかのような極めてソフトな接触を維持しながら、私は慎重に――かつ優雅にトマトを少しずつ食べ進めた。
「ラニ様、本当に美味しそうに食べますね」
私の極秘の筋肉コントロール任務など知る由もないアドリー様が、隣で愛おしそうに私を見つめている。
彼もまた、自身のトマトを一口味わい、満足そうに頷いた。
「この高原野菜の品質は、王都の高級レストランで出されるものすら凌駕しています。ラニ様、貴女が造り上げたあの水道橋は、ただ領民の生活を潤すだけではありません」
アドリー様は畑の先、山を下った先に見える街道へと視線を向け、鋭くも頼もしい顔つきになった。
「以前、貴女がヤトゥルク鉱山へと続く道を強固に舗装してくれましたね。あの揺れの少ない輸送ルートを使えば、この山岳地帯で採れた傷みやすい高原トマトや甘いスイートコーンを、鮮度を保ったまま迅速に他領や王都へ輸出することが可能になります。良質な水と、完璧な物流網。この二つが揃ったことで、ルサージュ領の農業は莫大な外貨を獲得する巨大産業へと生まれ変わったのです」
その言葉を聞いて、私の心臓が大きく跳ねた。
(私の現場での物理的な肉体労働が、アドリー様の完璧な経営戦略と組み合わさることで、領地にこれほどの莫大な継続的利益を生み出すシステムに昇華されたのね! これこそが、最高のプロジェクトの形だわ!)
私が現場監督としての深い感動に打ち震えていると、アドリー様は周囲の目を盗むように私に一歩近づき、私の空いた方の手をそっと握った。
「貴女の規格外の力と、それを他者のために迷わず振るう決断が、この領地に永続的な豊かさをもたらしてくれました。ラニ様、貴女は本当に……僕の自慢の、最高の妻です。貴女をこの領地に迎えられた幸運を、僕は毎日神に感謝しています」
真っ直ぐに向けられるサファイアの瞳と、深すぎる愛情の言葉。
夏の暑さのせいだけではない熱が顔に集まるのを感じ、私は照れ隠しに俯いた。
「あ、ありがとうございます……その、私こそ、アドリー様のお役に立てて嬉しいですわ……あっ」
俯いた拍子に、口元に僅かに残っていたトマトの果汁が垂れそうになる。
私が慌てて指で拭おうとした瞬間、アドリー様の顔が不意に近づき、私の唇の端に柔らかな感触が落ちた。
彼が極めて自然な動作で、私の口元についた赤い果汁に直接口付け、甘く絡め取ったのだ。
「……本当に、驚くほど甘いですね」
至近距離で艶やかに微笑むアドリー様。
炎天下の農作業現場の片隅で突如として繰り広げられた極上の愛情表現に、私の理性は一瞬でショート寸前に陥った。
テントの奥にいた農夫が嬉しそうに目を細め、慌てて背中を向けて作業に戻るふりをしてくれたのが見えて、私はさらに顔から火が出そうになる。
「あ、アドリー様! 人前で急に、そんな……!」
「ラニ様が可愛らしすぎるのがいけないのですよ」
アドリー様は私の赤い顔を見て楽しそうに喉を鳴らすと、私の手を握る指にさらにそっと力を込めた。
彼から伝わる温もりは、後継ぎという重圧や、公爵家という立場すらも忘れさせるほどに、ただ純粋で優しいものだった。
「これほど豊かな夏を迎えられたのは、すべて貴女のおかげです……今日は時間を忘れて、貴女がもたらしてくれたこの夏の恵みを、ただ二人でゆっくりと味わいましょう」
吹き抜ける一陣の風が、青々とした段々畑の葉を揺らし、心地よい涼を運んでくる。
前世の過酷な労働環境では決して味わうことの出来なかった、静かで、穏やかで、そしてどこまでも甘い夏の時間が、私たちの間に満ちていた。
怪力令嬢の推し進めたプロジェクトは、愛する夫の完璧な経営戦略と共に、確かな実りとなってこの大地に深く根を下ろしているのだった。
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