19 今日くらいは、この底なしに優しい甘やかしに全部委ねてしまおうかしら
古代遺跡という名の予期せぬ地中障害物を物理的に撤去し、大型水道橋の建設プロジェクトを無事に本来の工程へと引き戻した翌朝。
私はルサージュ公爵邸の最上階にある寝室で、窓から差し込む眩しい朝日を浴びて目を覚ました。
昨日の過酷な肉体労働の疲労は私の筋肉には一切残っておらず、むしろ心地よい達成感と共に全身に活力が満ち溢れている。
(さあ、今日も今日とて領地のインフラ整備と、溜まった決裁書類の処理を前倒しで進めなくては!)
前世の現場監督としての血を騒がせ、勢いよくベッドから跳ね起きようとした――その時。
重厚な扉が静かに開き、銀製のワゴンを押したアドリー様が寝室へと入ってきた。
「おはようございます、ラニ様。昨日の大活躍、本当にお疲れ様でした」
アドリー様は朝陽を受けて輝くサファイアの瞳を細め、極上の微笑みを浮かべている。
彼が運んできたワゴンの上には、一枚の真っ白な陶器のプレートに美しく盛り付けられた朝食が用意されていた。
朝露を帯びたかのように瑞々しい彩り豊かな野菜のサラダ。
絶妙な火加減で調理された半熟のスクランブルエッグ。
そして、表面に微かな塩の結晶を纏い、焼きたての小麦と芳醇なバターの香りを漂わせる見事な塩パン。
どれも私の好物ばかりが並んだ完璧なワンプレートの朝食に、思わず喉が鳴る。
「とても美味しそうですわ、アドリー様。でも、どうして寝室に朝食を?」
「昨日の貴女の献身的な働きに対する、僕からのささやかな慰労です。本日は、貴女の完全休養日とさせていただきます。さあ、今日はベッドから一歩も出ずに、まずはこの朝食を召し上がってください」
アドリー様はワゴンの上のプレートを持ち上げると、ベッドの上に備え付けられた小さなテーブルへと丁寧に配置した。
(完全休養日!? 有給休暇を消化したばかりなのに、さらに特別休暇が付与されるというの!?)
私は予想外の待遇に目を丸くした。
◇
絶品の塩パンとスクランブルエッグを味わいながら、私は頭の中で本日のタスクリストを急速に再構築していた。
(いくら休養日とはいえ、現場監督たるもの、丸一日何もしないわけにはいかないわ。食事を終えたら、せめて執務室に向かって午前の決裁書類だけでも片付けてしまおう)
しかし、食後の紅茶を飲み終えた私を見計らったように、アドリー様が残酷な――いや、極限まで甘い宣告を下した。
「ラニ様。貴女が今日確認する予定だった書類は、僕が今朝のうちにすべて処理しておきました。ヤトゥルク鉱山からの資材搬入ルートの件も、各部署への指示出しは完了しています」
「えっ……書類が、ゼロ?」
「ええ。それから、貴女が気にしていた中庭の巨大な景観石の配置変更ですが、専門の造園業者と土魔術師を手配して先ほど完全に終わらせてあります。さらに書庫の重い本棚の整理と移動も、力自慢の者たちを集めて完了済みです。ですから、今日貴女が物理的にも事務的にも手を動かすべき業務は、このルサージュ領内に一つも残っていません」
(私の今日のタスクが、見事にすべて奪われているわ!?)
完璧な先回りによる業務の完全剥奪。
前世で過労死するまで働き詰めだった私にとって、やるべき仕事が一つもないという状況は、もはや恐怖すら覚える異常事態である。
(現場監督から仕事を取り上げたら、ただの筋肉を持て余したニートになってしまうじゃない! 生産性のない自分が恐ろしいわ!)
私が動揺して視線を泳がせていると、アドリー様は私の手を優しく取り、甘く囁いた。
「さあ、着替えを済ませたら、今日は僕と一緒に庭園でゆっくりと過ごしましょう」
ルサージュ公爵邸の広大な庭園は、色とりどりの花が咲き乱れ、心地よい風が吹き抜ける見事な空間だった。
青空の下、木漏れ日が落ちる芝生の上にはすでにピクニックの準備が整えられている。
いつもであれば、重いバスケットや敷物の運搬は私の圧倒的な筋力の出番であるはずだった。
しかし今日に限ってはアドリー様が私から一切の荷物を取り上げ、自らの手で運んでいた。
芝生の上に広げられたのは、私の規格外の質量と密度が一点に集中しても地面が陥没しないよう、特別な魔獣の毛皮を何層にも重ねて作られた極厚の敷物である。
そこに二人で腰を下ろすと、アドリー様は自ら美しい茶器でお茶を淹れ、焼き菓子の入った籠から一つを手に取った。
「あ、アドリー様。お茶の準備くらいは私が……」
「駄目ですよ。今日は完全休養日だと言ったはずです。口を開けてください」
アドリー様が私の唇のすぐ近くまで、甘い砂糖掛けの焼き菓子を運んでくる。
私は顔を真っ赤にしながら、言われるがままに口を開き、そのお菓子を受け取った。
香ばしく焼き上げられた生地の心地よい歯応えと、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
お茶を飲ませてもらい、お菓子を与えられ、ただ陽だまりの中で彼に甘やかされるだけの時間。
至れり尽くせりの極上サービスを受けながらも、私の心の中には拭いきれない罪悪感が渦巻いていた。
(ずっと前世から、何か価値を生み出さなければ、他人のために働かなければ、自分という存在には意味がないと思い込んで生きてきた。こんな風に、ただ消費するだけで誰かから無条件に愛されるなんて、私には不相応なのではないかしら……)
無意識のうちに表情が曇っていたのだろう。
アドリー様は私を気遣うように顔を覗き込み、私の銀糸の髪を優しく撫でた。
「どうしたのですか、ラニ様。何か不安なことでも?」
「……いえ。ただ、こんなにも良くしていただいて、私はアドリー様に何もお返しできていないなと。私は不器用で、力仕事や現場の指揮くらいしか取り柄がありませんから……」
私が俯き加減でそう呟くと、アドリー様の髪を撫でる手が止まり、代わりに私の頬を両手で優しく包み込んだ。
彼の手のひらから伝わる温もりが、私の冷えかけた心を溶かしていく。
「ラニ様。貴女は何かを成し遂げなくても、莫大な利益を生み出さなくても、ただここで健やかに息をして、僕の隣で笑ってくれているだけでいいのです。それだけで、僕の世界は完全に満たされるのですから。どうか、僕に貴女を甘やかさせてください」
一切の条件を求めない、絶対的な全肯定。
その深すぎる愛情の言葉に触れ、私の心の中で長年張り詰めていた鋼鉄の糸が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
(福利厚生が手厚すぎて、このままでは完全に労働意欲を失った駄目人間にされてしまいそうだわ……でも、今日くらいは、この底なしに優しい甘やかしに全部委ねてしまおうかしら)
私は彼の掌にそっと頬を擦り寄せ、心からの安堵の息を吐き出した。
春の柔らかな日差しと、頬を撫でる心地よい風。
そして何より、隣にいる愛する夫の絶対的な安心感。
完全に緊張の糸が切れた私は、次第に重くなる瞼に抗うことをやめた。
しかし、ここでアドリー様の肩や膝に寄りかかって眠ってしまえば、私の頭部の圧によって彼の骨が粉砕される大惨事になりかねない。
私は最後の理性を振り絞り、アドリー様との間に安全な距離を保ったまま、極厚の敷物の上へと静かに身を横たえた。
彼の温もりをすぐ側に感じながら、私は深い眠りへと落ちていった。
◇
ラニが規則正しい寝息を立て始めたのを確認すると、アドリーは自身の羽織っていた上着を脱ぎ、彼女の華奢な肩へとそっと掛けた。
彼はその場から動くことなく、愛する妻の無防備な寝顔をじっと見つめ続けていた。
サファイアの瞳には、狂おしいほどの愛情と、そして胸を締め付けるような深い痛みの色が混ざり合っている。
(……ゆっくり休んでください、僕の愛しい人)
アドリーは彼女の頬にかかった白銀の髪を、起こさないようにそっと指先で払った。
彼女の自分の限界を超えてまで他人のために尽くそうとする危うい生真面目さに触れるたびに、アドリーの脳裏には一つの凄惨な記憶が蘇るのだ。
(貴女のその働き詰めな姿は、前世で僕が救えなかった大切な部下を……どうしようもなく思い出させる)
かつて、アドリーが別の世界で生きていた頃。
彼には、不器用なほどに真っ直ぐで、どんな過酷な現場でも決して弱音を吐かずに立ち向かう、一人の部下がいた。
彼女の働きに会社は依存し、彼自身も彼女の有能さに甘え、結果として彼女を過労死という最悪の結末へと追い込んでしまったのだ。
あの冷たくなった身体を前にした時の、世界が崩壊するような絶望と後悔。
それを抱えたまま、彼は自ら命を絶ち、この世界へとやってきた。
(あんな悲劇は、もう僕の人生にいらない。今世で出会えた愛する妻である貴女には、絶対に無理などさせない)
目の前で穏やかな寝息を立てるラニの姿に、彼はどうしても、かつて自分が救えなかったあの不器用な部下の面影を重ねてしまう。
決して交わるはずのない、別の世界の記憶。
それでも、彼の魂に刻み込まれた強烈な執着と保護欲は、理由のつかない甘い郷愁を伴いながら目の前の愛する妻へと注がれていた。
春の柔らかな日差しの中。
過去の消えない後悔を胸に抱きながら、公爵の重く深い愛の誓いは、誰にも聞かれることなく静かに庭園の風に溶けていった。




