18 工期の遅延は許しませんわ!
大型水道橋の水源確保のため、ルサージュ公爵領の山間部で進められていた大規模な掘削現場。
普段であれば活気に満ちているはずのその場所は、重苦しい絶望と沈黙に支配されていた。
坑道の最奥部、岩肌が大きく開けた空間に、青白く不気味な光を放つ半透明の壁が立ちはだかっていたのだ。
壁の向こう側には、失われたはずの古代文明の意匠が施された巨大な神殿のような建造物が鎮座している。
領地が誇る優秀な魔術師たちが総出で額に汗を浮かべ、最高位の攻撃魔法や解除の呪文を幾度となく叩き込んでいたが、光の壁は表面に波紋一つ起こすことなくすべての力を虚空へと消し去っていた。
「閣下、奥方様。誠に申し訳ございません。我々の力ではどうにも……」
疲労困憊といった様子の魔術師長が、視察に訪れたアドリー様と私の前で深く頭を下げた。
「この結界は、古代の神聖魔法によって構築された極めて特殊な防御陣です。物理的な衝撃も、魔術的な干渉も、外部からのエネルギーはすべて無効化、あるいはそのまま跳ね返すという厄介な性質を持っております。これを安全に解除するには、王都から専門の学者を招き、数ヶ月かけて術式を解析するしか……」
(無効化? 反射? そんなの、ただの非効率で融通の利かない旧式のセキュリティシステムじゃない!)
私は魔術師長の報告を聞きながら、内心で激しく毒づいていた。
数ヶ月の解析作業。
その言葉が意味するのは、水道橋建設プロジェクトの完全な停止である。
今日の工程表はすでに真っ赤な遅延状態に陥っており、このままでは領地の農業計画という莫大な利益を生むはずの事業が根本から崩壊してしまう。
(予算の超過、人員の無駄な待機、そして何より領民への水供給の遅れ。こんな地中深くの不法投棄されたような遺跡のせいで、ルサージュ領の未来に負債を残すわけにはいかないわ!)
恐怖と疲労で座り込む作業員たちを後目に、私は圧倒的な威圧感を纏って坑道の最前線へと歩み出た。
青白い光を放つ結界の真正面に立ち、私はその表面の魔力の流れと、先ほど魔術師たちが放った魔法がどのように処理されたかを脳内で高速で分析していく。
(魔法や衝撃を反射するということは、外部からのエネルギーの逃げ場がこの結界の表面全体に設定されているということ。システムとしてみれば、入力された負荷を分散させて跳ね返しているだけよ。ならば、その負荷分散の処理速度を遥かに上回る超・物理質量を一点に叩き込めば、システムは完全にオーバーロードを起こして物理的に砕け散るはずだわ!)
前世の建設現場で培った構造力学と、今世の規格外の筋肉が導き出した、極めて論理的かつ暴力的な結論である。
私は周囲を見渡し、発掘作業で掘り出された数トンクラスの巨大な岩石に目を留めた。
特注の分厚いドレスの袖を肘までまくり上げると、私はその巨大な岩の底に両手を差し込み、自身の体重を全く感じさせない軽やかな動作で頭上へと持ち上げた。
「お、奥方様!? 一体何を……」
魔術師たちが驚愕の声を上げる中、私は結界から十分な距離を取り、投擲の構えに入った。
足幅を広げ、全身の筋肉をバネのように収縮させる。
――狙うは、結界の中心点ただ一つ。
「工期の遅延は許しませんわ!」
私の腕から放たれた数トンの巨大な岩石は、空気を切り裂きながら恐ろしい速度で結界へと向かって飛んでいった。
岩石が青白い壁に激突した瞬間、結界の表面が凄まじい光を放ち、その莫大な運動エネルギーを反射しようと試みる。
しかし、私の攻撃はそれだけでは終わらない。
岩石を投擲した直後、私は自身の脚力を限界まで爆発させ、岩石とほぼ同じ速度で結界へと向かって突撃していた。
結界が岩石の質量を処理しようと負荷を極限まで高めているまさにその刹那、私は岩石が衝突したのと同じ一点に向かって、渾身の正拳突きを叩き込んだ。
数トンの岩石による一次衝撃と、私の怪力による二次衝撃。
古代の叡智を結集したはずの神聖な結界は、許容量を遥かに超えた連続的な物理負荷に耐え切ることができなかった。
空間そのものが悲鳴を上げるような鋭い破砕音が坑道全体に響き渡る。
次の瞬間、青白い光の壁は無数の破片となって四散し、空中で細かい光の粒となって完全に消滅した。
魔法陣の核が砕け散り、遺跡への道が完全に開かれたのである。
「け、結界が……素手で砕かれた……!?」
魔術師たちが腰を抜かしてへたり込む中、私は拳の埃を払い、大きく息を吐き出した。
――しかし、休む暇は与えられなかった。
侵入者を阻む結界が破壊されたことで、神殿の内部に眠っていた古代の防衛機構が起動したのだ。
地響きを立てて奥から姿を現したのは、神殿の柱と同じ大理石で作られた、身の丈が三メートルを超える巨大な古代ゴーレムの群れだった。
関節部分から古い砂埃を撒き散らしながら、彼らは排除対象である私に向かって無機質な瞳を赤く光らせる。
「警告します。この土地の所有権及び開発許可は、現在ルサージュ公爵家が公的な水道事業のために正当に取得しております。貴方たちは権利なき不法占拠者ですわ!」
私の言葉など理解できるはずもないゴーレムの一体が、巨大な石の拳を振り上げ、私を粉砕すべく頭上から容赦なく振り下ろしてきた。
私は逃げることも躱すこともせず、その巨大な拳を左手一本で正面から受け止めた。
足元の岩盤が私の踏み込みによって放射状にひび割れるが、私の腕は一ミリたりとも押し込まれることはない。
「速やかな立ち退きを要求します!」
私は受け止めたゴーレムの腕を強引に引き寄せ、背中を向けながら自身の腰を深く沈み込ませた。
鍛え抜かれた体幹と、物理法則を無視した圧倒的な筋力が連動する。
そのまま三メートルを超える石の巨体を、見事な一本背負いの要領で宙へと放り投げた。
空を舞ったゴーレムの巨体は、神殿の分厚い外壁に激突し、凄まじい轟音と共に壁ごと木っ端微塵に粉砕された。
残された他のゴーレムたちも、私が次々と掴みかかっては壁や床へと叩きつけ、数分後にはただの良質な大理石の資材へと姿を変えていた。
「奇跡だ……奥方様は戦の女神の生まれ変わりだ……」
「我らの救世主様、どうかお守りください……!」
現場の作業員たちが、完全にただの石くれとなったゴーレムの残骸と私を交互に見比べ、次々とその場にひれ伏して祈りを捧げ始めた。
私は乱れたドレスの裾を整え、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
「ラニ様!」
坑道の入り口から、アドリー様が駆け寄ってくる。
彼は周囲に散乱する古代遺跡の残骸や、砕け散ったゴーレムの惨状には一顧だにせず、真っ直ぐに私の元へと辿り着くと私の両手を優しく包み込んだ。
彼の手が懐から取り出した清潔な布で、私の手や頬に付着した泥を、まるで世界で一番高価な宝石を扱うように丁寧に拭い取っていく。
「怪我はありませんか? 本当に、素晴らしい働きでした。古代の遺産すら、貴女の前ではただの些細な障害物に過ぎないのですね」
「アドリー様。申し訳ありません、歴史的な価値のある建造物を無断で資材に変えてしまって……」
「気にする必要はありません。領民の未来を潤す水道橋に比べれば、過去の遺物など取るに足らないものです。ラニ様、貴女が力強く道を切り拓くその姿は、どんな伝説の英雄の物語よりも僕の心を熱くさせます」
アドリー様のサファイアの瞳には、一切の恐怖も戸惑いもなく、ただ私への純粋な賞賛と、底知れないほどの深い愛情だけが満ち溢れていた。
(伝説の英雄の物語、か……でも、アドリー様のこの全肯定、いくら私を愛してくれている優しい夫とはいえ、私のこの異常な怪力や奇行をあまりにも当然のことのように受け入れすぎている気がするわ)
私は彼に見つめられながら、心の奥底で微かな違和感を覚えていた。
ルサージュ領に住み着いていたあの凶悪なドラゴンの群れを私が一人で全滅させた時も、彼は私を化け物と恐れるどころか、一目惚れしたと言って熱烈に求婚してきた。
私が重機のように現場で働き、古代の呪いを物理で粉砕しても、彼はただ嬉しそうに微笑むだけ。
――まるで、私がこういう人間であることをずっと前から知っていて、その力強く生きる姿を誰よりも愛おしく思っているかのような……そんな不思議で、胸の奥が温かくなるような感覚だった。
◇
その日の夜。
ルサージュ公爵邸の静かな執務室で、アドリーは一人、机に向かっていた。
地中障害物という最大の懸念事項がラニの圧倒的な物理力によって撤去されたことで、遅延していた水道橋の工期は奇跡的に予定通りのスケジュールへと復帰した。
砕かれたゴーレムの大理石は、そのまま水道橋の基礎資材として有効活用されることが決定している。
机の上に広げられているのは、ラニが今日の業務報告として提出した日報だった。
そこには、彼女の几帳面な性格を表すような整った文字で、本日の進捗状況と明日の予定が細かく記載されている。
(ラニ様……貴女が時折口にする、あの奇妙な言葉の数々)
アドリーは、日報に書かれた、コンプライアンス、工程表、不法占拠者といった、この世界では聞き慣れない単語の羅列を、指先でそっと撫でた。
彼女が現場で指揮を執る時に放つ、あの独特な言い回し。
効率を何よりも重んじ、安全管理を徹底し、決して弱音を吐かずに自らが先頭に立って困難に立ち向かうその姿勢。
そのすべてに触れるたび、アドリーの胸の奥底が、ひどく締め付けられるような、甘く切ない感情で満たされるのだ。
(どうして僕は、貴女の言葉にこれほどまでの郷愁を覚えるのでしょうか……まるで、遠い遠い昔に、僕がどうしても救いたかった、大切でたまらない人が使っていた言葉のような……)
サファイアの瞳が、僅かな憂いを帯びて伏せられる。
アドリー自身も、その感情の正体をまだ完全に理解しているわけではなかった。
ただ、彼女の姿を見るだけで、彼女の声を聞くだけで、失われた半身を見つけ出したかのような強烈な安堵と、二度と手放してはならないという焦燥にも似た執着が湧き上がってくるのだ。
アドリーは、ラニが提出した日報の束を両手でそっと包み込み、愛おしそうに――そして、少しだけ悲しそうな微笑みを浮かべた。
整然と並んだ几帳面な文字。
夜遅くまで一人で仕事に向き合っていたであろう、その生真面目な筆跡。
それを見るたびに、彼の心の奥底で暗く冷たい喪失感が疼くのだ。
(どうか、無理だけはなさらないでくださいね。僕の命も魂も、すべては貴女を甘やかし、永遠に守り抜くためにあるのですから)
静寂に包まれた執務室の中で、アドリーは愛する妻の残した文字にそっと唇を落とした。




