16 私の理性と筋肉は、果たして彼の愛の暴走に耐え切れるの……!?
ルサージュ公爵領へと帰還し、不在の間に溜まっていた決裁書類の山や、ヤトゥルク鉱山の新たな輸送ルートの舗装工事といった領地内の物理的なタスクを前世の現場監督としての経験を活かして前倒しで片付け終えた夜。
私は公爵邸の最上階に位置する広大な夫婦の寝室で、天蓋付きの最高級ベッドに腰掛けながらその時が来るのを静かに待っていた。
メイドたちがこの日のためにと念入りに用意した最高級の絹で仕立てられた薄紅色のネグリジェは、肌に触れる面積よりも透けている部分の方が多いのではないかと思えるほどに心許ない代物である。
窓から差し込む青白い月明かりが、室内の重厚なアンティークの調度品を静かに照らし出していた。
普段であれば、一日の激しい肉体労働と事務作業を終えて泥のように眠りにつく時間である。
しかし今夜ばかりは、私の脳内はかつてないほどの最高レベルの警戒態勢を敷いており、睡魔など微塵も寄り付かなかった。
(新婚旅行の最後に訪れた展望台で、アドリー様が仰っていた次代の公爵……後継ぎプロジェクトの件。ついに今夜、その実行フェーズへと移行するのね)
私は手の中の滑らかなシーツを握りしめながら、小さく息を吐き出した。
公爵家という巨大な組織を今後も安定して存続させる上で、これ以上に重要かつ優先度の高いプロジェクトは存在しない。
愛するアドリー様との間に、私たち二人の血を引く新しい家族を迎える。
それは、前世で孤独な社畜として会社と自宅の往復だけで生涯を終えた私にとって、言葉では言い表せないほど尊く、そして幸福な未来の光景だった。
(可愛い赤ん坊……きっと、コウノトリさんがこの公爵邸の煙突まで、真っ白な布に包んで運んで来てくださる……なんて、現実逃避をしている場合ではないわ!)
私は自身の甘い妄想を即座に叩き斬り、首を横に振った。
前世の論理的な大人の脳と、そして何より新婚初夜という実体験をすでに経ている私の身体は、残酷なほどに現実の厳しさを理解している。
コウノトリなどという都合の良い物流システムは、この世界には存在しない。
愛の結晶をこの世に生み出すためには、生物学的に定められた、あの濃密で致死的な工程を絶対に避けては通れないのだ。
(そうよ、私は知っているわ。あの初夜の時の、恐ろしいまでの快楽と、極限の筋肉コントロール任務の果てしない過酷さを……!)
私は両手で顔を覆い、当時の記憶を蘇らせて身震いした。
結婚式を終えた後の、新婚初夜の夜。
私は夫への深い愛と、初めての経験という高揚感に包まれていた。
アドリー様はどこまでも優しく、そして私を狂わせるほどの甘い技術で、私の理性を根こそぎ溶かしにきたのだ。
問題は、人間の理性が快楽によって完全に吹き飛んだ瞬間に訪れる、身体の無意識の反射行動である。
人は強い快感や感情の昂りを感じた時、無意識に相手の身体を強く抱きしめたり、背中にしがみついたりしてしまう生き物だ。
しかし私の基礎スペックは、数トンの水竜を素手で湖底に沈め、巨大な岩盤を単独で撤去する規格外の重機そのものである。
もしあの時、私が快楽に身を任せてうっかりアドリー様の背中を抱きしめ返していたら。
もし甘い痺れに耐えきれず、彼の細い腕を強く握りしめてしまっていたら。
間違いなく、ルサージュ公爵家の若き当主の背骨や大腿骨は無惨に粉砕され、初夜のベッドは愛の巣から凄惨な医療現場へと姿を変えていたことだろう。
(あの夜は、本当に命懸けのミッションだったわ。理性が真っ白に飛びそうになる中、私は自身の全身の筋肉の出力を完全に零パーセントに固定し続けるという、地獄のような自己制御を夜明けまで強いられたのよ)
快楽に溺れそうになる脳に懸命に鞭を打ち、「力を抜く」「絶対に握らない」「相手の身体に物理的な圧力をかけない」という命令を、細胞の隅々にまで送り続けたあの夜。
結果としてアドリー様は無傷で生還したが、翌朝の私は極度の筋肉の緊張と疲労により、一歩もベッドから動けなくなってしまったのだ。
愛する人を抱きしめたいという本能をねじ伏せることは、物理的な重労働よりも遥かに精神と肉体を消耗させるのである。
(そして今夜は、明確に後継ぎを意識したプロジェクト。アドリー様の情熱は、初夜の比ではないほどに高まっているはず。私の理性と筋肉は、果たして彼の愛の暴走に耐え切れるの……!?)
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、私は深く息を吸い込んだ。
その時、寝室の重厚な扉が開く重々しい金属音が静寂を破った。
入室してきたのは、湯浴みを終えたばかりのアドリー様だった。
濡れた濃藍の髪からは微かに水滴が滴り落ち、普段の隙のない正装とは異なる、胸元が大きく開いた薄手の寝間着姿。
布地越しにも彼が領主としての剣の鍛錬を怠っていない、引き締まった美しい身体つきであることが見て取れた。
私の怪力からすれば華奢なガラス細工も同然だが、それでも彼は圧倒的な男性としての色気と覇気を纏っている。
アドリー様は室内に入ると、こちらを一瞥し、そして振り返ることなく寝室の扉の鍵を回した。
重い金属が噛み合う冷たい音が、室内に響き渡る。
普段、朝の支度に入るメイドたちのために決して鍵などかけない彼が、自ら密室を作り上げたのだ。
(アドリー様、完全に逃げ道を塞いできたわ! これはもう、絶対に朝まで終わらない超大型の徹夜プロジェクトが確定したということじゃない!)
私の心臓が、警鐘のように激しく脈打ち始める。
アドリー様はゆっくりとした足取りで、私の待つベッドへと近づいてきた。
彼が歩みを進めるたびに、上質な石鹸の香りと、彼自身の持つ甘い香りが空気を支配していく。
ベッドの縁に腰を下ろした彼のサファイアの瞳は、普段の穏やかな為政者としての光を完全に消し去っていた。
そこにあるのは獲物を絶対に逃がさない捕食者としての熱と、私という存在を骨の髄まで愛し尽くそうとする狂おしいほどの溺愛の炎だけだ。
「お待たせしました、ラニ様」
甘く掠れた声が私の鼓膜を震わせる。
私は姿勢を正し、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に持ち上げて微笑んだ。
「い、いえ。私も今、書類の確認を終えたところですので……」
「嘘ですね」
アドリー様は優しく私の言葉を遮ると、大きな手で私の頬をそっと包み込んだ。
彼の高い体温が肌越しに伝わり、私の身体がわずかに震える。
「貴女がここへ来てから、ずっと僕のことだけを考えてくれていたことなど、お見通しです……その顔は、少し緊張しているようにも見えますが」
「それは……その、公爵家の未来を担う重大なプロジェクトに臨むにあたり、身の引き締まる思いと言いますか……」
私が社畜としての防衛本能から意味不明な言い訳を口にすると、アドリー様は嬉しそうに喉の奥で笑い声を上げた。
彼は私の顔を引き寄せ、額、鼻先、そして口角へと、鳥の羽が触れるような優しい口づけを次々と落としていく。
(顔面の暴力が限界を突破しているわ! 至近距離でこの圧倒的な美貌と色気を浴びせられ続けたら、私の理性の防壁なんて開始数分で決壊してしまう!)
私は必死に呼吸を整え、両手をベッドのシーツに強く押し当てた。
彼に触れたい。
その広い背中に腕を回し、彼を強く抱きしめたい。
妻としての当然の欲求が心を支配しようとするが、私はそれを前世の鋼の意志で押さえ込んだ。
(駄目よ、ラニ! 絶対に腕を上げては駄目。力を込めれば、目の前の愛する夫の身体が物理的に崩壊するわ! 出力制限、極限のマイナス領域で固定開始よ!)
私の葛藤など知る由もないアドリー様は、私の両肩にそっと手を置き、私を広大なベッドの中央へとゆっくりと押し倒した。
視界が反転し、上から彼に覆い被される形になる。
濃藍の髪が私の頬をくすぐり、彼のサファイアの瞳が至近距離で私を真っ直ぐに射抜いた。
「ラニ様。新婚旅行の時にも言いましたが、僕は貴女との間に、貴女に似た誇り高く美しい子供を迎えたい……僕たちの愛の証を、この世界に残したいのです」
アドリー様の声は、祈りのように真摯で――そして、甘い毒のように私の理性を溶かしていく。
彼の手が私のネグリジェの胸元へと伸び、華奢なリボンを器用に解いていく。
肌が冷たい空気に触れたかと思うと、すぐに彼の手の熱と、焼き付くような唇の感触に上書きされた。
「……アドリー様……」
私の口から、自分でも驚くほど甘い声が漏れ出た。
アドリー様は私の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけながら囁いた。
「明日の午前中の予定は、すべてキャンセルしておきました。今夜は、貴女の理性がすべて吹き飛ぶまで、何度でも僕の愛を刻み込みます……貴女のすべてを、僕にください」
その宣戦布告ともとれる究極の甘い言葉に、私の脳内の危険信号が最大音量で鳴り響いた。
(あ、明日の午前中まで!? 何度でも!? ただでさえ一度の行為で筋肉の制御が限界ギリギリなのに、それを徹夜で連続でこなすというの!? 私の体幹と精神力は、果たして明日まで持つのかしら!)
しかし、私に逃げ道など用意されていなかった。
アドリー様の唇が私の唇を完全に塞ぎ、貪欲に私を味わい尽くし始める。
思考が快楽によって白く染まっていく中、私は目を強く瞑り、全身の筋肉繊維の一つ一つに脱力という絶対の命令を下し続けた。
(アドリー様……どうか、この過酷な夜を無事に生き延びてくださいませ! そして私の筋肉よ、決して彼を粉砕しないで!)
愛する夫からの極上の甘やかしと、妻としての命懸けの筋肉コントロールミッション。
ルサージュ公爵家の未来を懸けた、世界で一番甘く――そして、世界で一番油断のならない愛の営みが、深い夜の帳の中で静かに幕を開けたのである。




