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15 有給休暇中に副業の利益を得るのは、私の美学に反しますの

 橙色に輝いていた湖面を突き破り、古の伝承にのみ語られる凶悪な水竜がその巨体を現した瞬間、平和なリゾート地は一変して阿鼻叫喚の地獄絵図へと化した。


 展望台で悲鳴を上げて逃げ惑う人々。

 湖畔に並んでいた美しいカフェのテラス席は、竜が跳ね上げた大量の水飛沫によって無残に押し流されていく。

 地元警備隊の放った数多の攻撃魔法は、竜の表面を覆う硬質な青い鱗に当たって虚しく弾け、かえって怪物の怒りを煽る結果となっていた。


(……ああ、もう。どうして私の人生には、こうも予定外の炎上案件ばかりが舞い込んでくるのかしら)


 私は隣で私を庇うように剣を抜いたアドリー様の背中を見つめながら、深々とため息を吐き出した。


 今日は新婚旅行の最終日前日。

 明日には公爵領へ戻り、再び領地改革という名の物理的タスクに明け暮れる日々が始まる。

 その直前の、まさに有給休暇の締めくくりというべき最高にロマンチックな場面で、よりによって街を滅ぼしかねないレベルの致命的なバグが発生するなんて、前世のブラック企業の上層部でもここまでの嫌がらせは思いつかないだろう。


(これ以上の被害拡大は、このリゾート地の資産価値を著しく低下させるわ。何より、私たちの旅行の最後を飾る思い出が未曾有の災害になるなんて、プロジェクトマネージャーとして、そして新妻として、絶対に許容できることではないわね!)


 私の脳内では、即座に緊急事態対応マニュアルが起動していた。


 最優先事項は被害の最小化。

 次に原因の排除。

 そして迅速な撤収。


 私は特注の頑丈なドレスの裾をさらに高くまくり上げると、油断なく剣を構えるアドリー様に短く告げた。


「アドリー様。ここは私が現場を収めてまいります。貴方は、避難が遅れている方々の誘導と、二次被害の防止をお願いしますわ」


「な……ラニ様!? 一人で行くのは危険すぎます!」


「大丈夫ですわ。少し、きつめのコンプライアンス指導をしてくるだけですから」


 私はそう言うと、返事を待たずに展望台の石造りの柵を軽々と飛び越えた。

 視界が激しく上下し、湖面に向かって真っ逆さまに自由落下していく。


 下から迫り来る巨大な水竜が私の姿を捉えて咆哮を上げ、その口から高圧の水のブレスが放たれる。

 並の魔法障壁なら一瞬で貫通するであろうその直撃を、私は空中で身を翻し、真正面から受け止めた。

 激しい衝撃が全身を走るが、私の頑丈な筋肉にとっては、高圧洗浄機で少し強めに水をかけられた程度の感覚でしかない。


 私は水の勢いを利用してさらに加速し、そのまま水竜の巨大な頭部へと飛びついた。

 凄まじい質量同士の激突。

 私は竜の硬い角を両手で強く掴み取ると、空中で自身の全体重と脚力を爆発させ、竜の巨体を強引に湖の中央へと押し戻した。


 街の方へ向かおうとする竜の勢いを、力尽くで方向転換させる。

 そのまま私は竜の首を抱え込むように固定し、湖の底へと向かって強引に潜水を開始した。


(街に衝撃波を飛ばさない。建物を一つも壊さない。そして何より、私の新婚旅行をこれ以上汚させない!)


 湖の深い闇の中で、水竜は狂ったように暴れ回った。

 鋭い爪が私のドレスを切り裂こうとし、巨躯がのたうち回って激しい水流を生み出す。

 しかし、私はそのすべてを圧倒的な筋力でねじ伏せた。

 竜の首を締め上げる腕に力を込め、私は水の中で声にならない宣告を突きつける。


(ここは現在、ルサージュ公爵夫妻が有給休暇を満喫している特別警戒区域ですわよ。正式な許可なく地上へ現れるなど、明らかな規約違反です。大人しくお家へ帰宅なさって!)


 物理的な殺意を伴った筋力の圧迫。

 古の竜は、自身の理解を遥かに超えた怪力を持つ人間に遭遇し、生存本能に基づく根源的な恐怖に支配されたようだった。


 首を掴む私の力がさらに一段階強まった瞬間、竜は悲鳴のような泡を大量に吐き出し、自ら湖のさらに深い底へと逃げ帰っていった。


 数分後。

 全身ずぶ濡れになりながらも、私は何事もなかったかのように湖畔の石畳へと這い上がった。


 街を見渡すと、奇跡的に建物は一つも壊れておらず、逃げ遅れた人々もアドリー様の的確な指示によって全員が無事に避難を終えていた。


 被害ゼロ。

 死傷者ゼロ。


 緊急トラブル対応としては、これ以上ない完璧な着地だった。


「救世主だ! 怪力の女神様だ!」


 騒動が収まったことを確認した街の人々が、湖畔に次々と集まってきた。

 その中心で、街の市長らしき豪華な服装の男性が、震える手で大きな木箱を私の前に差し出した。


「お、奥方様! 貴女様の勇気ある行動がなければ、この街は今頃地図から消えていたことでしょう。これは、市民一同からのせめてものお礼です。どうか、この報奨金と、この街の全施設の永久無料権を受け取ってください!」


 木箱の中には眩いばかりの金貨と、見たこともないような大粒の宝石が詰め込まれていた。

 街の予算の半分はあろうかという、文字通りの莫大な謝礼である。


 しかし、私はその木箱を一瞥すると、断固とした口調で首を横に振った。


「結構ですわ、市長さん。これはあくまで緊急時のボランティア活動であり、我が公爵家が正式に受注した業務ではありません。休暇中の突発的なトラブル対応ですので、これほどの報酬を受け取ると税務処理や実家への報告、さらには他国との外交的な問題に発展しかねませんから……何より、有給休暇中に副業の利益を得るのは、私の美学に反しますの」


「そ、そんな……! これほどの功績を無償で、というのですか!?」


「そのお金は今回の騒動で壊れた看板の修理や、湖畔の防災インフラのさらなる強化に充ててくださいませ。皆様が今後も安心して商売に励める環境を整えること。それこそが、この現場の最大の報酬ですわ」


 私がきっぱりと告げると、市長は感動のあまりその場に泣き崩れてしまった。

 私は彼らを後にし、少し離れた場所で待っていたアドリー様の元へと歩み寄った。


 アドリー様はずぶ濡れの私の姿を、まるで神殿に鎮座する女神を見上げる巡礼者のような、熱く――そして、深い崇拝の色を帯びた眼差しで見つめていた。


「……ああ、ラニ様。暴力的なまでに美しいその力。そして、名誉も富も求めず、ただ平穏を守るその高潔な精神。貴女という存在そのものが、僕にとっての唯一の信仰です」


 アドリー様は周囲の目も憚らず、膝をついて私の手を取った。

 彼は懐から清潔な絹の布を取り出すと、私の指先に付いた泥や水を、まるで壊れ物を扱うように丁寧に、そして慈しむように拭い取っていく。


「貴女を守るはずの僕が、またしても貴女の背中を見守ることしかできなかった。不甲斐ない僕を許してください……ですが、僕は今、貴女という最高の女性を妻にできた幸運に、心から震えています」


 彼は私の指先に、何度も、何度も、熱い口づけを落とした。

 そのサファイアの瞳に宿る溺愛の熱量は、先ほどの水竜のブレスよりも遥かに私の理性を焼き尽くそうとしていた。


(ちょっとアドリー様、メロメロになりすぎてて、逆に私の方が心配になってくるわ……でも、お互いに無事で何よりですわね)


 私は照れ隠しに空を見上げた。

 西の空には、騒動が終わったことを祝福するかのような、美しい夕焼け空が広がっている。


「……さて。これにて、本件の緊急トラブル対応はすべて完了。現場は鎮火しましたわ。これより、完全な定時退社、つまり休暇の終了とさせていただきます!」


 私が清々しい気分で宣言すると、アドリー様は立ち上がり、私の肩を抱き寄せた。


「ええ。帰りましょう、ラニ様。僕たちの愛する我が家へ」


 翌日。

 私たちは、高級リゾート地の支配人や住民たちの熱烈な見送られながら、ルサージュ公爵領へと向かう豪華な馬車に乗り込んだ。


 馬車が動き出すと、アドリー様は私を自身の隣へと引き寄せ、私の頭を自身の肩に乗せるように優しく促した。


「ラニ様。昨日は激しい戦闘で、さぞお疲れでしょう。公爵領に着くまでまだ時間がかかりますから、僕の肩に寄りかかって、どうかゆっくりと休んでください」


 それは、愛する夫からの極上の気遣いであり、誰もが憧れる甘い帰路の風景だった。

 しかし、私はその言葉を聞いた瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。


(休む……? 休めるわけないじゃない! ただでさえ馬車は常に揺れているのよ。そんな不安定な状況下で、私の頭部がアドリー様の美しい鎖骨に衝撃荷重として加わってみなさい! 間違いなく、彼の骨は乾燥した焼き菓子のように粉砕骨折してしまうわ!)


 私は恐怖に戦慄しながらも、彼の優しさを無下にするわけにはいかないと覚悟を決めた。


「ありがとうございます、アドリー様。それでは、お言葉に甘えまして……」


 私は優雅に微笑みながら、彼の肩へと頭を傾けた。

 しかし、実際に私の頭が位置しているのは、彼の衣服の布地から正確に三ミリメートル浮かせた空中である。


 首の筋肉、背筋、そして腹筋。

 全身の体幹を極限まで酷使し、馬車の激しい揺れに合わせて自身の頭部の位置を空中で完全に固定するという、名付けて――エア肩ズンの敢行であった。


「……ラニ様は、本当に羽のように軽いですね。もっと体重をかけてもいいのですよ」


「い、いえ。アドリー様の温もりを感じられるだけで、私は十分に癒されておりますから……」


 私の首筋には早くも玉のような汗が浮かび、限界を迎えた筋肉が微細な痙攣を始めていた。

 公爵領に到着するまでの数日間、私はこの極限の筋肉コントロール任務を休むことなく継続しなければならない。


(有給休暇の最終日まで、究極の肉体労働が続くなんて! やっぱり新婚旅行は、世界で一番過酷なプロジェクトだわ!)


 窓の外では美しい風景が流れていくが、私にそれを楽しむ余裕など一切なかった。


 怪力令嬢ことラニ・ルサージュの初めてのバカンスは、文字通り一秒たりとも休まることのないまま、筋肉の限界と共に幕を閉じるのであった。

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