14 心臓の処理能力が完全に限界突破しているわ!
高級リゾート地での有給休暇も、いよいよ明日で終わりを迎える。
新婚旅行の最終日前日となるこの日、私とアドリー様は公爵邸へ戻る前のお土産探しも兼ねて、湖畔に広がる活気あふれる中央広場へと足を運んでいた。
石畳が敷き詰められた美しい大通りには、色鮮やかな日除けを張った屋台や、洒落たテラス席を設けたカフェが所狭しと立ち並んでいる。
すれ違う人々は皆一様に楽しげな笑顔を浮かべ、湖から吹き抜ける爽やかな風が焼きたてのパンや甘い香辛料の匂いを運んできていた。
(素晴らしいわ。前世の激務中に残業で充血した目をこすりながらスマートフォンの小さな画面で眺めていた『いつか絶対に行きたい癒やしスポットまとめ』の実写版じゃない! 画質が良すぎて目が潰れそうよ!)
私は、前世では決して味わうことの出来なかった絵画のような世界を前に、社畜としての深い感動を胸に刻み込んでいた。
そんな私の隣を歩くアドリー様は、普段の厳格な公爵としての正装ではなく、少し着崩した上質な薄手のシャツに身を包んでいる。
ただ歩いているだけでも彫刻のように美しく、すれ違う観光客の令嬢たちが次々と彼に視線を奪われては頬を赤らめていた。
「ラニ様。今日は明日の出発まで、時間を気にせず貴女の好きなものを好きなだけ食べましょう。あちらの屋台からとても甘い匂いがしますね」
アドリー様が優雅な微笑みを浮かべ、私をある屋台へとエスコートしてくれた。
そこで販売されていたのは、エアルダール南部の特産品である甘酸っぱい果実をたっぷりと乗せ、その上に濃厚な生クリームを山のように絞った薄焼きのクレープのような可愛らしいお菓子だった。
私は満面の笑みでそれを受け取り、大きく口を開けてかぶりついた。
果実の爽やかな酸味と、生クリームの濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、歩き回って少し疲れた身体に心地よく染み渡る。
「とても美味しいですわ、アドリー様! この生クリーム、舌の上で一瞬で溶けてしまいます」
私が幸福感に浸りながら感想を伝えると、アドリー様は自身の分には手をつけず、ただ私の顔をじっと見つめていた。
そのサファイアの瞳には、ひどく甘く、熱を帯びた光が宿っている。
「ラニ様。少し、じっとしていてください」
彼が突然足を止め、私の顔へと自身の顔を近づけてきた。
何事かと私が瞬きをした次の瞬間、彼の整った顔が目の前に迫り、私の唇の端に彼の温かく柔らかい唇がそっと押し当てられた。
周囲の喧騒が、一瞬にして遠のいていくような感覚に陥る。
彼は私の口角に付着していたであろう生クリームを、指で拭うのではなく、自らの唇と舌で直接絡め取るようにして綺麗に味わい尽くしたのだ。
「……ん。確かに、とても甘くて美味しいですね。でも、僕にとってはラニ様の笑顔の方がずっと魅力的ですが」
ゆっくりと顔を離したアドリー様が、色気を含んだ低い声でそう囁き、艶やかに微笑んだ。
(ええええええええ!? これ、前世でプレイした乙女ゲームなら、好感度マックスの終盤ルートでしか絶対に見られないスチルイベントじゃない! 千五百円の追加ダウンロードコンテンツ並みの破壊力よ! 心臓の処理能力が完全に限界突破しているわ!)
私は顔から火が出そうなほど赤面し、手にしたお菓子を取り落としそうになるのを必死に堪えた。
動揺して固まる私を見て、アドリー様は嬉しそうに目を細め、さらなる追撃とばかりに私の右手を取ってごく自然な動作で指を絡めてこようとした。
恋人繋ぎ。
愛する人からの、ごく普通の愛情表現である。
しかし――私はその瞬間、恋心よりも先に極限のリスク管理能力を強制的に作動させた。
(駄目よ、ラニ! ここで私が感情のままに彼の手を強く握り返したら、アドリー様のこの細くて美しい指の骨が、乾燥した小枝のように無惨に砕け散ってしまうわ!)
私は自分の右手に一切の力を入れず、完全に脱力した状態を保った。
筋肉の出力を零パーセントに固定し、ただ彼の大きな手に包まれているだけという受動的な状態を貫く。
愛情表現はすべて、こちらからは物理的な圧力をかけないパッシブスキルとして受け止めることに専念しなければならないのだ。
私が一切指に力を込めないのを見て、アドリー様はそれを「大勢の人の前で手を繋ぐのを恥ずかしがっている」と愛らしく解釈してくれたようだった。
彼は手を繋ぐのを諦める代わりに、観光客で混み合う通りに出ると今度は私の背後から腰に腕を回し、他の誰ともぶつからないように自身の身体を壁にして私を完全に包み込みながら歩き始めた。
「少し人が増えてきましたね。はぐれないように、僕から離れないでください」
耳元で囁かれる声と、背中から伝わる彼の高い体温。
ただ歩いているだけなのに、私は彼からの底なしの溺愛という名の過保護な防壁に守られ、至れり尽くせりの状態だった。
(待遇が良すぎるわ……! これほど手厚い福利厚生と愛情を与えられ続けたら、もう前世の殺伐とした生活には絶対に逆戻りできない身体になってしまう……)
私は彼の腕の中で完全に庇護される喜びに浸りながら、美しいリゾート地の街並みを満喫した。
やがて陽が傾き始め、私たちは街の喧騒から少し離れた、湖を一望できる高台の展望台へと到着した。
夕陽が巨大な湖面を黄金色に染め上げ、水面が鏡のように周囲の山々を映し出している。
周囲には私たち以外に人影はなく、風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いていた。
「美しい景色ですね……でも、明日にはこの場所を離れ、公爵領の執務室へ戻らなければなりません」
アドリー様が湖を見つめながら、少しだけ名残惜しそうに呟いた。
そして彼は私の正面へと回り込み、両手で私の肩を優しく包み込んだ。
真剣な眼差しが、私を真っ直ぐに射抜く。
「本当は、このまま時が止まればいいのにと思ってしまいます……ですが、僕たちにはルサージュ領をさらに豊かに発展させるという未来が待っている。ラニ様がヤトゥルク鉱山の道を開き、インフラの基礎を物理的に整えてくれたおかげで、領地の基盤はかつてないほど強固になりました」
アドリー様の言葉に、私は深く頷いた。
現場監督としての私の物理的なタスク処理と、経営者としての彼の完璧な手腕。
私たちの夫婦のプロジェクトは、これからが本当の始まりなのだ。
「ええ、アドリー様。公爵邸に戻ったら、また次々と新しいプロジェクトを前倒しで進めていきましょう。私の筋肉が許す限り、どんな重労働でも……」
「ええ。頼りにしています。だからこそ、領地が安定した今、次に考えなければならない最も重要なことがあるのです」
アドリー様が私の言葉を遮り、さらに一歩、私の身体へと近づいた。
彼の大きな手が私の肩から頬へと移動し、愛おしそうに私の肌を撫でる。
「次に僕たちが取り組むべき未来。それは、ルサージュ家の血筋を繋ぐことです」
「血筋……」
「ええ。僕と貴女の愛の証である、次代の公爵のことです。ラニ様、僕は貴女との間に、貴女に似た誇り高く美しい子供を迎えたいと切に願っています」
アドリー様の口から紡がれた、あまりにも直接的で――そして、未来を見据えた真摯な愛の告白に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
(待って。後継ぎ……! 確かに公爵家という巨大な組織を存続させる上で、それ以上の重要プロジェクトは存在しないわ。アドリー様と私の子供だなんて、想像しただけで幸せで胸がいっぱいになる……でも!)
私の前世の社畜的な論理的思考が、即座に一つの重大な懸念事項を弾き出した。
(私に似た子供ってことは、もし私のこの圧倒的な怪力まで遺伝してしまったらどうなるの!? 新生児の泣き声の振動で病院の窓ガラスが割れたり、初めての寝返りで公爵邸の床が陥没したりしないかしら!? ベビーベッドは木製ではなく、特注のヤトゥルクメタルで溶接して作らないと大惨事になるわね!?)
私が未来の安全管理対策について脳内で凄まじい勢いで思考を巡らせていた――まさにその時だった。
私たちの足元にある展望台の地面が、大きく不自然に揺れ動いた。
地震ではない。
もっと局所的で、暴力的な衝撃だ。
夕陽を反射して橙色に輝いていた湖の中央部分が、突然、巨大な山のように盛り上がったのである。
――次の瞬間、鼓膜を劈くような凄まじい咆哮と共に、湖面を割って巨大な影が空へと躍り出た。
「な……なんですか、あれは……!?」
アドリー様が私を庇うようにして前に立ち、鋭い声を出した。
湖から姿を現したのは、全身を硬質な青い鱗で覆われ、背中に巨大な水かきのようなヒレを持った、古の伝承に語られるような凶悪な水竜だった。
竜の巨体が暴れるたびに、湖の水が大量の雨となって展望台や街へと降り注ぐ。
眼下の街からは、突如現れた巨大なバグのような魔物の姿に、観光客たちの悲鳴と、警備兵たちが鳴らす避難を促す警笛が鳴り響き始めた。
(……嘘でしょ。明日には帰るという有給休暇の最終日、しかも愛する夫と将来の家族計画について語り合っていた最高のムードの最中に、街を一つ壊滅させるレベルの特大の緊急トラブル対応が発生するなんて!)
前世のブラック企業でさえ、有給休暇中にここまで理不尽な休日出勤を強要されることはなかった。
私はロマンチックな雰囲気を木っ端微塵に破壊した巨大な水竜を見据え、深々とため息を吐き出した。
「アドリー様。どうやら、私たちの休暇はここまでのようですわね」
「ラニ様、危険です! ここは警備隊に任せて、早く避難を……」
「いいえ。あの規模の魔物では、この街の被害が甚大なものになります。それに……」
私は、特注のドレスの袖をゆっくりとまくり上げながら、不敵な笑みを浮かべた。
「有給休暇の最後に私の邪魔をしたあの魔物には、少々きつめのコンプライアンス指導が必要なようですわ」
幸せなデートから一転。
最強の現場監督である私の、理不尽な休日出勤の幕が切って落とされたのである。




