第二章第三節 雨夜の記憶、商都の陰
エルフの集落を出発したその晩、生憎の荒天に見舞われ、大雨に遭遇してしまったヴィクトリア達は
雨をやり過ごすため、険しい山道の途中にある小さな広場で夜を明かすことにした。
そこはかつて訪れたことのある場所で、数人が休めるほどの広さがあり、休息地としては申し分なかった。
「……見て、ヴィクトリア。あのときの岩、まだ残ってる」
エリザが指差す先には、懐かしい岩があった。
十年ほど前、みなで記念に印を刻んだ岩
時を経て薄汚れてはいたが、手で埃を払うと、あの日刻まれたままの、印が刻まれていた。
懐かしい思い出とともに、そっと岩肌に手を添える。
ざらりとした感触の奥から、遠い記憶が静かに蘇ってくるようだった。
――あの夜もまた、大粒の雨が降っていた。急いで雨を凌げる場所を探していたとき、ちょうど窪んだ岩場を見つけ、滑り込むように降りてきたのがこの場所だ。
仕舞い込んでいたホロを広げて簡易テントを張り、積んでいた炭にエリザのサラマンダーで火を灯し、暖をとった。
空腹をしのぐために余った食材を持ち寄り、手早く作った即席のスープを皆で分け合って食べた。
湯気の立つそのスープは少し塩気が強かったが、どこか優しい味がして、雨音とともに旅の疲れを静かに包み込んでいった。
あのときのアグニスのあたふたした顔、レオンが生真面目にホロの張りをきっちり直していた姿、そしてそれを優しい笑顔で見つめていたリュカさんの面影。
珍しい野生の植物に目を留め、端に生えた草を熱心に眺めていたエリザの姿も思い出される。
そんな昔話を二人で語り合っているうちに雨は止み、雲の隙間からは、あの日と同じように澄んだ夜空に鮮やかな星々が顔を覗かせていた。
雨避けのためのホロを岩の間に吊るし、屋根ではなくハンモック代わりにして、それを寝床に――ふたりはゆっくりと眠りについた。
夜が明け、ゆっくりと上ってくる淡い朝日の光で目を覚まし、再び空へと飛び立つ。
国境付近の難所を越えると、
眼下の景色は様変わりしていく、険しい山々は遠ざかり、なだらかな大地が広がっていく。やがて街道も見えはじめ、ここから先は風の力を借りて、労せず進むことができそうだった。
夕刻を迎える前に、目的地の駐屯地が視界に入る。
そこには先行していた第一師団の部隊、そしてセイフォルト軍の姿も確認できた。
野営地の中央には幕舎が設けられ、すでに戦略会議が始まっているようだった。
リンを滑るように着地させ、後ろのエリザを手早く降ろす。
さすがに疲れが出たのか、無言のまま肩を預けてきた。
「……任せたよ」
力の抜けた声とともに、ゆっくりと手が振られる。
ヴィクトリアは小さく笑みを浮かべ、彼女を椅子に座らせた。
その横顔をひとつ振り返り──そして、踵を返す。
向かうのは、指揮天幕。
意識はすでに、次の局面へと切り替わっていた。
襟元をキュッと正し、背筋を伸ばす。
一歩ごとに、意識を切り替えるように身体を引き締めていく
白布の天幕をくぐると、中では数名の軍関係者が円卓を囲み、地図と報告書を前に言葉を交わしていた。
こちらの姿を認めた瞬間、空気がわずかに引き締まる。
最奥の席にいた男が立ち上がり、深々と敬礼を送ってきた。
「ヴィクトリア様。ご多忙の中、任務ご苦労様です」
セイフォルト軍参謀、ヴォルク・バランジア。
肩まで届く白髪混じりの長髪を軽く揺らしながら、穏やかでありながらも、軍人らしい節度のにじむ声音だった。
その隣にいたもう一人の軍服姿も同様に立ち上がり、礼を添える。
「ヴェルディア先遣部隊トレイズ・アルスティアであります。お越しをお待ちしておりました」
軽く顎を引いて返礼すると、そのまま幕舎の奥へと歩を進め、指定された席に着いた。
「カロス将軍は、10日後に合流予定です。
第一師団全体の配備完了は……三週間後を見込んでおります」
書類に目を落としながらトレイズがそう報告する。
「空軍中隊は、6日後には合流できると思うわ。
今、北と東に部隊を分けているから、再編が少し手間なの。──それでも、急いでるほうだけどね」
わざとらしく含みを持たせて言い終えながら、視線を隣のヴォルクに向ける。
“そちらはどうなのかしら?”
そんな無言の問いを込めた眼差しに、ヴォルクは微笑を崩さず応じた。
「我が軍も、ザカール方面に散開して展開中です。
国境線が広く……どうしても、布陣は“点”にならざるを得ない。
熾天軍の皆様には、ご不便をおかけしてしまい、まことに申し訳ありません」
言葉の選び方は過不足なく、口調も極めて穏やか。
だが、その“丁寧すぎる”物腰は、どこか鼻についた。
軍人らしい節度を崩さぬまま、彼はさらに言葉を重ねる。
「即応展開そのものは可能です。
ただし、駐屯地周辺の基礎施設が未整備のため、そちらを現在急ピッチで整えております」
ヴィクトリアは腕を組み、その報告に頷きながらも、表情は崩さない。
──そして、話題は本題へと移った。
「さて……今回の任務についてですが」
一拍置いたヴォルクは、手元の地図に視線を落とす。
「内部筋からの情報によりますと──
ザカール国内における政争の火種が、一部の軍へ波及しているとのこと。
その影響で、武装した勢力がセイフォルト領内へ侵攻する恐れがある、という報告を受けております」
──言葉選びは丁寧、態度は殊勝。
だが、その一つ一つが“用意された演技”に見えてしまうのだ。
うつむく角度も、息を整える間の取り方も、語尾の震えさえ──
あまりに整いすぎていて、どこか芝居がかっていた。
(……丁寧すぎるのよ。現当主のロデリックと、あまりにも似ている。セイフォルトの家訓に従って、商人としての“演技”を見せているのかしら?)
(それとも、商人というのはこのように、すべてを整えた振る舞いをするものなのか。どちらにしても、引っかかる)
心の中でつぶやきながら、無言のまま相手の言葉を受け取っていた。
軽く眉をひそめ、先ほどのやり取りを蒸し返すように口を開いた。
「繰り返しになるけれど……あなたたちは“商業国家”よね?」
静かながらも棘を帯びた声音だった。
「ならば、商業に長けた者同士で、何らかの交換条件や経済的妥協を示せば、ザカールの勢力も抑えられたのではなくて?
それに――」
ちら、とヴォルクに視線を送る。
「貴方たちと関係の深いエレンデル商会は、ザカール連邦にも莫大な投資をしていたはず。経済的には支配に近い立ち位置よ。交渉次第では、事態の回避も不可能ではなかったはず」
そう呟くヴィクトリアの言葉には明確な疑念がにじんでいた。
どうしても納得がいかなかったのだ。
経済的に優位でありながら、それを行使せず、わざわざ軍を呼び、帝国の助力を仰ぐ――
その選択は、どうにも腑に落ちなかった。
その時、幕舎の奥から声がした。
「その件、私よりご説明を差し上げましょう」
現れたのは、小太りの中年男性。
手入れの行き届いた髭に、重厚な商人服をまとい、小刻みに体を揺らしながら口を開く。
「初めまして。エレンデル商会代表のグランと申します」
言葉は丁寧だが、その響きにはどこか作られたような“仕上がり”がある。
政治家の答弁を思わせる隙のなさ。
落ち着きのなさを装っているかのような身振りも、実際は商人特有の計算――商談の場で相手の注意を逸らし、主題をぼかすための誘導なのだろう。
「本来であれば、帝国元老院などでご説明すべきことですが……今回はセイフォルト家のご要請により、急ぎお伺いした次第です」
手を軽く叩くと、部下が書類を運び込んでくる。
「こちらがザカール連邦への投資一覧、および我々の影響下にある経済機関の資料です」
――そして、説明が始まった。
投資構造、資本移動、貿易利益とリスク、経済的ジレンマ……
要点を突くようで突かず、核心をわずかに逸らすような、よく練られた話術。
それを聞きながら、ヴィクトリアは静かに察した。
(……最初から、“回避する気”なんてなかったのね。
わざわざ熾天軍を動かして、軍予算を消耗させた挙句、議会で糾弾でもするつもり?)
これ以上話を詰めても、のらりくらりとかわされるだけだ。
そう判断し、軽く手を上げて話を遮った。
「それで……これからの予定は?」
促すように問いかけると、ヴォルクが静かに答えた。
「本格的な準備には、まだ少し時間を要します。今回の派遣は、あくまで“抑止力”としての駐留が目的です。
万が一、事態が悪化した場合への備えも含んでおりますが……帝国領への侵攻そのものを恐れているわけではありません」
「むしろ我々が恐れているのは、軍事衝突による“経済的損失”でありまして。
それを避けるための、最低限の措置としてご理解いただければと」
──つまり、これは“戦争”ではない。
あくまで、「戦争にならないための見せ札」。
「国を守るため」ではなく、「金を守るための軍配備」。
ヴィクトリアは肩の力を抜き、深く、ひとつだけため息を吐いた。
「……ご説明、ありがとう」
その声には、わずかに冷えた響きが宿っていた。
「じゃあ、確認だけど……国境の監視も、哨戒任務も不要ってことでいいのよね?
私たち空軍中隊まで呼び寄せた理由、そこにないのなら」
わずかに語気を強めながら問うと、返ってきたのは──
先ほどとほとんど変わらぬ言い回し。
単語を少し置き換えただけの、当たり障りのない回答だった。
(……もう、いいわ)
内心でため息をつきながら、ヴィクトリアは静かに視線を逸らした。
「それなら、私たちは少し休ませてもらうわ。強行軍だったから、ろくに休んでいないの」
そう言って、軽く顎でトレイズの方を示す。
「──トレイズさん。今の話、カロス将軍にも伝えておいて。
それと、うちの部隊が到着したら……私が戻るまでは“休暇扱い”ってことでお願いね」
最後の言葉には、どこか諦めにも似た冷淡さがにじんでいた。
まだ何か言いたげな顔のグレンとヴォルクに軽く一礼し、ヴィクトリアは足早に幕舎を後にした。
(……嫌な予感がするわ。これでは、私たちの戦力を多方面に分散させるための方便にしか思えない)
歩きながら、眉をひそめて思考を巡らせる。
(アグニスも気づいているはず。あの子のことだから、きっと何か手を打ってくる)
(セイフォルト領内の動き──自分の目で確かめるしかないわね)
そよ風を受けながら、ヴィクトリアは静かに視線を上げ思考を切り替える。
エリザが休んでいる幕舎に立ち寄り、先ほどの件を簡潔に説明した。
この子はこの子で、いつも物事の核心を自然と掴んでしまう。だから、細かく語らずとも話の全体は伝わったようだった。
幸い、先行部隊とは別に兵站軍の連隊もすでに到着していた。
リンを預け、市街地へ移動することにした。
熾天軍では、空軍との連携が常態化しており、翼竜の世話や健康管理を専門とする術者たちも随行している。
そのため、命と同じくらい大切な存在を、安心して任せることができた。
──もし、彼らがいなかったら。
この地に翼竜を残すなど、到底できることではなかった
軍の馬車を拝借し、エリザとともに乗り込むと、ヴィクトリアたちはセイフォルトシティへ向かった。
駐屯地からは数時間程度の距離だ。
この地はザカールとの国境に近く、戦が起これば遠距離魔術の射程に入る恐れがある。
そのためセイフォルト軍は前線の部隊配置に神経を尖らせ、駐屯地の兵士たちも些細な変化に過敏なのはわかる。
加えて今は半年に一度の大市の準備期。大陸中の商人や旅人が集い、帝国の威信を示す舞台ともなるのでおかしな事ではない。
しかし経済的に隣国を支配してるとも言われている間柄でその様な軍事衝突は一度も起きた事はない。現に国境封鎖などもせずに街道から人の出入りが途絶えてさえないのだ。
馬車に揺られながら数刻すると城壁が見えてきた。皇家軍の馬車であるため検問所の横の公務用街道から市街地に近づくと、そこには戦火の緊張とは異なる気配が広がっていた。
陽光にきらめく運河、整然と敷かれた石畳――ルミナスの荘厳さとは別の自由で洒落た雰囲気が漂っている。
帝国は六つの皇家から成る連合国家であり、それぞれが異なる歴史と気質を背負いながらも、表向きは緩やかな共存を保っていた。
その中で、セイフォルト領ははひときわ異彩を放つ国家でもある。国というより商業都市の集まりといっても良い。中でもセイフォルトシティは郡を抜いている。
街道沿いには多数の商店が軒を連ね、人波が絶えることはない。
西大陸屈指の経済規模と人口を誇り、都市中央の湖から伸びる水路は、グレイアントや帝都ルミナスへと繋がっていた。
湖畔の港には大商会や貴族の船が並び、桟橋では貴婦人や随行を伴う要人の姿が行き交う。
その周囲には商人や職人、旅人に芸人と、身分も種も入り混じった人々の姿が絶えない。
その多様さこそが、この街の“色”を形作っていた。
賑やかな街並みを、馬車の窓から眺めていると、
道すがらエルフの商人と思しき人影が目に入った。
その瞬間、ヴィクトリアの胸に、ふと過去の記憶がよみがえる。
──ネリアに初めて出会った頃のことだ。
「この地が暮らしにくいのなら、セイフォルトに移ってはどうか」
かつて彼女にそう提案したことがあった。
実利を重んじ、他の事には寛容なこの都市なら、きっと彼女も心安らぐのでは──そう考えたのだ。
ここセイフォルトには、目立った差別がほとんどない。
利益が体裁や外見よりも優先される風土ゆえ、人々は他種族にも比較的寛容で、エデリア教よりもアルカデア教の教えが広まっている。
ただし、魔族や完全獣人の姿は、西大陸の他の国と同じく、ほとんど見かけることはない。
そうした背景を踏まえての言葉だったが──その一言をきっかけに、彼女との間には少しずつ距離が生まれてしまった。
以来、ほとんど交流もなくなり、数年前ノルヴィックでの任務中に再会したときでさえ、その隔たりは埋まらなかった。
互いに成長したせいか、社交辞令めいた会話を交わすことはできた。
だが、心の奥にある感傷だけは、どうしても言葉にできなかった。
そんなヴィクトリアの胸中とは裏腹に、
窓の外では商人が声を張り上げ、子どもたちが笑いながら駆け回っていた。
華やかな喧騒のただ中で、彼女の静かな翳りはゆるやかに溶けていった。
やがて馬車は街の中心部へと近づき、遠くにエレンデル商会の建物が見えてくる。
そこで馬車を止め、眠っていたエリザを起こし、散策を兼ねて情報収集をすることにした。
馬車を降りると、喧騒に熱気が加わり、四方から押し寄せる声と音がさらに街を彩っていた。
大通りの両脇には商店や飲食店が軒を連ね、中央には大陸各地から集まった露店が並ぶ。
大市の規模は西大陸随一――合法的な品揃えにおいては、世界屈指の商業圏といえるだろう。
出店の準備に追われる商人たちを横目に進む。
店先には、レヴァンティンの魔法水で作られた水時計や、ドワーフ産の包丁。蒼島の竹で作られた「筆」、各地の羊皮紙……珍しい品々が次々と目を引いた。
古書を並べる店の前で、エリザが足を止めて動かなくなる。
まだ準備中だからと声をかけ、歩を進めさせるが、こうした様子はいつものことだ。
会議の緊張も解けたのか、歩きながら小腹が空いたと話し、食事の話など他愛もない会話を交わす。
ふと視線を逸らして街の賑わいに目をやり、隣へ戻したとき――エリザの姿が消えていた。
「もう……あの子ったら、また何か珍しいものでも見つけたのね」
呟きつつ周囲を探す。
中央通りから少し外れた場所に、見慣れた帽子がひょっこりと見えた。
それを目印に、小走りで駆け寄っていく。




