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武士大神(もののふおおかみ)   作者: ぽんた


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暗殺

「副長、そろそろですよ」

 八木邸で見張りをしていた井上源三郎いのうえげんざぶろうが、番傘をとじながら報告した。


 夕刻から降りはじめた雨は、いまではすっかりこの壬生村の地を激しく濡らしている。


 前川邸で控えていたのは、土方、沖田、山南、原田、井上の五人だ。ここで暗殺の相手が眠りにつくのを待っているのだ。


 島原の「角屋」では、まだ宴会が続いているはずだ。


 そこで主催者である局長の近藤は、心中穏やかではないひとときを過ごしているだろう。


「正面入ってすぐの六畳間で平間ひらま桔梗屋ききょうや吉栄きちえいと、奥の十畳間では真ん中に衝立を置いて平山ひらやま輪違屋わちがいや糸里いとさとと、芹澤はお梅とそれぞれ同衾しています」

 井上は、仕度を整えながら報告をつづけた。


 芹澤一党は、宴会でしたたかに酔った。


 芹澤、平間、平山の三人は呼び寄せた駕籠に押し込まれるようにして壬生へとかえっていった。


 芹澤の取り巻きの一人である野口健司のぐちけんじだけは、「角屋」に残って馴染みの芸妓と部屋をかえ、そのまま寝込んだようだ。

 

 すべてが予定通りだ。


 残った野口は、神道無念流をそこそこ遣う。だが、たった一人残されたところで大それたことはできぬだろう。

 いましばらくは生かしておいても害はない。いずれどうとでもすればいい。

 土方は即座にそう判断した。


 事実、野口は密かな監視の下しばらくは隊務に従事していたが、この年の師走に切腹を申し付けられ、果てることとなる。

 

 井上が全員に番傘を手渡していった。

 全員が今から起こるであろうことに対して気鬱だった。この降りしきる雨がますますそうさせていた。


「歳さん?」

 井上が試衛館にいた頃の呼び名を耳朶に囁いた。

 これが許されるのは、近藤と沖田、そしてこの井上のみだ。無論余人のいないところにかぎってである。

 その沖田や井上ですら、いまでは遠慮して滅多に口にはださぬ。

 よほど土方のことが気にかかるのだろう。


 おれの顔はそんなにひどいのか?

 土方は内心苦笑した。それから、「大丈夫だ、源さん」と兄弟子に囁き返す。


 井上は、近藤一派の最年長。天然理心流免許皆伝ではあるが、さして剣の腕はぱっとしない。

 若い時分ころから努力と忍耐とを重ねつづけ、十年以上かけてやっと、というよりかはかろうじてそれを得ることができた。

 井上にしてみればこれで十分だ。

 近藤や土方と五、六歳しか離れていないのにすでに初老の雰囲気を醸しだしている。農作業で肌は陽に焼け、つねに人好きのする表情で周囲を和ませてくれる、好々爺たる感もあった。

 外見は細いが、二の腕や太股には剣術と農作業で培われた筋肉がしっかりついている。

 戦闘員というよりかはその真面目さや人当たりのよさから、おもに外交や世話役をうけもっている。

 優しく世話好きではあるが、その一方でかなりの頑固者でもあった。一度いいだしたらてこでも他人ひとの言はうけいれぬ芯の強さももちあわせている。

 ちなみに、井上家は八王子千人同心の家系で、沖田家とは遠縁にあたる。

 なにゆえか、この井上にだけはみな頭が上がらぬ。近藤や土方ですら。


「左之は?心もとないだろうが堪忍してくれよ」

 気を取り直し、土方は五人のなかで一番長身の原田左之助はらださのすけに声をかけた。


 土方に負けぬほどの美丈夫で、背も高くまるで役者のようだ。しかも、女子おなごにたいして優しく気が利き、話題も豊富。島原や祇園だけではなく、この世の、女子おなごの憧れの君といっても過言ではない。

 だが、野郎おとこどものなかにあっては粗野で短気、典型的な武人である。

 松山藩脱藩で、昔、中間ちゅうげんをしていた時分ころにその短気が災いし、売り言葉に買い言葉で腹を斬ったことがあった。いまでもくっきりとその傷跡が残っていて、その傷跡の一文字を家紋にしてしまうという諧謔かいぎゃく的な面もある。

 宝蔵院流槍術の遣い手で、その槍さばきはかなりのものだ。


「ああ、わかってるさ。狭い屋内で愛槍を振りまわすほど、おれも馬鹿じゃない。それに、おれはこいつだってそこそこ遣えるんだぜ。わかってるだろう、土方さん?」

 原田は、自身の左腰の得物をぽんぽんと叩いた。

 こんな軽口でも気を紛らわせるために吐かずにはいられなかった。


「山南さんは?」

 山南は、陰気な表情で頷いた。


「総司?」

「愚問ですよ、豊玉宗匠ほうぎょくそうしょう?」

 沖田はくっくっと笑った。


「豊玉」とは、土方の俳号だ。土方の趣味である俳句は、仲間たちの間ではいい笑いの種だった。その腕前のひどさはかなりのもので、ここまでひどいとかえって清々しい。


「なっ!総司、覚えてろっ!」

 土方は気色ばんだがすぐに表情をあらためた。ほかの者は苦笑している。


「ころあいだ。ゆくぞ」

 五人は前川邸を走りでた。

 番傘にあたる雨粒の音がうるさく、それがやけに耳朶に響いてきこえる。

 殺されようとしている者たちに、この音が届かないでくれればいいが・・・。


 そう、もう狩りははじまっている。

 すでに後戻りできぬところまでいっている。


 八木邸内は静まり返っていた。すでに九つはまわっているだろう。八木家の家人たちも眠っているはずだ。


 八木家の門前で、番傘は打ち捨てていた。邸内に入ったところで、全員が頭巾をかぶる。


 打ち合わせどおり、五人は草履を履いたまま玄関から宅内へと上がりこんだ。

 畳は泥と雨水とで汚れただろうが、まったく灯りのないなかではそれもよくみえない。


 六畳の間に、音もなく井上が入っていった。

 平間を殺るには井上だけで十分だ。

 残りはそっと奥の十畳間に入った。

 そこにはまだ、男女の睦事の余韻が漂っている。


 暗闇のうちで四人は頷きあった。

 芹澤はさることながら、平山もまた隻眼のわりには神道無念流をよく遣う。


 原田が衝立に体当たりした。それはあっけなくふっとび、左側に敷かれている布団へと落ちていった。その衝立を踏みつけながら、原田そして山南がそれぞれの得物を抜き放った。


「ひっ、ひー」

 平山と同衾していた輪違屋わちがいや糸里いとさとが、もがきながら衝立の下から這いでてきた。

 腰巻だけの姿だ。

 この時分ころには、徐々に目が闇に慣れてきた。

 いちはやく女の動きに気がついた山南は、抜き身を振って「いけ」と合図した。

 よほど胆をつぶしたのだろう。女は声をたてることすらせず、這うようにして部屋からでていった。

 

 それを見届けた山南は、原田にならい衝立に向け得物を突いた。

 正確には、衝立の下にあるものに向け、幾度も得物を突きたてた。

 

 おそらく、衝立は平山の血で真っ赤に染まってしまっただろう。もう使い物にはならないはずだ。


 平山は死んだ。眠ったまま虐殺されたのだ。


 部屋の反対側では、土方と沖田がそれぞれの得物を抜き放ち、五感を研ぎ澄ませていた。闇のなか、二人は同時に対象の姿を認めた。


  局長の芹澤は、褌姿で片膝を畳につけ、抜き放った脇差を構えていた。

廊下とは反対側の部屋の隅で、その愛妾のお梅が肩から夜着をかけた姿で打ち震えている。


 五人の放つ殺気は、標的である芹澤を正気づかせたのだ。そして、刺客どもを迎える時間ときを与えてしまった。


「・・・」

 土方も沖田もその場に凍りついた。


 芹澤は、「角屋」で意識がなくなるほど呑み潰れ、駕籠に押し込まれてかえっていったはずだ。だが、いまはこうして対峙している。

 それが放つ殺気は凄まじく、さしもの二人も息を殺し、たっているのがやっとだ。


 芹澤は、神道無念流免許皆伝だ。その腕前はかなりのものである。

「水戸天狗党」に属する以前から、ことあるごとに他者ひとを斬りまくっていた。それが武士であろうとなかろうと。

 さほど巨躯ではないが、その発する気だけでそこらにいる浪人風情なら、尻尾を巻いて逃げだしてしまう。

 人相は控えめにいっても凶悪そのもの。笑みを浮かべると、さらに禍々しさを感じさせた。酒をこよなく愛し、それ以上に暴れることが大好きだ。そして、この京に「浪士組」の一員として上洛するずっと以前から、瘡毒がかれの心身を侵しつづけ、酒がその身に入っていようといまいと、奇行暴挙が絶えなかった。

 いつも「盡忠報國じんちゅうほうこくの士」と刻まれた鉄扇を握っていて、それで気に入らぬ相手をぶっ飛ばすのがつねである。


 その芹澤と対峙している。発せられる殺気と怒気が、みえぬ重石となって襲撃者の二人を、ともすれば押し潰しそうだ。


 襲撃者たちもそれぞれの得物を構えた。頭巾のうちで冷や汗が流しながら。

 土方も沖田も、この強敵をまえにし、わずかに浮き足立っていた。


「土方、それに沖田か・・・」

 その唸りは声は、酒焼けしていた。

 夜目のきく芹澤は、この不敵な襲撃者の構えが天然理心流の独特のそれであることを、瞬時にみてとった。

 実戦的な天然理心流の構えは、剣先がわずかに左により、脚は左右ともにわずかに外側を向く。


 芹澤は冷静だった。今夜の襲撃を予見していたからだけではない。


「いざっ」

 短い気合とともに、沖田は機先を制しようと打ちかかろうとした。だが、大きく振りかぶられた「加州清光」の切っ先は、鴨居にあたってしまった。慌てて抜こうとするが抜けない。その刹那、芹澤が間合を一気につめ、脇差を一閃させた。

 芹澤は、狭い屋内での闘い方を熟知している。

 太刀より脇差や短刀のほうが、狭い場所では効果的なのだ。


「くっ・・・」

 頭巾が斬り裂かれた。反射的に身を引いた為、鼻と口唇の間の皮一枚を斬られただけですんだが、傷口から血が垂れ、それが口中に広がった。


 すでに芹澤は脇差を返している。すさまじい速度と威力とを備えた二撃目が沖田を襲う。

(しまった・・・)

 いまだ鴨居にめり込んだままの「加州清光」の柄から手を離したが、脇差を抜く暇はない。無論、素手でうけるわけにもいかぬ。


「ガチッ」と鈍い金属音が響き、同時に火花が散った。


 芹澤の脇差と、土方の「和泉兼定」が激突した。

 両者の間に割って入った土方は、芹澤の力をわずかに凌駕し、その体勢を崩させることができた。

短い舌打ちを残し、芹澤は身をひいた。足許に置いていた愛刀と脇差の鞘をひっつかむと立ち上がり、そのまま転がるように寝所から走りでた。

 廊下を渡れば八木家の母屋があり、そこでは八木親子が就寝しているだろう。


「女を・・・」

 追うまえに、土方は片掌で顔の傷をおさえている沖田に囁いた。

 たったこれだけのことなのに、二人とも荒い息をしていた。

 それほどまでに、芹澤との対峙が心身を疲労させたのだ。


 沖田が頷くよりもはやく、土方もまた十畳間を走りでていた。


「加州清光」を、鴨居からようやくひき抜くことができた。

 鼻の下の傷の血は、いまだ止まりそうにない。

 自身の得物にを遣る。

 この暗さではよくみえないが、「加州清光」が刃毀れしていることは間違いない。


 情けなかった。芹澤にたった一太刀も浴びせることもできず、このていたらくだ。


 そこでようやくわれに返った。土方の命を思いだしたのだ。

 振り返ると、女はまだそこにいた。

 部屋の隅で柱に背をあずけ、震えながらこちらをみている。


 ゆっくりと歩をすすめた。できれば逃げだしてほしかった。斬りたくはない。斬らせないで欲しい。が、芹澤の愛妾は、そんなかれの願いを叶えることなく、ただそこにいた。

 闇のなか、すでに死を覚悟しているのだろうか。恐怖と不安とにさいなまれているのだろうか。憂いを含んだ双眸でかれをみつめているのだろうか。

 思わず「逃げろ」、と声を張り上げそうになった。その衝動を、理性がかろうじておしとどめる。


 いつの間にか、かれは女の横に小さな人影があることに気がついた。

 なんの気配も気も感じさせぬその存在は、土方の二本の懐刀のうちの一本である少年だ。


 頭巾で相貌を隠すわけでなく、いつものように沖田のお下がりである黒色の擦り切れた木綿の着物はかま姿である。この背丈では、すぐにだれであるかみてとれる。隠し立てする必要はない。


 沖田がその人影を少年であると認識するよりもはやく、少年のほうが先に彼に軽く頷いてみせた。それから、少年は芹澤の愛妾に向き直った。

「大丈夫です。なにも怖くはありません。すぐにあなたの大切なひとも送ってあげますよ」

 沖田がみているまえで、少年はお梅の頸に両腕をまわし、その耳朶に囁いた。

 優しくて穏やかな声音だ。


「おれのことを心配してくれてありがとうございます」

 少年は優しく微笑んだ。それから、少年はお梅の口唇に自身のそれをそっと重ねた。


 まるで子が母親にするような接吻だ。お梅は、驚きの表情かおになったが、すぐにそれに応じようとなんとか笑みをうかべた。

 この血なまぐさい光景のなか、彼女のには子どもという存在はさることながら、その行動も奇異に映ったに違いない。


 少年は、女の頸にまわしていた腕を放した。女の肢体を畳の上にやさしく横たえさせる。


「お返しします、沖田先生。後はお任せします。おれは副長を・・・」

 その妖艶ともいえる場面をただ呆然とみつめていた沖田は、少年が脇差を差しだしていることに気がついた。

 それは、よくみると沖田自身の脇差だった。仰向けに横たわっているお梅へと視線を移す。


 すでに少年はきえていた。


 うけとった自身の脇差に血糊はついていないだろう。そもそも腰から脇差が抜かれていたことにも気づかず、少年はどうやったのかお梅はすでに息絶えていた。


 お梅に近寄り、その側に跪いた。お梅の双眸は閉じられていて、口許にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。右掌をゆっくりと伸ばし、頸に触れてみた。頸筋になにかがついたようだが、それはかれ自身の口唇の傷の血に違いない。

 切断面の確認は、この暗さでは困難だ。だが、頸は切断されているだろう。血を噴出させないばかりか、頸を完全に切り離してしまわない手練は、少年が非凡な剣の才のもちぬしであることをあらわしている。

 暗殺における技の・・・。


 芹澤の愛妾お梅は、自身そうとは気づかぬまま果てた。


 沖田はしばし、死者に対して黙祷した。それから、覚悟を決めてたち上がった。

 これからかれがすることは、およそ武士がするものではない。否、人としてすべきことではないのだ。


 おもむろに「加州清光」を軽く一閃させた。一振り、二振りと得物を振るい、死者を冒涜した。


 今宵、ここで死ぬ者たちは、あくまでも長州系の不逞浪士たちの襲撃にあって死んだことにしなければならぬのだ。


 やりきれなさがますます募った。剣を振いながら、こんなことの為に、死んだ女の体躯に傷をつける為に、これまで剣の修行をしてきたわけではないと心底思った。

 自分自身が情けなく、許せない気持ちでいっぱいだった。


 だが、その一方でお梅を殺せなかったことも事実だ。少年が殺らなければどうなっていたか・・・。自分自身、それも許せなかった。


 かれの口中には、血以外にも塩辛いものが混じりひろがった。


 頭巾をかぶっていてよかった、と彼は心からそう思った。


 母屋では、やはり八木一家が就寝中だった。


 芹澤が転がり込んだ部屋には、八木家の子どもたちが眠っていた。

 慌てているうえに暗がりだ。部屋に入った途端に文机に蹴躓いてしまった。

 転倒したと同時に、眠っていた子どもの一人が悲鳴をあげた。転倒した拍子に、かれが握っていた脇差の切っ先が寝ていた子どもの一人 勇之助ゆうのすけの足の裏にあたってしまった。皮膚が斬り裂かれた。


 芹澤は、起き上がると泣き喚く勇之助や他の子どもたちをよそにまた走りだした。

 途中、八木家の当主である八木源之丞やぎげんのじょうの着物や帯が着物掛けに吊るしてあったのをみつけ、それらをひっつかんで走りつづけた。

 脇差を口にくわえ、愛刀は脇に抱えて走りながらそれに腕を通し帯をしめた。

 かなり乱れてはいたが、それでも褌だけの姿よりかはいくらかましというものだろう。

 脇差を鞘に納め、大小ともに腰に帯びる。その時分ころには、八木家の前庭に飛びだしていた。

 雨は小康状態になっていた。地面はぬかるんでいる。


 芹澤が母屋のほうを振り返ると、ちょうど土方が追いついてきたところだった。おなじように庭に飛びおり、その場で歩を止める。


 素足の芹澤とは違い、土方は草履を履いたまま八木邸内を駆けまわったことになる。


 明日はきっと、八木家の家人は邸内の後片付けに奔走することになるだろう。おれ自身の亡骸も含めて・・・。

 自嘲めいた笑みが芹澤の口の端に浮かぶ。


 頭巾の刺客が音もなく抜き身を構えようとしているのが感じられた。芹澤もまた、自身の愛刀を抜き放った。

 これまでおおくの人の血と憎悪とを存分に吸ってきたそれは、やはりこの最期の夜も禍々しい気を発していた。

 このくらいの雨粒では、到底この邪悪な気は拭えぬであろう。


「・・・」

 芹澤は息を呑んだ。いつの間にか、自身の間合どころか三尺と離れていない位置に小さな人影が佇んでいることに気がついたからだ。


 いまだぽつりぽつりと雨粒が落ちてくるなか、土方の懐刀は横を向いていたがゆっくりと芹澤に向きなおった。いまや文字通り芹澤の懐を脅かす位置にいる少年。しかし、小さな暗殺者にとってはちょうどいい間合だ。


 殺気や闘気というようないかなる気を発することなく、気配すら感じさせない。否、存在感すらなかった。


 浪士組の徴募に応じて集まった江戸の伝通院でこの少年をみたとき、芹澤は生まれてはじめて得体の知れぬ恐怖を味わった。

 年端もいかぬその餓鬼がきは、まったく存在感がなかった。まるで無だ。ただ視覚だけが捉えているに過ぎない。もしも、これを餓鬼がきが自らの意思でおこなっているのだとしたら、それはとてつもなく怖ろしく、また尋常ではない所業だと心底ぞっとした。


 雨粒が芹澤の両頬をつたった。否、冷や汗か・・・。

 そう思う間もなく、ぐいと自身の相貌が少年のそれへと引き寄せられた。

 少年がかれの頸に両のかいなをまわし、そのままかれの頭部を自身の相貌に引き寄せたのだ。その反動で、かれの両膝がぬかるんだ地面にめりこむ。


 闇のなか、芹澤は少年の両のを覗き込んでいた。黒いは、夜の闇よりも深くて濃い。まるで自身の人生そのもののようだ。抗おうとしたが、少年の両のかいなのなか、自身の頭部は一寸とも動かせず、太刀を握る右腕もまた痺れた感覚があるだけで動かすことができぬ。


 戦慄した。このまま死ぬのだ。否、やっと死ねるのだ・・・。

 土方という武士を騙る農民の命により、この得体のしれぬ餓鬼がきに殺られるのだ。


 この餓鬼がきは、木刀でうちのめしたときも夜な夜な犯してやったときも、さして堪えていないようだった。


 組み敷き後ろから犯した際、すんなりと芹澤自身のもの・・が入ったのには、正直驚いた。

 近藤一派にそういった性癖の者がいないとしっていたので、余計に驚いたのだ。

 そして、少年の着物の下にある無数の傷や火傷の痕。そのなかでも、とくに心の臓の辺りにある刺し傷とうなじにある刀傷は、とても生きていられるような傷痕ものではない。


 この餓鬼がきは、いったいなんだ?

 芹澤は、素面でいるほんのわずかなひととき、そのことばかり考えていた。


 どこかで特別な訓練や修行を積んだのか?素破乱破の類か?朝廷か幕府のお庭番や隠密の類か?そんなたわいもないことを考えたものだ。

 結局、そのゆきつく先は混沌とした謎のみだ。


 なにゆえ土方ごときに?田舎道場の目録にすぎぬ、武士でもないおとこに付き従っているのか?これもまた、芹澤にとっては不可解きわまりない。


 たしかに、土方には才覚がある。生真面目で一直線に突きすすむような性質たちの近藤より、よほど世にでる可能性はあるだろう。だが、そのくらいのおとこならば、この京だけでもいくらでもいる。 

 土方には、まだなにかあるというのか?


 もしかすると、土方のまだみぬなにかとこの餓鬼がきがあわされば、世が世なら天下をとることもできるやもしれぬ・・・。

 あるいは、おれはただたんに土方と餓鬼がきの絆を、そして、未知の可能性を妬んでいるだけなのか・・・。


「芹澤さん、考えたって答えはでませんよ」

 突然、耳朶に囁かれ、芹澤は視線だけを少年へ向けた。この暗がりであっても、なにゆえか互いのに互いの姿が映っているのがみてとれる。


 この餓鬼がきは、おれの考えていることをよんでやがる・・・。


餓鬼がき、なに者だ?なにゆえ土方に仕える?」

 芹澤は、唸り声にもちかい声音で訊いた。だが、少年はなにも答えぬ。おそらく、そのつもりもないのであろう。


「芹澤さん、あなたの望みがやっと叶うのです。やっと・・・」

 まったく違うことを、じつに穏やかな声音で告げる。

 つぎは芹澤が沈黙する番だ。


 やはり、この餓鬼がきはすべてわかっているのだ。


「もう、苦しまなくてもいいのです。怒ることも憎むことも、悔しく思ったり不安に苛まれることもない。そういったものとは無縁になれるときがきたのです」

 囁き声がつづく。


 少年の吐息が芹澤の右の耳朶をくすぐった。

 こんな状況のなかにあって、なにゆえか芹澤は欲情した。


「お梅さんがさきに逝ってまっています」

 その言は、この少年が自身の愛妾を殺ったことをはっきりとしらせた。


 お梅はいい女だった。だが、こんな馬鹿にいれあげ、そしていれあげられたのがあいつの運のつきだったのだ。

 気に毒な女だ・・・。


 不意に少年が芹澤の口唇に接吻した。

 それにはさしもの芹澤だけでなく、固唾を呑んでみ護っている少年の主をも驚かせた。

 土方は、無意識のうちに呻き声を洩らした。


「いまのがお梅さんの気持ちです」

 芹澤の口唇を解放した少年がまた囁いた。


 不運ではなかった、と?たとえ殺られたとしても?

 ほんの一瞬ではあったが、女の笑顔が芹澤の脳裏をよぎった。

 そうか待っているかこのおれを・・・。

 いまや芹澤の頬で、雨粒、冷や汗、涙がまじりあっている。


「土方の甥だ?天然理心流だ?貴様はそんなもんじゃないだろう、えっ!」

 芹澤はわめいた。

 せめて、何者・・に殺られるかだけでもしりたかった。


 芹澤は、餓鬼がきの口の端に笑みが浮かんだのを、一瞬みたような気がした。あいかわらず、餓鬼がきからはなにも感じられない。あれだけ心身ともに痛めたのにもかかわらず、だ。


 いよいよ殺られる。もはや抵抗する気力すら起こらぬ。すでに自身は負けていたのだ。

 江戸の伝通院で、この餓鬼がき視線があったあのときに・・・。


 芹澤は、かろうじて視線だけを前方に向けた。そこには、二人の様子をみつめている土方がいる。

 じょじょに二人との間合を詰めていた。愛刀の「和泉兼定」を構え、いつでも斬りかかれる様備えている。その剣先は、やはりわずかに左に傾いている。


(土方っ!地獄でまっているぞ。せいぜい武士さむらいごっこを愉しむがいい)

 芹澤は、心中で吠えた。しょせん、負け犬の遠吠えであることを承知しつつ・・・。


 刹那、視界の下方で鈍い光がはしった。


「あいにく、地獄にゆくのはあなたとおれだ、芹澤さん」

 遠のいていく意識のなか、餓鬼がきの声がきこえたような気がした。


「さようなら」

 芹澤の頸を、皮一枚残して切断した脇差を、そのもち主の鞘に戻すのと両のかいなを頸から放すのとがほとんど同時だった。

 少年は、そのまま後方へと宙返りした。その跳躍力はすさまじく、小さな体躯が宙を舞っている間に、土方が一気に間合を詰めてきた。


 さして血を流すこともなく、頸はいまだ皮一枚でつながっている。糸を切られた操り人形のごとく、芹澤の上半身がぬかるんだ地面に倒れこむよりもはやく、繰りだされた土方の刀の切っ先が芹澤の心の臓を貫いた。


 合流した沖田、山南、原田、井上とともに、元局長だった武士の遺体を斬り刻んだ。


 すでに少年の姿はない。小雨が五人の襲撃者と惨殺体とをいつまでも濡らしつづけた。


 新撰組局長の一人芹澤鴨は、長州系の浪士の集団によって惨殺された。


 これにより、三人目の局長たる近藤勇がいよいよ台頭することとなる。


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