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第一章 ムシバミ

 左右の前肢の先で、それぞれ小さな獲物を地面に押さえつけたオオアリは、大きく開いた顎を左右に振り、周囲でまごつく獲物の仲間二匹を威嚇した。

 蟻としては標準的な大きさであるオオアリと、獲物たちの体格差は歴然だ。獲物の体高は、オオアリが伸ばした前脚にも満たない。弱肉強食の世界で「大きいこと」は生き残るための高いアドバンテージとなる。

 押さえ付けられた獲物たちは懸命にもがくが、実際のところ、逃れようもない。ほとんどの蟲は強靭な筋肉組織を有しているが、中でも蟻類の筋力は秀でており、自分の何倍の大きさの物でも軽々と運ぶ事ができる。体格で著しく劣る獲物などに、逃れる術は残されていないのだ。

 オオアリを遠巻きに囲んで蠢いていた獲物の仲間のうち、一匹は既に逃走を始めていたが、残った一匹は勇敢にもオオアリに向かって棒を投擲した。棒の先端は削って尖らせてあったが、オオアリの胸甲にいとも簡単に弾かれてしまう。全身を分厚く堅牢な外骨格で包んだ蟲に対し、小生物の生半可な攻撃など全くの無力だ。棒を投げたその一匹も、己の攻撃が全く功を奏さないと知るや、悲鳴をあげ一目散に逃げ出した。

 オオアリは逃げた者たちは意に介さず、右肢に捕えておいた獲物にかぶりついた。大きな顎が獲物の肉を裂き、骨を砕き、四肢をバラバラにしながら喰らい尽くしていく。あっと言う間に一匹を跡形もなく腹におさめたオオアリは、残った一匹を両方の前肢で挟み、天に捧げるように高く持ち上げ、くるりと方向転換した。獲物は細く呻き声をあげるが、オオアリの表情はもちろん変わらない。そもそも蟲に表情筋など存在しない。

 だから、突然オオアリの動きが止まった理由を、その表情から窺い知る事はできない。が、オオアリは明らかに警戒していた。

 真正面から向かってくる、奇妙な小生物に。

 オオアリには「そいつ」が何なのか分からなかった。

 たった今喰らったばかりの、そしてこれまで数えきれないほど餌にしてきた獲物たちのように、手足がそれぞれ二本ずつしかないため、「人間」に似ている。二本足で立ったその体高も、自身の前脚の長さに満たないほどの小ささだ。

 しかし、その身体を覆っている外殻は、オオアリのそれと同じく黒鉄色に輝いている。

 まるで、蟲が直立したかのような異様なかたち。

 何より、そいつの発している気配が自分と同じだという事に、オオアリは戸惑った。狩られる者ではなく、狩る者……イマーゴと呼ばれる者が放つ、死の気配に。

 オオアリの一瞬の逡巡を、訓練された狩人であるイマーゴは見逃さない。刃先を寝かせ突撃体勢に構えていた長槍を肩に担いで背をそらし、駆け続けながら投げ槍の要領で天に向けて投擲する。放たれた長槍は大きく放物線を描き、徐々に落下しながら加速、最大の貫通力をもってして、オオアリの背甲を刺し貫く……ことはできなかった。

 撥ね返された長槍はくるくると回転し、背後の岩壁に突き刺さる。

焦ったイマーゴは腰に吊るした短槍を抜こうとして、手を滑らせた。落下した短槍の鋭い刃が、足元の堅い岩盤に深々と埋まる。

 オオアリは弱った獲物を頭上に掲げたまま、最も優れた感覚器官である触覚を、落とした短槍を慌てて拾うイマーゴに向けた。

 蟲が人間を攻撃する時、ほぼ間違いなく「突進」を選択する。蟲は人間を戦うべき敵ではなく餌としてしかみなしていない。戦術など不要なのだ。

 オオアリは後ろ脚をたわめ、驚くべき速度で飛び出した。高密度な蟲の筋組織は、巨躯に見合わぬ速度での移動が可能だ。獲物を掲げた前脚以外の全ての脚を動かし、ほんの数歩で最高速度へと到達する。

 ぐんぐん迫ってくるオオアリに対し、イマーゴは拾ったばかりの短槍を投げ付けた。

 眉間目掛けて飛来する短槍を意にも介さず跳ね返したオオアリはさらに勢いを増し、ほぼ棒立ちのイマーゴを一瞬にして飲み込んだ。

 オオアリが急制動を駆け、停止する。巻き上がった砂煙が視界を遮る中、オオアリは体の向きを入れ替え、奇妙な獲物の轢死体を確認しようとした。

 最初は自身の荒々しい足跡が残る、通過したばかりの地面を。

 次に、足跡の左右を。

 最後に、その場でぐるりと一回転した。

 イマーゴの死骸がない。

 オオアリは触覚で周囲を探るが、やはりどこにも見当たらない。ぶつかった時の衝撃でバラバラに吹き飛ばしてしまったのかもしれない。対人間の狩りの場合、時々ある不幸な事故だ。せっかくの獲物を踏みつけて、粉々にしてしまう事は。

 オオアリの圧勝。

 人間サイズの生物が蟲に相対して生き延びるのは、ほぼ不可能なのだ。

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