序章
噴き出た汗が、肌をなぞる間に蒸発する。
纏った分厚い外套を脱ぎたくなる衝動を、襟の合わせ目を握りしめて我慢する。
装具によってつくり出される僅かな陰だけが、刺すように降り注ぐ日差しから身を守ってくれるのだ。耐えるしかない。日射病にかかって行き倒れ、干物になりたくなければ。いや、その前に皮膚が焼け爛れ、全身火傷であの世行きか。
「あついな……」
連れが発した、ただ癇に障るだけの無意味な呟きは無視し、下を向いたまま歩き続ける。灼熱の大地を覆う乾ききった空気は、吸い込む度に胸が灼ける。
「大丈夫か?」
「……うっさいわね。ぶっ殺すわよ」
即座に言い返した。連れは急いで口を閉じる。ふん。よくもまあ、こんな場所で、そんな無駄口を叩けるものね。どうかしてるわ。
上り坂が終わった。やっと、丘の頂きに達したらしい。
「ふう」
息を吐くのは、そんなに辛くない。次にからからの空気を吸い込む必要がなければ、もっと気楽に溜め息もつけるんだけど。
丘を登る、という当面の目標を達したあたしは、担いできた荷物を足下に落とし、その上に腰を下ろした。焼けた砂の上に直に座ろうものなら、尻は丸焦げだ。どんなに分厚い外套でも役に立たない。旅の基本。
懐から水筒を取り出し、口をつける。流れ出てきたのはお馴染みのぬるま湯だが、潤いは喉に染み渡りながら、胃の腑へ沈んでいく。と、萎えきっていた気力がちょっぴり沸いてきたので、それを振り絞って辺りを見渡してみた。 視界いっぱい、一面に広がっているのは、赤茶けた砂、砂、砂……。それはいいとしても、目印になるものが見当たらない。せっかく苦労して高台に上ったっていうのに、現在位置を確認することができないなんて……くそっ。また気が滅入りそうになったあたしは、ほとんど無意識に水筒に口をつけた、が。
水がない。
水筒を振り、注ぎ口にぶら下がった数滴を残らず舌で舐め取る。ああ。これで本当に困った事になった。帰り道どころか、居る場所さえ分からない。食料は尽きかけ。水は今、尽きた。水筒を放り投げ、うなだれる。まだこんなに若いのに、このままここで乾いて、死んでいくんだろうか……。赤砂の上で朽ちて行く自分の姿をぼんやりと想像していると、
「無駄にするなよ」
見慣れた水筒が、あたしの目の前に差し出された。確かに、万年貧乏暮らしのあたしらには、どんな物資も貴重な宝物だ。礼を言う代わりに、貧乏暮らしの元凶である連れをひと睨みし、その手から荒っぽく水筒をもぎ取る。連れは肩をすくめ、地面を指差した。
「見ろよ、あそこ」
連れが言う。あたし以上に乾いた声。
「蟲だ」
「うそっ!?」
慌てて手足を引っ込めた。視線を落とし、目を凝らす。連れの言葉通り、眼下を一匹の蟲が這っているのを見つけた。ちょうど真上から当たる陽光を反射した外殻が、黒鉄のように輝いている。六本の脚をシャカシャカ動かし、逃げ惑う獲物たちを追いかけるその様は、いつ見ても気色悪い。
「オオアリ」
反射的に、記憶している蟲の名を呟いた。大嫌いだからこそ、瞬時に何の蟲か分かる、ってのも皮肉な話。ゴキブリじゃなかったのが不幸中の幸いね。
「……で、何ぼーっとしてるわけ?」
「へ?」
間抜けな返事ね。ほんっと、イライラするわ。
「このまま黙って、オオアリに餌をくれてやるつもり? 何とかしなさいよ」
「何とかって……僕が?」
「あんた以外、他に誰かいる?」
「だけど……」
ためらう連れに、あたしは目もくれず「うるさいわね」と苛立ちをぶつける。
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くしなさいよ」
「でも、こっちは一人だし……」
「だから?」
もごもご言う連れを突き放す。
「だから……その……」
「はっきり言いなさいよ」
「……まだ死にたくない」
「はあ?」
何を言い出すかと思えば。たかがアリ一匹よ? 笑わせるんじゃないわよ。
「僕は……」
「死なないって決めてるんでしょ。ご立派」
知ってるわよ、この根性なし。こんなのがあたしの師匠だってんだから、情けなくって泣けてくるわ。そうこうしている内に、オオアリは獲物を追って視界を横切って行く。
「ほら、本当に急がないと。みんな行っちゃうわよ」
「そんなこと言っても、一人じゃ無理だって」
連れの呟きを鼻で笑う。さっきも聞いたわよ、それ。
「あっそ。ま、あんたがやらないなら、あたしがやるだけよ。どうせ……」
このままじゃ野垂れ死になんだから。あたしが立ち上がるふりをすると、
「分かった、分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
連れは慌てて得物の槍を手にした。それを持って、さっさと行けばいいのに。背嚢を下ろすのはまあいいとして、腰帯をごそごそやって、何を取り出すかと思えば。
「……強化薬? あんた、まさかそれ、直射ちするつもりじゃないんでしょうね?」
「い、いや。まさか。これは、その……」
「絶対だめ」
もごもご言う連れに、ぴしゃりと言ってやった。
「大体、それ、ラストの一本でしょ? あんなアリごときに使うつもり?」
「だって、こっちは一人なんだぞ? 囮役さえいないんだから」
「獲物を追っ掛けてるんだから、それを利用すればいいでしょ。いいから、それはしまっときなさいって……あっ!」
あたしの隙をついて、連れは強化薬を腹甲の臍部分にある注入孔に注射した。薬剤に反応した甲冑が硬化し、装甲の継ぎ目から碧色の淡い光が漏れ出る。
あたしは盛大に溜め息を吐き、連れを睨んだ。
「せめて甲冑ぐらいは硬化しときたいってわけ? あいかわらず、贅沢ね」
あたしの皮肉を聞き流した連れは、
「じゃ、行って来る」
槍を肩に担ぎ、さも気乗りしない様子で丘を下りていく。殺蟲液ほどではないにせよ、バカ高い強化薬まで使ったっていうのに。なんなの、あの態度。
「だらだらしないの! 走れっ!」
あたしは乾いた喉に鞭打って檄を飛ばした。連れは尻を槍で突かれたかのように、焦って駆け出す。そんな滑稽な姿を見ても、あたしの溜飲は下がらない。
ムカつく。
あたしの母さんを殺した、あいつが。
あいつのせいで、約束されていたはずのあたしの人生は狂い始めた。ぶっ殺しただけじゃ、気が収まらない。……
ああ。考えれば考えるほど、ますますムカついてきた。
あたしはさっき連れが寄越したあいつの水筒に口をつけ、残っていた水で少しだけ唇を湿らせ、懐にしまった。
干涸びて野垂れ死になんて楽な死に方、絶対許さない。
あいつをぶっ殺すのは、このあたしなんだから。




