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村の井戸水はとても澄んでいた。
備え付けの滑車で何度も水桶を汲み上げ、心ゆくまで飲み、それぞれ水筒の縁いっぱいまで水を補充した後、カインとヒミコはジョナサンの家に通された。
家と言っても、村長の屋敷とは比べ物にならない質素な造りだ。戸を開けてすぐが厨房で、奥に寝藁が二つ並べられた小部屋がある。こちらは土間ではなく、年代物の床板敷きだ。部屋の間仕切りには申し訳程度に簾が垂らされている。
「では、私は集会場でおもてなしの準備を整えて参ります」
ジョナサンが言った。
「こんな場所で恐縮ですが、それまで今しばらくお待ち下さい」
二人にそう告げると、ジョナサンは家を出て行った。部屋の中を見渡しても、調理器具なども最低限しかなく、なんとも殺風景だが、これが標準的な農家の暮らしぶりなのだ。
荷を下ろし、土間に胡座をかいたカインは、腕を延ばし、長旅の凝りをほぐす。ヒミコは兜と荷を放り出し、マントを脱ぎ捨てるや、蟲事典を広げて読み始めた。
「勉強もいいけど、少しは休めよ」
カインの言葉に、ヒミコは眉をひそめる。
「あんたこそ、少しは勉強しなさいよ。そんなんだからランクも上がらないし、いつまでも良い仕事を回して貰えないのよ」
肩をすくめ、カインは藁が重なった天井を見上げる。ヒミコの溜め息。
「あの〈白騎士〉だって、歳はあんたとそんなに変わんないのよ? なのに、この差はなに? あっちは最年少でAランクになって、大捕り物の指揮を一任されて。あんたと来たら、万年Eランクのまま……」
「あいつはほんの子供の頃から訓練を受けて来たエリート中のエリートだから。比べてみたって、しょうがないさ」
「あんただって、昔は絶対にAランクの殺蟲師になるんだって、偉そうに言ってたくせに。今のあんたは、なに? あたしが殺蟲師になったら、こんな貧乏暮らし、絶対ごめんだわ」
「いいじゃないか。何とかやってけてるんだから」
「あたしが必死でやりくりしてるからでしょ」
「それは……感謝してる」
カインは天井を見上げたまま欠伸をすると、ごろりと横になった。その横顔に「ねえ」とヒミコが問う。
「いつになったら、あたしを殺蟲師にしてくれるの?」
「んん、まあ、そのうち」
「いっつもそればっかり」
ヒミコは膨れっ面で、目を瞑ったカインを睨む。
「……甲斐性なし」
カインが寝返りをうって背を向けたので、ヒミコはひときわ大きく溜め息を吐き、蟲辞典に視線を落とした。知識は人間が蟲に勝る唯一のアドバンテージだ。何度も読み返して、脳裏に刻み込むのは、決して損にはならない。そういう意味でカインが不勉強である点も、ヒミコは心底気に入らない。カインは粗野ではないし、根暗だが、乱暴ではないし、馬鹿だが、変態ではない。つまり、殺蟲師としては悪くない方なのだが、〈白騎士〉ストライカーや、ジョナサンのような容姿端麗で知的な紳士と比べると、ずいぶん見劣りしてしまう。
「……で、好きなのか?」
唐突に、カインが訊ねた。いつのまにかヒミコの方を向いている。
「は?」
蟲辞典を開いたまま、ぼんやりしていたヒミコは、カインの声に我に返った。
「なにか言った?」
「いや、ずっと上の空だったから」
「誰が?」
カインはヒミコを指差した。
「あたしが、何だって?
「いや、だから。ヒミコが好きなのかって。あのジョナサンって人」
「なっ……」
ヒミコの顔が火を噴いたように真っ赤に染まる。
「だ、誰が、あんな優男! 馬鹿言わないでよ。そりゃ、ちょっとは格好いいし、優しいし、礼儀正しいし、ストライカーさんに似てると言えば似てるし……」
つらつらとジョナサンの長所を並べ立てるヒミコを、カインはいつもの無表情で見つめている。それに気付き、ヒミコは眉を寄せた。
「……なに見てんのよ。ぶっ殺すわよ」
「やめときな。あの人は」
「なによ。なんで、あんたなんかにそんな事言われなきゃいけないのよ」
「当然だろ」
カインは身を横たえたまま、胸を張った。
「僕はお師匠に頼まれたんだから。ヒミコを守れって。だから、あの人には近付くな」
「あの人に近付かない事が、なんで、あたしを守る事になるのよ」
「……本当に気付かなかったのか?」
少し驚いた表情で、カインは腰巾着から縄の切れ端を取り出すと、ヒミコに投げて寄越した。
「……なによ、これ?」
ヒミコは摘み上げた縄を訝しげに見つめる。
「気付かないか?」
「なにが?」
「ところどころ、少し切り込みを入れた跡があるだろ」
「……ほんとだ」
「ほとんど分からないぐらいだから、普通に使ってればそうそう切れたりしないだろうけど、全力で走ったりして強い力がかかり続けたら、さすがに切れちまうだろうな」
「だから、どういう事よ?」
「その縄、薪を担ぐのに使っていた縄だ。……ヒネバチに連れて行かれたあの人が」
「ヒメバチだって言ってるでしょ、バカ」
口汚く訂正しながらも、ヒミコは驚きを隠せない。
「これって……つまり、縄が切れるように、誰かが仕掛けをしておいたってこと?」
「ものがものだけに、単なる悪戯で片付けるわけにはいかないよな」
「……でも、誰が?」
「切り口はそんなに古いものじゃない。となると、犯人は限られてくる」
「あの筋肉馬鹿?」
「……ああ。仲間が連れて行かれたってのに、追いかける素振りさえ見せなかったし。そういう意味じゃ、ヒミコがお気に入りのあの紳士だって怪しいわけだけど……」
「そんなはずないっ!」
思わず口走ってから「……と思う」と付け足す。ヒミコの感情の機微になど気付いていないのか、カインは呑気に大欠伸をすると、再び瞼を閉じた。
「どっちみち、僕たちには関係ない事だ。気にする事はないさ。でも、あの二人には油断しない方がいい」
「あたしは油断なんかしないわよ」
「そうかな。いつものヒミコなら、僕が気付くような事、とっくに気付いてるはずだ。なのに、やっぱりだ」
「なによ。なにがやっぱりなの」
「いや、やっぱり、お師匠が言ってた通りだと思って」
「母さんが?」
「うん。修行中、お師匠が言ってたんだ。ヒミコもいずれ恋をする。恋は盲目だから、そうなった時は、お前が気をつけてやれって」
「そうなった時ってどういう時よ」
「つっかえる時」
「そ、そんな事ないわよ!」
つっかえて口を閉ざしたヒミコを、カインが無言で見つめる。
「だから、なに見てるのよ。ぶっ殺すわよ」
「まあ、とにかく気をつけてな。……疲れた。少し寝る」
「何よ、えらそうに」
ヒミコは憤慨し、手にした縄切れをカインに投げ付けた。




