第8話:エルシェリア王国の王様
季節は変わり夏。夏の陽射しが、辺境の伯爵家の領地を容赦なく照らしていた。
丘の上に建つ石造りの館は、白い光を弾きながら静かに佇んでいる。だが、分厚い石壁の内側にいても、夏の熱はゆっくりと染み込んでくる。開け放たれた窓から吹く風もぬるく、カーテンは力なく揺れていた。
「あぅあう……(暑い…)」
ベビーベッドの上で、赤ん坊マーリンはぐったりとした顔で天井を見つめていた。
前世の記憶を持つとはいえ、身体は完全に赤ん坊だ。体温調節など器用にできるはずもなく、じわじわとした暑さにただ耐えるしかない。
この世界には魔法という便利なモノがありながら
エアコンの一つも無いらしい。
手足をばたばた動かしてみるが、涼しくなるわけでもない。
すると、隣から優しい声がした。
「んー?マーリン。そんな顔をしてどうしたの?」
マーリンの母、シャーレイだった。
長いピーコックグリーンの髪が夏の光を受けて淡く輝き、整った顔立ちはまるで絵画のように美しい。元エルフ王国の王女。その気品は、流石としか言いようがない。
彼女はマーリンをそっと抱き上げた。
「あぅ?」
「暑いのね。今お水を持ってきてもらうわ」
ひんやりした手が額に触れ、マーリンは少しだけほっとする。
(私の母の体温が低めで助かる……)
その時だった。
不意に――空気が変わった。
空間そのものがわずかに軋んだような、言葉にしがたい違和感。
屋敷全体を包む空気が、重く張り詰める。
(……なんだ?)
次の瞬間。
ズゥン――――ッ!!
腹の底まで響くような重低音とともに、屋敷全体が揺れた。
窓ガラスがびりりと震える。
「っ!?」
シャーレイが顔を上げ、窓の外を見る。
庭の中央から、もくもくと大量の土煙が立ち上っていた。
地面が大きく抉れ、視界を遮るほどの砂塵が渦を巻いている。
同時に、屋敷中の者たちが反応する。
「今のは何ですか、全く……」
廊下の窓際から姿を現したのはエルフのメイド、アキ。
鋭い眼差しを庭へ向ける。
「地面が揺れた。落下か、それとも衝撃系の魔法……」
隣に立つエルフのメイド、セレナが静かに呟いた。
閉じられた瞳のまま、周囲に満ちる魔力の流れへ意識を向ける。
厨房からは低い声が響いた。
「おーい、今度は何を壊したんだ、ヴァルドのガキンチョ」
料理長である鬼人のレオルドが腕を組みながら顔を出す。
「あのさぁア? 僕が壊した前提で話すのやめてくれるかなぁア?」
庭仕事をしていた獣人のヴァルドが、張り付いたような笑顔で反論した。
さらに厩舎の方からルークスが歩いてくる。
「はぁ……またヴァルド様ですか?」
「だからぁア、違うって言ってるよね?」
軽口を叩き合ってはいる。
だが誰一人として油断はしていなかった。
全員が理解している。
これは――異常事態だと。
アキが眉をひそめる。
「……セレナ、前者の様です」
視線の先。
庭の中央付近から大量の土埃が立ち上っていた。
地面が大きく抉れ、砂塵が渦を巻いている。
何かがいる。
だが、土煙が邪魔をして姿までは見えない。
セレナが静かに息を吐く。
「強い魔力……」
その声音はいつも通り落ち着いていた。
だが僅かに警戒が滲んでいる。
「これはぁア、厄介だなぁア」
ヴァルドからも笑みが消える。
ルークスは耳に集中し、厩舎の馬たちの様子、他に賊がいないかを確認する。
レオルドは小さくため息を吐いた。
「……面倒なのが来たな」
そんな中、マーリンは母の腕の中から必死に目を凝らしていた。
(なんだ……?)
次の瞬間。
バサァァァァァッ!!
突風が庭を叩きつけるように吹き荒れた。
木々が大きくしなり、窓から流れ込んだ風が室内を駆け抜ける。
カーテンが激しくはためく。
巻き上がっていた土埃が一気に吹き散らされた。
砂塵の幕が剥がれ落ちるように消えていく。
そして風が止む。
揺れていた木々も静まり返る。
庭の中央。
そこに、一人の青年が立っていた。
長い灰色の髪が風に揺れる。
透き通るような白い肌。
すらりとした長身。
そこに立っているだけで周囲を支配するような、圧倒的な威厳。
空気が張り詰める。
誰も言葉を発しない。
ただ、その存在に目を奪われていた。
(……誰だ)
「…………えっ……」
シャーレイが呆然と呟いた。
その声には驚愕と喜びが混じっていた。
「お父様……?」
マーリンは固まった。
(お父様?)
つまり。
今、庭のど真ん中に隕石みたいな勢いで降ってきたこのエルフは私の祖父ということになる。
庭に立つその人物は、ゆっくりと館を見上げる。
確か、私の祖父は、エルフの国――エルシェリア王国を統べる王。
名をオベロン。
王たる威厳を纏ったその男は、静かに微笑んだ。
その瞬間。
庭にいた全員が理解した。
先ほどの異常な気配も、常識外れの登場も。
全部コイツの仕業だと。
◇
「やあ、シャーレイ! 久しいね!」
口調は軽い。
まるで散歩の途中で立ち寄ったかのような気安さだった。
だが、その声が響いた瞬間。
庭を満たしていたざわめきが、嘘のように消えた。
使用人たちは言葉を失い、誰もが息を呑む。
風の音さえ遠のいたような錯覚。
オベロンは何もしていない。
魔力を放ったわけでもなければ、威圧したわけでもない。
それなのに、その場にいる全員の意識が自然と彼へ向いてしまう。
(……なんだ、この人)
思わず息を呑む。
前世を含めても、こんな存在には会ったことがない。
強いとか弱いとか、そういう次元ではなかった。
そこに立っているだけで、自分と相手の格の違いを理解させられる。
エルシェリア王国の頂点。
数多の民を率いる王。
――オベロン。
その名に相応しい威厳が、静かに、しかし圧倒的に周囲を支配していた。
次の瞬間、オベロンの視線はシャーレイの腕の中に居るマーリンに向いた。
「……へぇ?」
灰色の瞳が、じっと赤ん坊を見つめる。
そして、ほんのわずかに目を細めた
「ねえねえ!シャーレイ!それが僕の孫かい?」
マーリンは祖父と目が合った瞬間、理解した。
(……普通じゃない)
理由は分からない。
敵意を向けられたわけではない。
むしろ、その灰色の瞳はどこまでも穏やかだった。
だけど、私はこのオベロンという男にどうしようもない違和感を感じていた。
(なんでだ……?)
孫を見つけた祖父らしく。
嬉しそうですらある、その表情の奥が見えない。
怒りも喜びも、確かにそこにあるように見える。
なのに実感がない。
まるで絵本に描かれた笑顔を見ているような違和感。
彼にはそう、中身が感じられない。
底のない穴を覗き込んでいるような気味の悪さがあった。
オベロンの顔は、ゆっくりと緩んでいった。
優しげな笑み。
誰が見ても好感を抱くだろう自然な表情。
だからこそ、マーリンは寒気を覚えた。
その笑顔があまりにも完成されていたから。
「はい!お父様!この子が私の息子のマーリンです!」
とシャーレイが嬉しそうに答える。
「うんうん!そっかそっか!」
灰色の瞳が静かに細められる。
そのまま、視線だけを置いていくようにして。
やがて、小さく微笑んだ。
夏の陽光が庭を満たす。
その中で、オベロンの存在だけが、どこか現実から浮いて見えた。
◇
季節は真夏。
強い陽射しの下、辺境伯爵家の庭に立つエルシェリア王オベロンの姿は、まるで森から現れた精霊のようだった。
シャーレイはマーリンを抱いたまま、急いで玄関へ向かう。
「お父様、本当にお父様なのですね……!」
扉を開けると、そこには変わらぬ若々しい姿のエルフの王が立っていた。長い灰色の髪、透き通るような肌、そして見るものを静かに深淵へと導く灰色の瞳。
屋敷の内側では、先ほどまでの慌ただしさが嘘のように消えていた。使用人たちはそれぞれの持ち場で、騒がず、ただ状況を見ている。
「久しいね!シャーレイ」
オベロンは軽そうに言う。
「思ったより元気そうで良かったよ」
とにこやかな顔をする。
するとシャーレイは少し目を潤ませながら微笑んだ。
「はい……お父様も」
「ふふふ、さて、親子の感動の再会といきたいところだけど……」
オベロンわざとらしく肩をすくめ、口元に笑みを浮かべた。
「隠れてないで出ておいでよ」
その言葉と同時に、玄関の扉の陰から男が現れた。
ダークブルーの髪、鋭い青い瞳。
日焼けした肌に鍛え上げられた体。
整った顔立ちに、どこか豪胆な笑み。
エヴァンスの片腕であるカイロスだった。
数々の戦場を駆けた英雄。「黄金の英雄」と呼ばれる男と幾度の死線をくぐり抜けた武人。
彼はエヴァンスの仲間の一人で情報収集の能力は人一倍高い。
彼はオベロンの前まで歩いてくると、オベロンを真っ直ぐ見つめた。
数秒の沈黙。
空気がわずかに張り詰める。
そしてカイロスはゆっくりと頭を下げた。
「……遠路はるばるようこそお越しくださいました、エルシェリア王陛下」
礼儀としては完璧な挨拶だった。
だが、その声色に過度な緊張はない。
相手が王だろうと魔王だろうと接し方が大きく変わらないのがカイロスという男だった。
オベロンはそんな彼を見つめると、ふっと鼻で笑った。
「堅苦しいね」
一歩前へ出る。
「僕は今日、王として来た訳じゃない。連絡も来てないだろ?」
「だからそんなに畏まらなくていいよ」
そう言って視線をシャーレイの腕の中へ向けた。
そして嬉しそうに目を細める。
「今日は孫に会いに来ただけさ」
その瞬間。
カイロスの肩から力が抜けた。
「あー……そうっすかぁ」
盛大に息を吐く。
「いや、だから良いとはならねぇんですけどね?」
頭を掻きながら苦笑した。
「今度から事前に連絡くれませんかねぇ。そういう情報を俺が伝えとかねぇと、トートの奴がブチ切れるんですよ」
「あはっ、トート君も元気かい?」
オベロンは気楽そうに尋ねた。
「財務忙しいんでしょ?」
「いやぁ、めっちゃくちゃ元気っすね!」
カイロスは即答した。
「今日もエヴァンスの奴が領収書出し忘れたとかでブチ切れてましたからね!」
ははは、と笑う。
するといつの間に背後に居たのか
「今死ぬか、俺の仕事全部代わってから死ぬか選べ」
耳元で、低い声が響いた。
「っ!?」
カイロスは飛び上がった。
「うおっ!?」
慌てて振り返る。
「いきなり現れて耳元で喋りかけんなよなぁ!!」
そこに立っていたのは一人の男だった。
金髪碧眼。
整った顔立ち。
引き締まった体躯。
本来ならば貴公子と呼ばれるべき容姿。
ただし。
目の下の深い隈と死んだ魚のような目を除けば。
まるで死体だった。
立って歩いて喋っているのが不思議なくらいな状態だ。
「俺はすこぶる元気なようだからな」
トートは笑う。
「あっはははは!!」
目は笑っていなかった。
全く。
一切。
欠片ほども。
「今ならお前の事を塵一つ残さず殺せそうだ」
さらりと告げる。
「ひぃっ!?」
カイロスが一歩下がる。
「わ、悪かったって!今日の仕事は俺が代わってやるからよぉ!」
「本当か?」
「おう!」
「じゃあ三百七十二件ある書類全部任せた」
「ごめんなさい」
カイロスは即座に土下座した。
光の速さだった。
「死ね」
「ごめんなさい!!」
額を地面に擦り付けながら全力で謝罪する。
「あっははは!」
その様子を見て、オベロンが楽しそうに笑った。
「死体みたいな顔してるね、トート君」
「…………」
トートは無言でオベロンを見た。
数秒。
沈黙。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……何故、貴方がここに居るんですか」
心の底から疲れ切った声だった。
「孫に会いに来たのさ」
当然のように答えるオベロン。
「………………お一人で?」
「一人で来る訳ないじゃないか!」
即答だった。
トートの眉がぴくりと動く。
「……では、他の方は何方に?」
「僕の隣にいるよ?」
「……誰も居りませんが」
「いるよー?」
「…………」
トートは無言になった。
数秒。
本当に数秒だけ考える。
もしかしたら自分が見えていないだけなのかもしれない。
過労による幻覚。
睡眠不足による認識異常。
その可能性を真面目に検討した。
そして結論を出す。
やはり誰も居ない。
「……では」
トートは努めて平静な声を出した。
「こちらへ来られる事を、誰かに伝えましたか?」
これだけは確認しなければならない。
国王が国外へ出た。
しかも他国の伯爵領へ来た。
誰にも伝えていないなど許されるはずがない。
許されるはずがないのだ。
オベロンは満面の笑みで答えた。
「そんな事したら此処に来れる訳ないじゃないか」
トートは黙った。
何も言わなかった。
いや、何も言えなかった。
虚空を見つめる。
やがて。
「…………はは」
笑った。
「あっはははははははははははは!!!!」
トートは壊れた。
完全に壊れた。
長時間労働。
慢性的睡眠不足。
終わらない決裁。
増え続ける予算管理。
山積みの書類。
そして今。
国王無断入国。
積み重なった疲労が、ついにトートの思考回路を焼き切ったのである。
カイロスの顔が引き攣った。
「やべぇ!? トートが壊れた!?」
「あっはは!」
オベロンは実に愉快そうだ。
「ちょ、オベロン陛下!虐めないでやって下さいよぉ!」
「えーー?虐めてないよ?」
その横で。
「あはっ!!あーはははは!!」
トートは狂ったように笑いながらカイロスの肩を掴んだ。
力が異様に強い。
「なあ、カイロス!!」
「お、おう!?」
「何がおうだ!!殺すぞてめぇ!!!」
目が怖い。
視線だけで人が殺せそうだった。
「さっさとエルシェリア王国へ連絡してこい!!」
「へ?」
「オベロン陛下がアークレイン領に来たってなァ!!」
「お、おう…!」
「良かったなぁトート!!」
トートは満面の笑みを浮かべた。
目は死んでいた。
「更に仕事が増えるぞォ!!」
「お、おい……」
「今日は寝ずのパーティだァァァァ!!」
「あっははははは!!」
完全に情緒が崩壊していた。
「じ、情緒がぶっ壊れてんぞ!? 大丈夫か!?」
「は???」
トートの笑顔が引き攣る。
「大丈夫な訳ねぇだろ!!」
怒鳴った。
「大丈夫な奴は徹夜しねぇ!!!」
さらに怒鳴る。
「何十時間も激務で死にかけたりなんてしねぇんだよォォォ!!」
悲痛な叫びだった。
もはや地獄絵図だった。
その様子を見ていたマーリンは思わず声を漏らす。
「あぅぁうあ……」
前世では人の心が無いと言われる程、非人道的な実験を繰り返してきたマーリンですら。
(うわ、可哀想……)
そう思わずにはいられなかった。
◇
その喧騒に紛れるように、屋敷の内側では静かに事後処理が進められていた。
「……トート様、限界ですね」
アキは痛々しいトートの姿に、思わず眉を曇らせた。
だが、セレナはトートの状態を確認しながら、淡々と分析結果を告げた。
「消耗は大きいけど、まだ働かせても問題ない」
感情の起伏を感じさせない声。
だが、それは彼女なりの「心配ない」という意思表示でもあった。
ヴァルドが折れた枝を片手で持ち上げながら、土煙の残る惨状を見回していた。
「庭がちょっと荒れちゃったなぁア……」
のんびりとした口調とは裏腹に、その腕には青筋が浮かび上がっている。
枝を握る指先には徐々に力が入り、乾いた木片がミシミシと悲鳴を上げ始めた。
それを察したルークスが静かに歩み寄る。
「被害は最小限です」
穏やかな声が響く。
「木々の根も無事です。修復は十分可能ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルドの身体を包んでいた重圧のような気配がふっと薄れた。
「あぁ、そっかぁア」
ヴァルドはほっとしたように肩の力を抜いた。
庭木が無事だと分かれば、彼の興味はもうそこにはない。
その様子を横目に見ながら、レオルドが口を開く。
「で、ルークスのガキンチョォ、賊は他に居ねえのか?」
「ええ」
ルークスは即答した。
「確認できた侵入者は彼一人だけです」
「そうか」
レオルドは短く頷く。
すると今度はヴァルドが首を傾げた。
「でぇ、どぉするぅ? 殺すぅ?」
さらりと物騒な言葉が飛び出す。
間髪入れず、アキが眉をひそめる。
「ヴァルド。他国の王に対して不敬ですよ」
「あァい、分かったよぉ」
全く反省しているようには見えない返事だった。
だが少なくとも従う意思はあるらしい。
ルークスは苦笑を飲み込みながら話題を戻した。
「それで、アキ。この後はどのように動きますか?」
「カイロス様とトート様が対応中です」
アキは迷いなく答える。
「私達は通常業務へ戻りましょう」
その一言で方針は決まった。
「んじゃ、撤収撤収」
レオルドがひらひらと手を振る。
すると隣から間延びした声が響いた。
「レオルドぉ~、お腹すいたぁア。何か作ってぇ」
「さっき昼飯食ったばっかだろ」
レオルドは呆れたようにため息を吐く。
「夜まで待てや」
「えぇぇぇ……」
不満そうな声が庭に響く。
その横でルークスは遠くの厩舎へ視線を向けた。
「はぁ……馬たちが震えていなければ良いのですが」
先ほどの騒ぎを思い出し、心配そうに呟く。
すると盲目のセレナが無表情のままアキへ振り返った。
「アキ。今のうちに奥様の部屋、掃除する」
「ええ、そう致しましょう」
二人は連れ立って屋敷の奥へと歩き出す。
各々離散し、仕事に戻っていった。
◇
「あぅぁうあ……」
前世では人の心が無いと言われるほど、非人道的な実験を繰り返してきたマーリンですら。
(うわ、可哀想……)
そう思わずにはいられなかった。
すると。
何故かその場にいた全員の視線が、一斉にマーリンへ集まる。
(え、なに)
「ぅ……ぅあああああ!! すびまべぇぇぇん!!」
真っ先に泣き出したのはトートだった。
堰を切ったように涙が溢れる。
「うるさかったですよねぇぇぇぇ!!」
「いや何で泣いてんだよ!?」
カイロスが即座に突っ込む。
「坊ちゃんが怖がるだろうがよぉ!」
「だってぇ……だってぇ……」
「あー、すんませんね坊ちゃん。コイツもうボロボロで」
頭を掻きながらカイロスが苦笑する。
「二人とも反省!」
シャーレイがぴしゃりと言った。
「お父様の前で見苦しい所を見せないの!」
「あはは、叱られちゃったね」
オベロンは実に楽しそうだ。
その反対にトートは大号泣していた。
「あぅぅ?」
マーリンはぽかんとする。
「ほら、トートも泣き止みなさい」
シャーレイが苦笑した。
「仕事は私も手伝ってあげるから」
「でもぉぉぉ……シャーレイさんは出産で大変だったんですからぁぁ……」
「半年も前の話よ」
「それに貴方、もう限界でしょう?」
「ぐっ……」
現在の惨状を思えば反論できない。
「はい……ありがとうございます……」
そんなトートを見て、マーリンは小さな手をぱたぱた動かした。
「あうあう」
「ふふ」
シャーレイが微笑む。
「マーリンもトートにお疲れ様だって」
「坊っちゃまありがとうございます……」
「トート君、抱っこしてあげたら?」
オベロンが軽い調子で言った。
「え!? オベロン陛下何でですか!?」
「スキンシップはストレスや不安を和らげるらしいよ?」
「だったら坊っちゃまじゃなくても良いじゃないですか!」
「えー? トート君は僕とスキンシップしたいのかい?」
「それとも俺かぁ? 仕方ねぇなぁ」
「殺すぞ」
即答だった。
シャーレイはくすりと笑い、そっとマーリンを差し出す。
「トート、抱っこしてあげて?」
「えっ……」
トートの顔色が変わった。
「で、でも……」
「好きなんでしょ? 子供」
「そうですけど……」
トートはマーリンを見る。
そして。
「だ、駄目です!!」
全力で首を振った。
「坊ちゃんは小さいんですよ!?」
当たり前である。
赤ん坊なのだから。
「落としたらどうするんですか!?」
「落とさないわよ」
「ぶつけたら!?」
「ぶつけないわよ」
「潰したら!?」
「潰さないわよ」
「本当にですか!?」
「貴方が抱くのだから貴方がしっかりしてれば大丈夫でしょ!!」
「………っそうでした!」
マーリンはじっとトートを見上げた。
くりくりした瞳で。
じーっと。
ただひたすら見つめる。
「うっ」
トートが固まる。
「そんな目で見られたら……断れないじゃないですか……」
恐る恐る両腕を伸ばす。
まるで伝説級の魔導具でも扱うかのような慎重さだった。
シャーレイは優しくマーリンを預ける。
「ばぶぅ」
「ひぃっ」
抱いた瞬間。
トートの身体が硬直した。
呼吸まで止まる。
「こ、壊れてしまいそうです……た、助けてください……!」
トートは今まで一度もマーリンを抱こうとしなかった。
だが、それは決して無関心からではない。
彼は生来子供好きで、数少ない休日にはマーリンのために玩具を買って帰るような男だった。泣けば気に掛け、笑えば密かに喜ぶ。いつだって遠くから見守っていた。
彼はマーリンがあまりにも小さく、脆く見えてしまい、自分の手で壊してしまうのではないかと、本気で恐れていた。
そんな彼が今、初めて腕の中にマーリンを抱いている。
ただでさえ疲労の限界だった。
赤ん坊を抱くという幸福感だけで意識が飛びそうになる。それでも最後の気力を総動員し、どうにか平静を保つ。
もしも自分の不注意で怪我など負わせてしまったら――。
そう考えるだけで、比喩ではなく本当に血反吐を吐きかねない。
その不器用なほどの優しさを、マーリンはちゃんと知っていた。
だからこそ。
小さな手が、そっとトートの服を掴む。
次の瞬間。
淡い金色の光が指先から零れた。
ふわり、と。
春の日差しのような温かな光。
それはトートの腕を伝い、全身へと広がっていく。
疲労で軋んでいた身体が軽くなる。
張り詰めていた神経がほどけていく。
まるで柔らかな湯に浸かったかのような心地よさだった。
「…………え?」
トートが目を瞬かせる。
「え……?」
もう一度、彼は。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
絶叫した。
「ぼ、坊っちゃま!?!?」
金色の光に包まれながら大混乱する。
「え!? え!? 坊っちゃまが!? 魔法!?!?」
「なっ!?」
シャーレイが目を見開く。
「ま、マーリン!?」
「はぁぁぁぁぁ!?」
カイロスも素っ頓狂な声を上げた。
「魔法だとぉ!?しかもそれ光魔法じゃあねぇか!?」
その場に驚きの声が上がる。
誰もが目を丸くしていた。
一人を除いて。
「…………へぇ」
オベロンだけは小さく呟いた。
その声音に驚きはない。
ほんの数秒マーリンを見ていたが、次の瞬間には興味を失ったように視線を外す。
善意で疲労回復をしただけなのに。
思っていたより大事になっていてマーリンは困惑していた。
「いやいやいや! 赤ん坊だぞ!?」
カイロスが頭を抱える。
「そうね」
シャーレイは頷いた。
「私の息子が天才ってことね」
「違ぇよ!!」
「光魔法だぞ!?」
「つまり大天才ね」
「話が通じねぇ!!」
今のシャーレイは母親だった。
しかも親バカモード全開の。
理屈など届かない。
「おいトート! シャーレイがアホになってるぞ!」
「はぁぁぁぁぁ……癒やされるぅぅぅ……」
トートは既に光魔法と赤ちゃん成分で完全に浄化されていた。
「お前もかよ!!」
カイロスが叫んだ、その時だった。
「あはは! 凄い顔してるな、ムッツリ大臣!」
「誰がムッツリ大臣ですか!!」
反射的に怒鳴り返したトートが固まる。
シャーレイは、そこでようやく気づいた。
「…………って、エヴァンス!?」
「ああ!」
誰一人として気付かなかったが、いつの間にかエヴァンスは帰っていたようだ。
「なんでいるのよ!!」
「?帰ってきたからだな?」
「説明になっていないわ!」
シャーレイが食ってかかるが、エヴァンスは本気で何が問題なのかわかっていないような顔をしていた。
「そんな事よりよぉ!」
カイロスが強引に割って入る。
「エヴァンス!! 坊ちゃんが光魔法使ったぞ!?」
ようやく話の通じそうな相手が来た。
そう安堵したのも束の間。
「ああ! 凄いな!」
「軽いな!?」
カイロスが絶叫した。
「赤ん坊だぞ!?」
「そうだな?」
「だったらもっと驚けよ!!!」
エヴァンスは豪快に笑う。
「ははは!俺の息子は天才って事でいいじゃないか!」
「…………もうそれでいいかぁ」
カイロスは全てを諦めた。
「はぁ……情報規制しとかねぇと」
頭を抱えながら項垂れる。
そんな中。
「やあ!」
オベロンが手を振った。
「お、義父上!久々だな!」
「うん、久々だね」
オベロンは楽しそうに笑う。
「君の周りはいつも賑やかだね」
「ああ、そうだな!」
すると、固まっていたトートが、我に返った。
「…………あ」
そして次の瞬間。
「エヴァンス!?!」
「なんでここに?!! 調査は!? 調査はどうした!!」
「終わらせたから帰ってきた!」
「あの距離を…いや、それにしても早すぎでしょうが!」
「まあ、調査をする必要が無かったからな!」
「?エヴァンスよぉ、調査する必要が無かったってどういう事だぁ?」
とカイロスは首を傾げる。
「そうです!しっかり説明しなさい!!」
とどさくさに紛れてマーリンの頬っぺにスリスリするトート。
「ああ!それは後で報告書にまとめるとしてだ!」
「いつまで玄関前にいるんだ??」
「「あ…」」
「す、す、すいません、オベロン陛下!どうぞ中へ!」
「んー?僕は楽しいからここででもいいよー?…どうせ、魔導具のひとつも買えてなくて中も暑いんでしょ?」
「あはは!その通り!」
「エヴァンス!お父様にそんな事威張って言わない!!殴るわよ!?」
言い終わるより早く、シャーレイの拳が飛んだ。
だがエヴァンスは慣れた様子でひらりと身を逸らす。
「おっと」
拳は空を切った。
「そういうのは殴る前に言ってくれないか?」
「今言ったでしょうが!!」
「いや、殴りながらだったぞ?」
「細かいことはいいの!!」
そんな様子を見て、オベロンは小さく笑う。
「本当に賑やかだね」
「そうだな!」
エヴァンスはどこか誇らしげに胸を張った。
シャーレイは呆れたようにため息を吐く。
夏の日差しは相変わらず強い。
笑い声と騒がしい会話に包まれながら、一行はようやく屋敷の中へと足を踏み入れた。
エヴァンスが持ち帰った報告。
マーリンが見せた初めての魔法。
そして、今日起きた様々な出来事。
それらを語るには、まだ少し時間が必要だった。
賑やかな声を残しながら、屋敷の扉がゆっくりと閉じる。
ただ一つだけ確かなのは――。
今日という日が、決して退屈な一日では終わらないということだった。




